いつだったか酒宴の席で友人に言ってみた。「何で人を殺してはいけないんだ?」それに対して普段は温厚なKが、「そんなこと聞かなくても当たり前だろ?」と吐き捨てるように言った。つまらん世俗の話をするよりマシかと思ったが、まあ、そういう答えもあるだろう。「当たり前のことを言葉にしていうのも難しいんじゃないんか?」と言おうと思ったが止めた。
話を寸断されるなら止めた方がいい場合がある。話題を振っても盛り上がらないこともある。仕方がない、メンバー構成の問題だ。同じことを別の場であれば意見の乱舞や対立もあろうし、それは話題そのものへの真剣さだったりする。哲学的な話題を好む人間もいれば、低俗週刊誌ネタを好む人間もいる。後者が、「場」の空気を支配しているなら静観をする。
重要な問題について話しあう席において、「空気を読めよ」という物言いに腹を立つことはあるが、下世話で盛り上がる場を濁すこともない。バカ話の席で意見の対立に意味はなく、バカ話に順応することも大人の「芸」であろう。が、対立を好まぬ人間もいれば、対立を怖れる人間もいる。対立のない集団、対立のない組織、対立のない人間関係はおそらくない。
表に出す、出さないはあれ、人間のいるところ、必ず対立はある。男と女、大人と子ども、親と子、老人と若者、上司と部下、教師と生徒、体制と反体制…。こうした世代対立、上下対立、異性対立というのは、ないよりむしろあるのが健全であろう。対話は会話ではない。対話は結論を模索しない会話とちがって、是非や真理について意見を述べ合うこと。
それぞれの考えを表明するのは大事だが、親和性を好む人間にとって対話は喧嘩のように感じるようだ。確かに日本人にあっては、相手の意見に反対するということは、侮辱という考えになり、だから議論をしづらい雰囲気もある。細かく分析するなら、日本人には、「気心が知れる相手」と、「気心が知れない相手」という格差というようなものを重視する者がいる。
こういう相手の性格を読み取って、自己規制を働かせるのも「芸」である。平易な言葉でいうと、気むずかしい人間もいれば、キャパの小さい人間もいる。知識のないことを話したがらない人間もいる。興味のない話題には閑古鳥を決め込む人間もいる。他人から物を教わるのを極度に嫌う人間もいる。これらは、気心の知る知らないとは別の人間的資質であろう。
相手の自尊心を考えるのも優しさである。優しさはいたわりであり、同情や侮辱心があるのは、見せかけの優しさであり、優しい素振りで相手を見下げているに過ぎない。大きな心を持った人間は、言い合いや議論に勝って喜んだりはしない。和やかな「場」にあっては、己の強烈な「我」を通すべきではない。そいう自己規制を働かせるのも心の大きさである。
無欲の人間が有能である場合と、まるで無能である場合とがある。他人を蹴落としたい、他人を言い負かせたい、そうした他人に勝ちたい人間は、どこか人間的なゆとりがない。「死んで花実(はなみ)が咲くものか」という言葉を信奉した時期もあった。生きているということは存在感をアピールすることで、存在感なき人間は生きてる価値すらないと考えていた。
これが若い頃の自分であった。存在感を懐に、前に前に出ようとするから、敵も多かったろう、厭う人間もいたろう、妬まれたり僻む人間もいた。が、そうした「僻み根性」などは気にもしなかった。こちらが手当てをすることも、治してやることもできないからだ。が、経年になって、「金持ち喧嘩せず」という言葉を美しいと思うようになった。これには様々解釈がある。
①精神的余裕があるので、イライラしない。だから、喧嘩になりにくい。
②金持ちは喧嘩になる前に些細なことは譲ってやろう、という意識になる。
③互いが痛い思いをする喧嘩も含めて双方に利はない。場合によっては賠償責任等が問われることもある。金があることに付け込まれ、狙われて喧嘩を吹っかけてくる人もいるわけで、それは注意して避ける。
④くだらない喧嘩をする暇があれば、金儲けの一つでも考える。
⑤大した金もないのに、他人(貧乏人)を見下した言い方として使われる。
弱い犬ほどよく吠えるというように、金持ちは小者の戯言を相手にしない。という生き方は僭越だが喧騒を防ぐ意味で一理ある。相手にしないのは、無視する、バカにするもあるが、相手を尊重する意味もある。人が何を言ったところで、所詮は他人の人生であって自分には関係ない。これを信奉するようになった。人を見下さなければプライド維持できない人間がいる。
自信がないのだろう。人のいいところを見つけて褒める方が得るものがある。まだまだ完成途上だから、得るもの、修正したところは多く、つまらぬプライドを振りかざしたりはしない。将棋仲間から、「強いね~」と言われるが、自分が強いと思ったことはない。相手がミスをするから勝ってるわけで、自分が手も足もでないほど強い人はいくらでもいる。
自分より弱い相手を見つけて、「弱いね~」と嬉しがる人間がいる。まさに「お山の大将」である。いつも自分より下を見ている人は、自分の思う、「つまらない人間」の代表である。吉川英治は、「われ以外皆師なり」といった。彼はまた、「職業に貴賤なし。いかなる職業に従事していても、その職業になりきっている人は美しい」という言葉ものべている。
