自分のしたいことをし、楽な生活を送り、本能を満足させることを幸福と思い、それを求めて生きる人の多いこんにちだ。あるいは現世的利益を約束する新興宗教が目覚ましく信者を増やし、発展を遂げている時代でもある。それに比べて禅寺で苦行を行う修行僧たちは、世間一般的に何とも奇異に映る。彼らの生活は幸福の要素をまったく欠いているようである。
己の持ち物を持たず、結婚生活も営まず、しかも上長の意に従う日常を送ることをもって建前とするからである。禅寺の仏教僧に限ったことではない、キリスト教やイスラム教などの修道者たちにおいても、一体何を求めてその世界に入って行くのだろうか?ましてや彼らは、「世間を捨てる」といった「世捨て人で」はなく、世を人一倍愛するのが修行者である。
また、その者に精神的生命を与える使命を帯びているからであろう。富や快楽を求め、自我を主張して苦しむ世の人々に、それらのはかなさを諭し、それらを超越したところに真の幸福や安らぎがあることを、自らの生活をもって立証する責任を負っているからであろう。人間が自由を求めるなら、厳しい戒律に縛られる修行者は人間失格者ではないだろうか?
なぜに人間が人間足らしめる自由を放棄するのか?これは素朴な疑問であるが、修行者にとっては愚問であるようだ。なぜなら、「拘束から解き放たれる」ことだけを自由とは言わないからだろう。分かり易くいうなら、自由とは、「自分が何を望んでいるかによって決まる」ということになる。翻って言うなら、何も望まない人間に自由はないということだ。
自由人をドン・キホーテと比喩するが、日本人でドン・キホーテ的なのは誰であろうかと頭を廻らせば、俳人松尾芭蕉が思い浮かぶ。ドン・キホーテは、「騎士道」に恋い焦がれ、狂人として旅に出るが、最後に正気を取り戻して自宅の寝室で亡くなった。そんなドン・キホーテだが、彼は死の床において、「騎士道」に狂った自分に対する自省の念があった。
最後に彼はドン・キホーテという仮面を脱ぎ捨て、アロンソ・キハーノという ひとりの人 間として亡くなったのだった。ドン・キホーテは人生の終わりにこのように遺言している。「確かにわしは狂人であったが、今では正気に戻っている」。芭蕉という人は、「俳句」という風雅の道に狂おしいほどの思いを抱き、旅の果て風狂の道を貫いて客死した人であった。
芭蕉の風狂とは、狂気が彼の精神を支配していたのではない。彼の句作への、「普遍不動の熱い思い」を象徴する言葉であろう。風狂とはつまるところ、「風雅に狂う道」を突き詰めて行くことだが、言葉でいうほど簡単なことではない。風狂の道は修羅の歩く道であろう。本家ドン・キホーテより、「狂」の道を貫き通した芭蕉は真に、「ドン・キホーテ的」なる人であった。
芭蕉は『三冊子』の中で、「はいかいはなくても在べし。ただ世情に和せず。人情通ぜざれば人不調(ととのわず)と言っている。これは、文学などなくてもかまわぬ。文学活動などどうでもいいことだが、人間としての感情を欠き、社会に通用せぬは困る。と、人間としてのふくらみを強調する。俳諧(創作活動)とは、人間性の上にあるべきという主張でもある。
「人間として真に誠実に生きているものでなければ、優れた表現など期待し得ない」と解釈し、芸術は心の修行であるとした。表現されたものより表現されないもの、作品の外側に滲み出てくるものを重んじたからであろう。真の誠実とは、決して善い行いのことではなく、「狂気を克服して正気に戻る」くらいに理想を追い、自身の思いに忠実になることをいう。
信仰に誠実な人間、つまり修行者とはそうあるべく人だと言いたかった。さ~て、不倫についてこれまで何度も書いた。ちょい前だが、30代の女性が、「結婚してて不倫ってどう思う?」と聞くので、「結婚してるから不倫じゃないんか?」と答えたところ、「もういい!」とご立腹であった。「いい」なら別に構わんが、不倫の善悪なんか人に聞くなってことよ。
最近は何でもかんでも、猫も杓子も「不倫、不倫、不倫」である。「不倫は許されませんよね?」と聞かれることもあるが、「誰に許されないの?」と、逆に聞き返したくなる。道徳的に許されないから不倫(不倫理)なわけで、問いそのものがオカシイ。誰かに許されないと思うから隠れていやるわけだが、はて、不倫がバレ時にどう許されないかが分かろうというもの。
離婚を突き付けられるのか、少々お叱りを受ける程度なのか、殴られたり蹴られたりで顔にあざを作るのか、「私もやるから」と言われるのか、人によって受ける処罰は違うだろうが、交通違反と同じで不法行為なら弁解の余地はない。人はよくないこと、悪いことをするときは、そういう覚悟でせねばならない。が、見つからなければセーフということになる。
