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事件から学ぶ  「は、社会の雑多」

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「事件」は「経験」ではない。経験から人は多くを学ぶが、事件から学ぶこともできる。「明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい」。という言葉がある。乗っていた船が沈んでしまった、これは事件である。自分だけが助かってなんとか無人島に漂着したのなら、それも含めて事件である。が、無人島での生活は経験となる。


何の経験か?生きるための経験である。そこに社会はない。ゆえに、これまでに得た社会経験や人間関係ノウハウも不要である。果たして自分は生きて行けるのか?どうすれば生きて行けるのか?先ずは雨風をしのぐ住居を作る事から始めるだろうが、そのための大工道具はない。石器時代の石のやじりを思い出し、ナイフ代わりにこれを作ることから始まる。

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6年前に「『経験』のみが人を成長させる」との一文を書いているが、石のやじりを知るのは本で得た知識である。知識も経験だが、石器を最初に作った祖先は誰にも磯和らず、草案・創作という経験である。本などない時代である。つまり我々の祖先は、なんでも自分で考え、生み出した凄い人達だが、知識という恩恵に預かる我々は随分と楽である。

斯くの突飛な体験はダニエル・デフォーの、『ロビンソン・クルーソー』を読んでいたなら、幾分役に立つであろう。クルーソーは架空の人物だが、実際に無人島で生活したスコットランドの航海長、アレキサンダー・セルカークの実話を基にしている。マーク・トウェインの、『トム・ソーヤーの冒険』も同様、プラスになろう。考えることも大事、知識も大事である。

『トム・ソーヤーの冒険』は、トウェインが少年の頃に自身や学友の実体験が基本にあり、当時の子供たちの迷信などもそのまま語られている。自分もトムの縮小版のようなことばかりしていた。楽しかったし、どんな大人が子どもに対し、「どんな大人になりなさい」とアレコレいうより、子どもは子どものまま成長発達するように定められているのである。

とはいっても、我々が「幼児段階」の発達で止まったままでいるようプログラムされているではなく、あらゆる事例が示すように我々はとりわけ、"子どもの特徴"において、生涯にわたって成長発達しつづけるように設計されている。設計という言葉は、必ずしも計画者による偉大なる目的のためにではない。誰もが偉大にならず、多くは普通の大人になって行く。

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確かに子どもは何にでもなれる可能性を秘めている。トルストイもゲーテもエジソンもベートーベンもべーブルースもかつては子どもだったように…。有体にいうなら、一人の子どもは人が多様に教育されうる可能性の一つに過ぎない。自発的に何かになろうとするのはいいが、他者が何かにさせようと躍起になるのはいかがなものか?ルソーを読んで以降に疑問となった。

『エミール』についての記事にも書いたが、「職業を意図した教育をしてはならない」というルソーの考えは目から鱗だった。「子どもを物知りにすることができれば十分と考えるのは愚かなことだ。子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味を与え、この趣味がもっと発達したときに学問を学ぶための方法を教えることが問題」とする。


勉強さえできれば職業選択の幅が広いと考える親は多い。果たしてそうであろうか?極端にいうなら、東大に行けば万能人間であるかのような錯覚を抱いていないか?東大に行こうが慶応に行こうが、勉強をするのは自分である。以前、そういった時に、「卒業証書があればいいんじゃない?」という母親がいた。自分は、その次の言葉をあえて言わなかった。

大学の目的が学問よりも卒業証書に主眼を置いてる、そういう時代の到来はすぐにやって来た。子どもが幼児期に親は何を子に望むかはそれぞれだが、大体が優秀な高校に入って、優秀な大学に入って、優秀な企業に入社するという図式である。それを子どもの幸せとし、幸せである理由は、他者に比べて狭き門をくぐったことによる特別待遇という恩恵にある。

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そこまで駆け上った思考を親はするが、果たして世の中の人はそういう思考をするだろうか?有名高校、有名大学を出ているだけで、有能な人間だと思うほどに現代は甘くない。有名大学が廃れているように、有名大学を出た人間が廃れた時代であるのは様々な事件が示しており、誰が求人担当者になったとしても有名大学信仰は崩壊し、人の中身を重視するはずだ。

もっとも、親の夢をどんどん壊して子どもは成長していくものだから、親の夢など憐れなものよ。全校300人中100番程度の成績なのに、それでも何とか偏差値の高い高校に入れようと躍起になる親もいる。うちの子は勉強に向いていないと思えず、金の力に頼ろうと、塾に入れたりでいい高校に入れようとするが、三者面談で、「無理です」と烙印押される。

「うちの子、〇〇高校に受かったのよ」
「へ~、すごいじゃない! 優秀なんだね~」
「そうでもないのよ。ほんとは無謀な挑戦だったけど、努力はしたみたいよ」
「じゃあ、次は〇〇大学ね」
「どうだかね。勉強するって口ではいってるけど。本人次第よね…」