自分を成長させるという点においては、いかなる職業にも当てはまるという事を汲み取っているのだろう。自分の理想を言葉にするのは照れることでもないが、憧れの意味と自己確認のために記事として書いているが、自らに言い聞かせていればいいことであり、日常口にすることはない。自分の心の在り方を言葉や文字にし、他人に向けていうのは烏滸がましい。
ブログの記事は他人に向いていうのは躊躇われても、自身に向けて言うなら素直に抵抗なしに言えたりする。己が是とするもの、あるいは非とするものは他人に関係なく、気にすることもない。自分の論に対する他人の異論・反論はまったく自由で、それに対する反感は抱かない。相手が真理と思えば納得し、称賛もするが、誤解ありと思えば説明をしたりする。
論理というのは上手くできており、論理で物事を突き止めれば感情を封じ込めることも可能となる。一般的に、「人間は感情の動物で理性は感情を凌駕できない」などというが、それだと人はメチャメチャになる。人間が生身である以上、冷静になれないこともあろうが、鎮める努力はすべきである。日々の訓練で可能となる。その意味で自分は長期の訓練を強いてきた。
かつて人に殺意を抱いた自分だ。人とは母である。あの時のことは再現ビデオのようにくっきりと覚えている。台所から包丁を持ってきて、机の引き出しに忍ばせていた。刺せば殺せる。自分の日常生活の最大の障壁を亡きものにできるし、そうした障害物を排除したいと思うのは当然であろう。殺すなどは簡単で、やれる自信はあったが、その後のことを念入りに思考した。
当然にして監獄に入ることになる。そこは冷え冷えとしたところであろうし、食って出して寝るだけの、殺伐としたところであろうし、友人もいない、誰とも会えない、娯楽もない、自由もない、そういう日々かと想像した。16歳であったが、「少年法」に対する知識もなく、大人と同じような刑罰を受けると考えた。思考で得たものは、母を殺しても何の得はない。
そう結論した。理性が感情を封じ込めるものだと理解させられた。世界のあらゆるところで親を殺めた少年・少女たちが、自らの損得について思考したのか否か分からないが、どのような状況下であれ、人を殺めて収監されて、殺したことの得を上回る満足があるのだろうか?咄嗟の殺人はそうした思考は及ばないにしろ、計画殺人なら思考の余裕はあるはずだ。
本気で人を殺そうと思った経験がある自分ゆえに、思考することの重要性を書いている。人を殺そうとする前に、せめて殺せばどうなるか、損得はどうかくらいは考えるべきかと。いうまでもないが、世の中には善人と悪人がいる。己も含めて悪人は分かり易いが、真の善人に出会ったかどうか分からないほどに、善人は分りずらい。善人らしき人には幾人かであった。
善人の定義は、「悪を行為しない人」?違うな。人間である以上、善人も悪を行う。なぜなら、人間は「欲」と「見栄」と「嘘」で出来ている。悪人とはいえイロイロで、普通の悪人、極悪人がいる。人を殺せばどうなるか?を考えないのが極悪人で、普通の悪人は、殺したあと、我が身の処遇について思考したり、あるいは捕まらないための算段をしたりする。
「善人が人を殺すか!」でなく、善人も人を殺すが、だからといって悪人ではない。殺さねばならないのっぴきならぬ状況というのがあったのだ。そういう経験がないから分からない。食うか食われるかの戦争体験もないし、戦争による殺人は罪とならない。あくまで兵士に限りであって、武器を持たない無防備な民間人の殺戮は許されない取り決めがあった。
それでも無差別爆撃や原爆投下など、勝てば官軍、強者の論理で如何様にも正当化する。戦争は事件でなく、戦争から学ぶことは唯一戦争しない事。文明も民族もすべてを破壊する戦争は人類にとって何の益もない。同じように人を殺す利益は何だろう。消えて欲しいと願った親であっても殺す利益は見つからなかった。それでよかった、正しかったと後にして思う。
人は殺人を自己正当化する。2014年10月1日に北海道空知郡南幌町で女子高生が母親と祖母を殺害した事件があった。祖母や親から受けた虐待が動機の背後にあった。それを手助けした姉に殺人幇助の執行猶予判決が降りた。当初は幇助といわれたが、「祖母がいなくなればいい」という姉の言動が妹の殺人を後押しした。姉は自ら手を下さず、憐れな妹を助けたという。
事実は違った。何とも卑怯な姉である。人を殺す勇気が自分になく、妹を犯罪に誘導した姉。「困った」という言葉ばかりで何もできない人間に対し、義憤を感じて手助けする、これも人間の一面だ。が、そういう人間は人のフンドシで相撲を取ろうとする。何ともつまらぬ姉を持った妹である。妹は事前に友人にこう告げていた。「自分とお姉ちゃんの自由のために殺す!」
一人っ子の自分はこの事件を思考し、兄弟の怖さを知る。もし、自分に兄(姉)がいて、兄も自分と同じような苦しみを母から受けているのを知るが、おっとり兄は、自分のようなやんちゃな性格にあらずして、親に逆らえないいい子である。「こんな母はこの世から消えて欲しい…」などと打ち明けられたらどうしたか?自分が慕う兄だったら…。そんな殺人の動機もある。