慶應大学の広告学研究会に所属する男子学生数人が10代の女性に乱暴したとされる事件は週刊誌で、「集団強姦」と報じられたが、当初、提出された被害届が取り下げられたこともあってかマスコミは、「集団強姦」から「集団暴行」としている。女生徒の親から被害の訴えられた大学側は、関係者に複数回にわたる事情聴取を行う等、可能な限りの調査を行ったという。
被害者の母親は、大学側から性的暴行はなかったとされたことに納得せず、警察に被害届を出す。事件が表沙汰になる前、慶応大は飲酒による悪ふざけ的なものとしか発表していないが、警察が動き出せば表だって報道されるだろうとの思惑もあったようだが、親の気持ちとすれば当然である。その後、親と被害女性との乖離があったのか、被害届は取り下げられた。
大学のワンゲル部が、ヤリサー(不特定多数の男女と性行為をする)のは、昔からいわれていた。「たまらないんだよ。自然に囲まれ、下界の雑多から離れると人間は自然に溶け込むからな」と聞いたことがある。「自然回帰」とは、生まれたまんまの姿になるという含みであった。それはさておき今回の事件は、「慶応義塾広告学研究会」のヤリサーも有名だった。
女子がどうか知らぬが、それを知って入部する者もいる。女子の、「大学デビュー」という言葉は昔からあったが、昔と今では言葉の用い方が違う。昔の、「大学デビュー」は、高校までは門限やら何かにつけて、親の監視(躾)がきつかったことや純潔教育の恩恵というか、女子の貞操観念を強めていたことも理由。昨今の風潮は、「貞操観念」の言葉を死語にし、メディアも性を煽る。
それほどクラスで目立たつこともなかった非モテ女子(男子)らが、大学に入ってお酒の席なども増え、また、一人暮らしの孤独感もあって、異性とのナニの機会も増えることになる。これは三流大であれ、五流大であれ、普通にあることだ。昨今の東大、慶大などの一流大での強姦事件が目立つ背景には、塾づけで遊ぶことができなかった弊害もあろう。受験が終われば大学で羽を伸ばしたい。
それは昔も今も変わらないが、難関大生が、強姦や強制わいせつという法を犯すようになったのは、バカが塾づけで難関大に入学したからである。学生の大学に行く動機も、入学後の自負心のようなものも大分変ってきているように思う。つまり、東大生や慶大生がそんなことをしていいわけない(してたまるか!)という自負心は、かつての有名大生に少なからずあった。功名心もあった。
それが希薄になった理由の一つに、身を穢さず有名大をでて、有名企業に入って幸せな人生を送りたいという人生目標が折れてしまうような、高い理想を抱けないような社会になっているのではなかろうか?ソニーやシャープなど日本を代表する有名企業が身売りしたり、業績も芳しくない。新卒の大学生がいい会社に入れないということは、負け犬意識を植え付ける。
世界になだたる日本の企業が衰退した理由は様々言われているが、大企業の人材確保戦術も問題であった。昨今は幾分流れが変わってきているが、かつては学業成績がいいばかりではなく、お行儀も良くて大人しいだけの安定志向の保守的な人材ばかり集めていれば、会社に変化をもたらすこともなく、衰退するのは当然の理であろう。いわゆる、公務員病、大企業病というやつである。
それと有名大での不祥事とどう因果関係があるのかというより、お利口で保守傾向の人間ばかり入社させた企業に責任がある。学生の未来に対する生きがいを持てないという虚脱感は間違いなく存在する。未来を見据えて今を生きつより、目先の快や楽に心が奪われてしまう学生たち。先日判決が出た東大集団わいせつ事件も、東大生という自覚のなさ、自負のなさが感じられる象徴的な事件。
主犯格で東京大学工学部4年の松見謙佑被告(22)は今年5月、東京・豊島区のマンションで女子大学生(21)に、強制的に酒を飲ませたうえ、全裸にしてキスをするなどした強制わいせつと暴行の罪に問われ、東京地裁は以下判決を言い渡す。「犯行は集団による計画的なもので執ようかつ卑劣」、「被害者の身体的、精神的苦痛は耐え難く、学生の悪ふざけと評価することは到底できない」とした。
一方で、「反省し、今後一切、酒を飲まないと誓っている」などと、松見被告に懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。性犯罪は心の殺人であり、強盗などよりはるかに罪は重い。それがこんな量刑か?「被害者の身体的、精神的苦痛は耐え難く…」とはいいながら量刑の軽さを見ると、暗黙ではあるが女子学生の非も指摘しているのだろう。女性の自己防護心の加減は難しい。
ガチガチの堅い女がモテるわけもない。治安も悪く、自己責任主体の欧米女性のstreetwiseに比べて、人におもねる傾向の強い日本人女性の脇の甘さは、文化的な事情もある。が、それはそれとして、犯罪は犯罪であって、起こった以上裁かねばならない。裁判所は身を守る術を教えてくれるところではない。相手を口説く、説得するでなく強硬手段でしか女性にありつけない男がいる。
