「弱肉強食」という響きは、ネガティブに捉えられているのか?考えてみるに、動物界で弱い者は強いものに食べられ、強いものはさらに強いものに食べられるのは自然の摂理であり、至極あたりまえのことではないか。人間には食物があるから、人を襲って肉を食べないが、強い者が弱い者を凌駕する、「弱肉強食」は、いかなる場においても自然に派生する。
社会の中で自然派生する善や悪を、法や決まりで正していくのが政治の目的なら、本来は殺人事件や詐欺やいじめはあってはならないものなのに、社会は人間を完全にコントロールできていない。政治で至らぬ点は、道徳や躾など教育の手助けが必要となり、その担い手であるべく親や教師が、これまた機能できていない。となると、人間は自らを律するしかない?
宗教はどうだ?人間が神の命で自らを律すれば、戦争もない犯罪もない平和で理想的な社会になる?「もちろんです」という人は観念的な人。こんなことを言う人がいる。「平和は作るものではない。平和というのはもともとあったもの。宇宙には平和しか無かった。その平和を崩したのは誰あろう人間である。その人間が平和を作ろうなど矛盾もいいところである。
平和とは、戦争のない状態をいうのでは無い。一人ひとりの心に、憎しみや、怒りや、欲得が無くなって、はじめて真の平和といえる。その一人ひとりの心が整えば、いやでも世界は平和になる。その意味において、平和は一人ひとりの心の延長線上にあるといえるはずだ。世界を平和にしたくば、まず自分の心を平和にすることからはじめるべきです。
どこの仏典にもどこの聖典にも、修行して神・仏になるとは書かれてはない。何と書かれてあるか?『人間は生まれながらにして神・仏である!』と書かれてある。お釈迦さまも、イエスさまも、人間の本性は神・仏である、すなわち生命である、とはっきりいっておられる。インドのサイババ先生も、"私達は神の化身である"とハッキリといっている。
人間が戦争をしたり様々な犯罪を犯すのは、人間と思っているからで、もし生命だと知ったら、決して戦争も犯罪も犯さない。だから私はいう。もろもろの罪の所在は宗教家にあると…。宗教の仕事は、人に正しい生き方を説いたり、葬儀でお経を読んだり、お墓の番人になったりではなく、一人でも多くの人に人間の本性を知らしめ、生命の自分に目覚めさすこと。
人間が生命に目覚めたら、教えなくても愛深い生き方をするようになり、教えなくても正しい生き方をするようになります。そうなったら、何もしなくても世界は平和になるのです」。美しい言葉である。間違ったことは言っていないし、これを読んだ人が、感動し、共感し、言葉の主に会いたい、授かりたい、と思うかも知れない。おそらく、「信じる者は救われる」などという。
自分もそう思う。信じる者は精神的に救われると思う。精神的に救われるという意味はよく分からないが、救われたと思う人ならそれでよし。では、言葉の主に、「信じない者は救われませんか?」と聞いたら何と答えるのだろうか?聞くこともないし、答えを求めてはないからいい。答えは自分の中にある。「別に救ってなんか欲しくない。救われる必要性もない」。
ようするに、救って欲しいという人は何らかの苦悩がある人。だから、救われたい、救って欲しいと願い、そういう人は、「信じなさい。救われます」という言葉に耳を傾ける。自分などは全く傾けないし、上の言葉など美辞麗句の極みとしか思わない。嘘ではないが、現実性は乏しい。だから、「信じて、力を合わせて頑張りましょう」と永遠に言い続けるしかない。永遠に…
おそらく、その人が死ぬまで戦争もない理想的な平和な社会は訪れない。なぜなら、30年前、50年前に、上記の言葉を信じて宗教に入った人は、理想世界を見ぬままに死んでいる。10年前、1年前に入信した人もいよう。その人の一生の中で、理想社会は実現するのか?30年後、50年後、生ある間に上記の言葉にある社会が実現できるのか?と聞いたらなんていうのか?