不倫の定義でいうなら、妻子ある夫と独身女性の恋愛は不倫ではなく浮気である。浮気も不倫理といいたいなら不倫でいいが、亭主の浮気など神代の昔からあることだ。一般的に不倫は独身女性と妻子ある男との恋愛をいう。それがなぜ不倫にあたるのか?人(妻)のものに手を出したからか?悪事はバレなくても悪事か、バレて悪事なのか、それが道徳である。
道徳を口にする者が真に道徳的なのか?それはさておき、人のものに手を出したというが、物ではない意思ある人間だ。よろめいた側にも罪がないわけでない。よって、どちらが悪いなどは愚問である。どちらが悪いかは被害者が決めること。その方が分かり易い。というわけで、不倫も浮気もどの程度罪の意識で行為するのかというより、された側のダメージが問題である。
真の善人はこういうだろう。「配偶者に精神的なダメージを与えるようなことをしてはいけない」。もっともなことだが、こんな決まり文句は似非善人でも言える。人間の多くは偽善者であるが、果たして本物の善人が世直しできるのだろうか?人間社会には嘘も必要だし、悪事も快楽である。「嘘はいけません、悪事は止めましょう」と、こんな標語は永遠の標語である。
誰だって人が持ってるものを欲しがるもの。人が持っているダイヤの指輪が欲しい、といっても指輪は静物だ。勝手に自分のところに来ることもない。が、動物である人間は、相手がのこのこやってくるなら、願い叶ったりである。妻がいても別の女とやってみたい。夫とは別のものを押し込まれたい。綺麗にいえば恋愛だが、露骨にいえば、まさぐり合いである。
しない人もいれば、したい人もいる。止めさせる方法は今のところない。賄賂や汚職は聖徳太子の時代からある。なぜ、人は賄賂を好むのか?答えは簡単、人はお金が大好きだからである。この世から賄賂や汚職をなくするためには、人がお金を嫌いになるしかない。同じように、人がエッチを嫌いにならない以上、男と女は永遠にちちくりあうであろう。
倫理や道徳で規制して何の効果があるという。汚職も賄賂も立派な不倫行為である。男女の色恋沙汰は、大らかなものもあれば性犯罪もある。ちょろちょろ始めたが、きれいに終わらず不幸な結果になることもある。様々な性犯罪が発生し、その定義づけも難しい。強姦というのはなぜか男が女に致した場合いのみで、女が男を凌辱しても強姦とはならない。
終戦直後、朝鮮にいた日本人がこういう証言がある。「侵入してきたソ連軍の女性将校によって、何人もの日本人がレイプされるのを見た。女性はレイプされるが、男性はレイプされないと言われるが、そんなことはない凄まじい光景だった」。男がどのようにレイプされるのか、興味はなきにしもあらずだが、具体的な証言がない以上想像するのみだが、できるのは間違いない。
男女平等ならあきらかに矛盾であるが、男女の性器の構造からして仕方のないことだ。男は能動的、女は受動的である。口語的にいうなら、男は、「やる」、女は、「やられる」となる。最近の女性は、「やる」、「やろう」という言葉を使うほどに、「性」に主体的だ。昔の女性は、「されたい」、「して」といったものだ。まさに言葉は文化、文化は言葉によって培われる。
賄賂や汚職が戒められる理由は、公務の廉潔が損なわれるからであるが、男女の不倫が、形骸化した道徳以外に、「よくない」何があろう?「廉潔」とは、私欲がなく、心や行いが正しいこと。の意味だが、果たして人間はそのようなものか?したがって不倫を戒める理由は、それが不倫に当たらず許されるというなら婚姻制度は意味を失い、崩壊するであろう。
近代国家ならびに近代社会は、婚姻制度を土台に築き上げられている以上、秩序を維持しなければならない。つまり、倫理や道徳というのは神が作ったのではなく、共同体が自己の維持のために作ったもの。よって、芸能人の不倫がバレたら、干されたり、謹慎させられたり、社会的制約を受ける。が、社会のほとぼりが冷めるまでの期間でしかない。
それでいいのか?「それでいい」。社会が許すからだ。なぜ社会がそれを許す?誰もが所有する下半身のことであり、殺人と違って凶悪な刑事事件ではない。かつては「姦通罪」というのがあった。封建時代、妻に間男するは斬り捨てが許された。一夫一婦制度を厳格に取り締まる目的というより、武士という面子や体裁が重んじられたからでもあろう。
人間を現実的に考えてみた場合、人間の実態からかけ離れた、「姦通罪」なる法律そのものが社会をギクシャクさせるであろう。パチンコやソープがあるように、人間を道徳的にがんじがらめに規制し、取り締まるだけではなく、社会の潤滑油として許容する方が人間の社会的意欲が高揚する。パチンコ愛好者、ソープ愛好者がいるように、不倫愛好者が存在する。