そういう男はいつの世にもいるが、かつて、そういう男たちは自らの徳のなさにおとなしくし、女遊びの派手な友人の話を指をくわえて聞いていた。同月には、千葉大医学部の学生3人が居酒屋のトイレで20代の女性に暴行した事件が起こるが、学生を指導する医師が共犯であった。犯人はいずれも20歳を超えた成人にも関わらず、氏名は伏せられ、これについては専門家から批判がでていた。
千葉県警は当初、逮捕した容疑者の実名を公表しなかった理由について、「捜査上の支障がある」、「被害者と警察当局との関係を重視した」と不可思議な説明していた。これに対して専門家などからは、「公権力の行使が正当だったか、外部の検証ができなくなる」、「被害者や被疑者について誤った情報が流布されるおそれが生じる」などいった批判がなされ、警察は公表にいたる。
医師を除く当初のレイプ犯は3人で、都内と神奈川県のトップクラスの進学校出身者だった。警察が氏名公表を躊躇った理由は、容疑者Aの曽祖父は最高裁判事や弁護士会会長を務め、高祖父は衆院議員で司法次官を歴任するなど、華々しい経歴である。Aの父親は上場企業の社外監査役をこなす弁護士、実兄も弁護士で、2014年に父親が代表の事務所に入所する。
高祖父から5代続く弁護士一家で、親戚にも著名な法律家や大学教授がゾロゾロいるという法曹界きっての名家であった。だからどうなんだ?家名がどうであれ、「息子の躾くらいしろよ」というしかない。警察は公表せざるを得なかったが、警察が差別主義であるのが露呈したようなもの。実名が出たからではなく、彼らは資質的に医師になるべきでないし、わいせつ医師などとんでもない。
彼ら以上に、医師にさせたい親や身内はいようが、教職や医師、弁護士というのは、一般人よりも自制心が要求される。彼らは人の命を預かる医師として不適格というまえに、患者にイヤらしい気持ちでエロ医師など許されない。どんなバカでもお金持ちなら、お金をつぎ込めば医師になれる時代だが、医師を志す人間が医師になろうという時代は遠のくばかり。親はこの際、別の道を探してやれ。
「母親が夜なべして内職で仕送りしているからこそ、頑張って勉強しなければ…」。そんな奥床しき時代に戻ることはないが、今のような浮かれた時代に、学問に向き合う新たな価値観を模索するのは国家の仕事である。が、その意を汲んだ家庭における末端の親が、取り組むべき事でもある。教育には、「美しい自然環境」、「ある程度の貧困」、「親の子への教育愛」という言葉。
「教育」について様々な言葉がある。上記の40年前の言葉は古びたのか?古びたとしても、「いい」ものいい、「正しい」ものは正しく、自然と頭にもたがるが、古いものは若い人の頭の中に浸透しないのか?それなら言うだけ野暮ということになる。子どもの健全な育成を図るに、好ましくない環境がある。さらには、健全な育成を行えるだけの教育者が少ないというのが問題の昨今だ。
そういう時代にあって、子どもを真に教育するのは親しかいない。人に何かを教える(人に何かを説く)ということは、説く人が、教える人が、自ら、それに向かって日々孜々とし、営々とした努力をする人でなければ効果はあらわれない。そう考えると、夜なべをして内職する母には無言の説得力があった。自らに厳しくしたというよりも、せざるを得ない時代であったのだが…。
とすれば、せざるを得なくない満たされた時代にあっては、無言の教えを子に与えることは難しい。時代にあった躾や教育を親が考えていくしかないだろう。どんなに息子を可愛がっても間違いを起こす子どもはいる。どんなに立派な教育を施しても過ちを犯す子どもはいる。これは親が負った宿命である。様々な親の話を耳目にするが、吉展ちゃん誘拐犯の小原保の母は印象に残っている。
刑事が福島県の小原の実家に聞き込みに行った際、応対した母は刑事の後を裏山まで必死に追いかけて来ていった。「保を悪いことする子どもに育てた覚えはねェ。でも…、保が犯人なら、何とも申しわけねェ」と、土下座をし、泣き喚いたという。この言葉を刑事から聞かされた小原は、事件から2年3か月を経て全面自供をする。自供後、小原の母トヨさんは次のような手記を残している。
「村越様、許してください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。
おまえはそれを考えたことはなかったのか。保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし…」。文学者である曽野綾子の言葉に比して考えるに、教養もない、名もないトヨの言葉には人間の血が流れている。