よくある光景だ。「本人次第」と口にする親は多い。教師にここらあたりならと低レベル校を勧められた親は、そこで現実に立ち返るしかない。勉強第一主義の親にとって、負け組を感じた瞬間である。それから15年、20年後にどうなっているかなど、考えるすべがない。低レベ高校に行った子は、とある会社の優秀な営業マンとなり、とんとん拍子に出世した。

高校入試では差がついたが、営業成績を買われて営業所長、方や名前だけは大企業だがリストラ候補。二人の年収差は400万と離れた。何が悪いわけでもない、何がよいわけでもない。高校受験ですべての子どもを偏差値で輪切りにするシステムは、昭和30年代から続いている世界でも例のない日本の特質であり、これは昨今の高校全入時代においても続いている。

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過去50年以上も繰り返されている光景だが、多少は中身は変わっている。「うちの子は近辺で一番頭のいいグループに所属してる」と。内心思っていたり、あるいは言葉に出して自慢はするが、多くの大都市圏にあっては、高校入試前の私立中学入試で優秀な子の囲い込みはなされ、高校入試はみんなが参加するレースでは、もはやなくなっているのだ。

公立高校云々など自慢のレベルでもなんでもない。教育熱心で財力もある家庭においては、子どもを中高一貫校に行かせる。それでも我が子の学力に躍起になるのが親である。それはそれでいいが、先のことが読めない、見えないから必死になるのだろう。「社会に出て人に愛される子になるのがいい」と鷹揚に構える父親の方が、秀才の現実を知っている。

いちばんいいのは、経済的余裕もなく、子どもの成績も中くらいの親が、学力は金で買うものと見切って、高校受験辺りから逞しい子どもに考えをシフトすることだが、親というのは尻に火がついても子どもへの自分の理想を捨てない。所詮は親の描く理想に過ぎぬが、子どもの製造者たる親の傲慢である。自分は、「親の傲慢」という言葉が大嫌いだった。

学問で学ぶことと、経験で得ることと、どちらが社会に有効であるかは言うまでもない。勉強は学生の仕事、社会人の仕事は仕事である。どちらにも必要なのが社会勉強だ。学生は社会勉強など必要ないとさせない親もいる。そんなことをさせていては灘高にも東大にも入れないという親もいる。恋愛も社会勉強も親が子に教えることはできない大事なこと。

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西川史子は100点取ったら1万円もらっていたという。いつも100点だからいつももらっていたという。勉強を餌で釣る親は手っ取り早いと思うのだろうが、お金のための勉強なら本来的な目的に合致しない。仕事に対する報酬は大事だが、さらに大事なのは自分に合った仕事であり、さらにさらに大事なことは、生きがいを感じる仕事にありつけるかであろう。

ファミリーマートの澤田貴司は、ユニクロの柳井社長にヘッドハンティングされた1997年の翌年常務となり、同日副社長になった。フリース仕掛人の功績といわれたが、2002年にフリースブームが去ると、柳井は怒りの矛先を澤田に向けた。「業績が悪くなったのはお前のせいだ、お前がバカだから」と、さんざん澤田を罵り、吊し上げたという。(ユニクロ関係者)

同年澤田は、柳井から社長要請をされたが固辞、ユニクロを去った。入社五年目にしてアパレルトップ企業の社長を蹴った理由は、ユニクロにも柳井氏にも生きがいを感じなかったからだ。柳井は澤田の紹介で玉塚元一を入社させ、社長に抜擢されるも3年後に解任された。玉塚の人望に柳井が嫉妬したと言われている。同年澤田と玉塚は、「リヴァンプ」を立ち上げる。

2010年、玉塚は新浪剛史の誘いを受けローソン顧問に就任、2013年6月、ローソン社長となり、澤田ファミマVS玉塚ローソンの同門対決から目が離せない状況にある。ともに目指すはセブン追撃だが、澤田はコンビニ4位のサンクスを傘下に統合し、ローソンを抜いて業界2位に進出する。ともにユニクロ出身の、因縁めいた「同門」のプロ経営者同士の戦いである。

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不思議というか、巡りあわせなのか、「事件」という言葉が比喩的に使われるように、"事の大きさ"を、「事件だ、事件!」などという。二人の有能な人材を失ったワンマン社長の柳井は、自著『成功は一日で捨て去れ』の中で、「実のところ、ぼくには後継者を育てる能力がないのかもしれない」と自嘲するが、このままユニクロはジリ貧という気がしてならない。

仕事=生きがいに当てはめれば、「洋服の値段(安い)は重要だが、さらに大事なのは自分の好みに合った洋服、さらにさらに大事なことは、生きがいを感じる洋服であろう」。ユニクロにはそれがない。VANやTOMYやNIKEやNEW BALANCE社のような、身につけることで満たされる自己満足感のようなものがまったくない。タダでも着たくない、それがユニクロだ。


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