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「活動」は「行動」にあらず ②

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「行動論」、「行動学」はあるが、「活動論」、「活動学」はない。「活動家」はいるが、「行動家」を聞かない。一人で家一軒建てたとしても、それを行動といわない。何故なら、「それは時間と共に歩み、時間の内になされ、時間から垂直に飛び出していく行為ではない」。だから、活動は行動ではないと三島はいう。ならば、三島のいう、「行動」とは何であろう?

「行動とは、一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約する不思議な力を持っている」。これが三島のいう行動である。つまり、「行動学」とは、行動というものの持つ、その、「不思議な力」を解明する学だとする。自分に照らせば、ウォーキングやブログを書く、自転車で走るギターを弾く、将棋を指す、本を読む、それら一切が行動ではないらしい。

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月刊「ポケットパンチOh!」に連載されたの三島の『行動学入門』は、ユニークでリアルな行動論である。彼は、「行動」をこう結論づける。「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに、純粋行動の本質がある」。これはよく分かる、納得する。踏襲したいところでもある。作為は不純であると、大作曲家のチャイコフスキーも言っている。

人為・作為を不純と批判される場合もないではないが、純粋をそれほど評価することもないと思うも、純粋美学に傾倒する人間がいる。純粋性が無意識に発露されたからといって、無意識殺人が意識でなされる殺人に比べて正当性があるとは言えない。人の無意識行動は実に97%といわれるが、三島の行動学とは、行動の不思議な力を解明するものである。

無意識の行動、即ち「盲目的」、「無目的」であるが故に生ずる、「無効性」と、真の「行動」のみに現れる、「無効性」は別であろう。一例をあげるなら、「全共闘運動」をあげてみる。60年代末期から日本全国に吹き荒れた一連の学生運動は、誰の目にも、「無効性に徹する」運動の典型であり、彼らは大学を改善するとかの提案があったわけでもなかった。

訳の分からない、「大学解体」のスローガンを掲げ、「狂信的」、「破壊的」に暴れまくった。教室を壊し、他の学生をゲバ棒で殴るなど、暴走族にも増しての世の中にとっての迷惑行為であった。が、彼らは、「純粋行動」と思い、「正義運動」と信じ込んでいた。三島は彼らの行為は、「無効性に徹しない純粋行動にあらず」と喝破し、その理由を述べている。

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学生たちが自分たちの所業を横目でちらちらと、それがマスコミにどのように報道されるか、してもらえるかを意識しながらなされる、「ゲリラごっこ」に過ぎないとし、全体的には、「政治的無効性」という印象を人々に与えたのも、実は彼らが内心では、「有効性」を意図したからであって、つまり、「無効性」に徹しないが故に無効であると述べている。

三島はまた、『行動学入門』の第6章「行動と待機」で、「待機」の重要性も述べている。彼のいう、「待機」とは、怖ぢ気づいて実行を先送る、「待機」でもなければ、楽観主義に寄りかかった生温い、「待機」でもない。それは、肉食獣が全神経を集中させて獲物に向けて距離をつめ行く類のもの。というが、そういうえば市ヶ谷駐屯地における演説で三島は、「待機」を述べている。

「俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を…、そうした自衛隊の…、最後の三十分に、最後の三十分に…待ってるんだよ。諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ」

ここでも三島は自衛隊員に、「待機」を伝えているが、野次と罵倒で悲壮感漂っていた。演説の達人という歴々に比べて、人を魅きつける迫力もトーンもない。高校の生徒会長の演説の方が野次・嘲笑のない分ましである。「おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。」、斯くの押し付けが虚しく響く。


「行動」の人物は様々いるが、足尾鉱毒の田中正造や教育者林竹二も、「行動の人」と称された。ソクラテスや田中正造を研究した林が行動の人になったのは必然であろう。そんな林の言葉に、「活動は手段で、目的ではない」というのがある。「行為や行動はそれ自体が目的であり、そうした活動の結果に何が生まれても、それ自体は目的ではない」と林はいう。


三島の「待機」は効力とならなかった。さまざまな人が行動を称え、さまざまに論じている。カミユやルソーの時代から現代にいたるまで、人は行動に、「在処」を見出そうと格闘し、あげく見出す。「人間は経験したものからしか言葉と行動は出てきません」と、これはトヨタ自動車社長豊田章男社長の言葉である。逆読みすると、「経験なき言葉に意味はない」と響く。