「だから祈るのです」。「可能性はありますから」。などと言うのだろう。結局祈って実現しないままで終わり(と推察する)。「それで死んでも別にいいんです」というかも知れない。信者がそれでいいならいい。が、自分が言いたいのは、「あまりにも壮大な理想社会を掲げなくては遺憾のか?そんな言葉を並べなければ、信者を勧誘できないのか?」である。
宗教に限らず、「勧誘」とはそういうものだろう。都合の悪いことは化粧品や生保のセールスレディや、クルマのセールスも誰もいわないし、美しい言葉で興味を抱かせる。そのこと自体は詐欺でも何でもないからいいのだが、「真言は美ならず、美言は真ならず」である。宗教は、「願い」、「祈り」だから、虚偽もへちまもないが、どうしてもお金をつぎ込みがちとなろう。
自主的という暗黙の強制でお金を調達するのが宗教である。新興宗教の家屋は立派なものが多い。どこからお金が?すべて信者からだ。以前、知人が宗教を止められず、ふわふわしていた。止めると災いが起こるなどと不安を煽られる。宗教側は卑劣とは思わず、本気でもなく、止めさせない口実だった。義憤もあってか、信者に、「止める」と電話をさせた。
人が強くなるということは、今まで言えなかったことが言え、できなかったことができるようになること。金持ってこい宗教に依存し、心が救われたとしても、自分が強くなったわけではない。宗教に依存する知人を止めさせ、自由に生きることが、どれだけ心の解放になるか、罰など当たらないか、それらを体現させたかった。依存は楽かも知れぬが、強さとはほど遠い。
人間が人間を律するために体系づけられたものが宗教である。信仰と言ってもいい。人が神の命なら自らを律することができる。ルソーは、「生きることは息をすることではない。行動すること」と言った。「人間の名に値する唯一の人間は、行動する人間」と言ったのはロマン・ロラン。「私が知る唯一の自由は、精神および行動の自由である」はカミユの言葉。
「行動とは裸で公道を歩くことではない」と、これはhanshirouの言葉である。くだらない自分を除いて様々な行動讃美がある。後醍醐天皇は行動する天皇だった。陽明学に影響を受けた大塩平八郎や三島由紀夫らの行動は、「狂熱的」、「狂信的」だった。大塩も三島も効果という点において有効性が見えず、世の中にとっては全くの迷惑な行動であったように映る。
「大塩の行動自体は完全な失敗に終わった」と、三島は顛末について語ったが、自らの顛末について彼に言葉は出せない。国民には三島は痛々しく、滑稽に見えた。自衛隊に決起を呼び掛けるも、上官の命令でしか動かない隊員を、軍隊ゴッコ好きの小説家が、本気で動かそうと思っていたのだろうか。隊員たちに静聴を促す映像に見る三島は三文役者である。
広場に寄せ集められた隊員には、三島の演説を静聴しなければならない、「法的義務」などなかった。三島は彼らに、「それでも武士か!」と叱責したが、返ってくるのは野次と嘲笑ばかり。自衛隊がどうして武士であるのか?彼らは自衛隊法に基ずく国家公務員でしかない。大塩が生きていれば、「三島の行動自体は完全な失敗に終わった」と書いたであろう。
将棋の天才である羽生が、「天ざるのてんぷら抜き」と注文したからといって、「さすが」、「すごい」、「哲学的」などの評価は、一笑すべきバカの戯言である。三島の一連の行動を、「さすが、天才」などとは思えないが、我々凡人に11.25の行動を理解するのは難しい。三島は、通例として使われる、「行動力」という言葉の意味について疑問を呈している。
三島が大塩事件について、事の成否とは別に、大塩の直線的で一途な行動を評価する一文がある。大塩の代表作で読書録の形式で陽明学を説いた書、『洗心同箚記(せんしんどうさっき)』の中の、「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」という言葉である。吉田松蔭も、「取りて観ることを可となす」と評価し、西郷隆盛も禁書の同書を所蔵していた。
「心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れずして心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを知っているならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することはない。そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩はいった」と、三島は『洗心同箚記に共感し、紹介している。
三島はこの文章のうちに、「陽明学」という精神の核心をみていたようだ。「百歳まで生きながらえたところで、天命を知ることなく酔生夢死の一生に終わる」とした三島が、市谷駐屯地で命を断った1970年11月25日。彼は、『行動学入門』を著し、「行動とは何か」について、すでにある一切の、「理論」や、「学」にとらわれない、生身の体験に分け入った。
第一章において、「小説を書くのは行動でない」としたが、ひたすら机の前に坐して動かず、せっせと頭の中身を働かせるばかりで、あとは僅かに手先を動かすだけの作業だからではない。子どもを生み、育て、料理をすることも、絵を描き、作曲すること等々、人間の行う一切の活動は、日常生活であれ、芸術活動であれ、ほとんどのものは、「行動にあらず」と、三島はいう。