言わんとすることは分かるが、言葉の動物である人間は、知識や御託を並べ、いかにも行動であるかのように言うが、知識の伝達は学者の仕事であって、彼らはこれで食っている。吉田松陰は、「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」と、塾生に説いた。彼は塾生たちを理屈で、「教化」したのではなく、自ら教えを実践した人である。だから、強い。

学者顔負けの専門知識が溢れるブログ。膨大な知識が役に立つのだろうか?「情報は知識にあらず、現実の理解は実験に始まり実験に終わる」とアインシュタインはいい、「多くの人は『見たり』、『聞いたり』ばかりで、『試したり』をほとんどしない。」と憂えた本田宗一郎。彼らは、「知る」という行為には、いくつものレイヤーが存在するのを理解していたようだ。

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「なぜ賢い人が必ずしも事業でうまくいかないのか?」、リアルにおいては合理的に見える判断が、結果として最悪の決断であったり、その逆もしかりである。利害重視で掌を返す人も入れば、信念のために非合理的な決断をする人もいる。これが、「行動」という現実である。言葉通りにはいかない、それこそが行動であって、行動を真価とするなら怖れることはない。

映画を観たり街を歩くのは活動と三島はいうが、活動は経験である。三島のいう行動は高貴であるが、活動も行動と凡人は考えたい。『書を捨てよ、町へ出よう』の寺山修司評論集のタイトルは衝撃的だった。耳年増を戒められているようで、町に出て年増ばばぁでもいいから漁れと聞こえた。自分勝手な曲解であるが、読書は行動ではないと教えられた。

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「青年よ大尻を抱け」は、「少年よ大志を抱け」に匹敵する名言(?)である。少年が青年に替われば中身も変わる。クラークの言葉は抽象的・観念的だが、『書を捨てよ、町出よう』と題された言葉はいかにも現実的である。昔は何かの情報に触れる度に、「そんな事は知ってる」だったが、行動を通して得たものは、「結局、何も知らなかった」ということ。

「行動とは一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約する不思議な力を持っている」。三島の指摘する行動を具体的に理解し得ないのは、「火花のように炸裂」という原体験がないからであろう。「噴水のように放出」なら、男の自分にはよくわかるが、「火花」は凄い。「不思議な力」とは?異性に対するあくなき魅力ではないのは分かっている。

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同著で彼はこのようにも述べている。「会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争している男がどうして行動的であろうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であろうか?」。三島の批判の主旨はわかる。よくわかるが、それを行動と言わずとも、与えられた仕事の評価である。

したがって、三島の思想とは、行動と評価は別であると、そのことが大塩の評価にも現れている。現代人は、評価=メシの種だが、行動はそれらと無関係な純粋なものであるという三島の思想背景を読み取るなら、「11.25」もうっすらと分かってくる。現代社会は金銭とビジネスが主、人間や社会が従。「霊主体従」になぞらえ、「金主人従」の価値観である。

「霊主体従」を優位とする思想は危うく、「金銭至上主義」も間違っている。三島は現代社会に蔓延るこれらの価値観に我慢がならなかったのだろう。金と名誉と社会的地位があれば、それらを何一つ弄すことなく一生安泰でいられる。それが人間の何の行動であるかをアンチとし、「あり得ないもの」を、「あらしめる」ものが行動であると三島は説いた。

そして彼のわが生涯を閉じた。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉がある。身を捨てる覚悟があってこそ、活路が見出せるとの意味だが、その言葉と三島の行動は多少ニュアンスが違うかもしれん。が、三島が見出さんとした活路とは、我々後人への遺言であろう。多くの人に茶番と嘲笑された稀代の文学者は、文字以外の何かを伝えようとした。

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日本人の精神史を大きく変えた、「11.25」に対し、多くの著名人らが言葉を残している。友人で親交のあった澁澤龍彦の、「エロチシズムの極致」、「どうにも扱いきれぬ大変孤独的なもの」小林秀雄、「思想のために自らを亡ぼす真の思想家」加藤諦三、「あまりに自然的な…精神の地下室の消滅」柄谷行人、「切腹ではなくて、HARAKIRI」といった塩野七生。

「さくら散るいまも三島の死の光芒」と詠んだ野村秋介、「松陰の思想ではなく、松陰らしくなることが重要だった」松岡正剛、「『不道徳教育講座』を書いた三島を縛りつけていたのは実は『道徳』」武田泰淳、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」村松剛、「無名のテロリスト」橋川文三、「わたしにはいちばん判りにくいところで彼は死んでいる」吉本隆明など。


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