何をするも人生、しないも人生。人生とは両極だ。「人道」や「人権」や「正義」のためなら行動を惜しまぬ人もいれば、取り立て行動しない人間もいる。昔のことだが、出不精自慢の、「パジャマ党」を自負する友人がいた。「家にこもって何かイイことあるんか?」と聞くと、「大丈夫、果報は寝て待てっていうだろう?」と返した。シャレのつもりだろうが…
「果報は寝て待て」なる言葉を出すとは意外。「果報は寝て待ては、行動したうえでの結果待ちだろ?」というと、「飯も食うし、糞もするし、野糞はしないが、たまに外食にも出る」というので、「それは行動と言わない、活動だと三島由紀夫がいってる」、「三島が何といおうと生活のための行動よ」、「生活は生きる活動って書くだろ?」などともたれ合うのもお遊び。
「食べるために生きるのではなく、生きるために食べよ」はソクラテスの言葉。「食べる」は日常活動(生活)であり、食べていれば生きることはできるが、生きるための活動と生きるための行動は区別されるべきかと。ソクラテスの言葉は、「食べる」ことより、「生きる」ことを目的化している。食べて生きのびる事ではなく、「生きる」ために食べるが行動とはカッコいい。
「生きる」にはいろいろ意味があり、解釈の幅も広い。黒沢明に、『生きる』という作品がある。主人公は役所務めの市民課長。彼はどう生きたか?映画から感じるのは、日々の生活の中から、「生きる」ことを真剣に、本気で考えて実践するのが行動である。だらだら生きるのも、「生きる」というが、それはやはり活動だろう。クラブ活動というが、クラブ行動と言わない。
食べるための生産物や加工品を「食品」といい、動物にはない。彼らは、「弱肉強食」で生きている。考えてみるに、人間が動物の肉を食すのも、「弱肉強食」という野蛮な行為ではないか。人間社会も比喩的に、「弱肉強食」といわれている。良いことか、良くないことかはともかく、新自由主義に席捲されたこんにちの社会は、「弱肉強食」で成り立っている。
動物の、「弱肉強食」が自然の摂理なら人間社会においても自然なこと。弱肉強食は、格差社会で一段と増したようだ。子供3人を灘高から東大理Ⅲに合格させた母親の子育て本が話題になった。「ここまでやるのは凄い」という一面は認める。が、この種の子育てハウツー本は、これまでにも何度も出版されてきた。代表的なのは『パパは塾長さん』が浮かぶ。
1988年に刊行され、著者は芥川賞作家の三田誠広で、純文学小説とは比べ物にならないくらいに売れた。自分も同世代の三田に影響されてか、本は読まなかったが同じようにやってみようと、書店に行って中学受験の問題集を一冊買ってきた。家に帰って本の中身を見ているうちに、段々と腹が立ってきて、ついには頭に来て問題集はゴミ箱に捨ててしまった。
国語の問題集だが、「何でこんな無意味な漢字や諺や熟語を、受験というだけで覚えなければならないのか?」そういう腹立ちだった。物事を機械的に記憶するというバカげた作業など、とてもじゃないが我が子に強要できない。「できない」の詳細は、「したくない」である。こういう考えになると、受験勉強などは無意味でくだらないが、そう考えないからやれるだろう。
感受性の高い時期の子どもに、ひたすら物を覚える訓練を強いるなど、百害ばかりと思うが、高偏差値中学に入学することが唯一の利であろう。そのことで失われるものとの対比を考える親はいるのか?これを契機に、子どもには子どもの、大事な、大切な、育まれるべく情緒があると考えさせられた。受験制度批判もあるが、子どもの心に寄り沿った教育を親が見失なわないことが大事。
社会は偏差値教育の只中であったが、多数派に属さない親の信念は子どもに反映する。人は人、自分は自分であって、煽りは完全無視、煽られることも、染まることもない。『パパは塾長さん』はエンターテイメント本である。ハウツーものとしてはいかにも古く、役立つとも思えぬが、6年前にこの本を、純粋にユーモア小説として読んだ方の書評が微笑ましくもあった。
「私はこの本を読んでいて、ほんの少しだが羨ましかった。私は両親に勉強をみてもらったことがなかったからである。私は小中学の9年間で塾に通ったのは小学5~6年生の2年間だけだった。小学4年生のときに遊んでばかりで、急に成績が下がったことを担任にクラス全員の前で責められ、その担任を見返すために悔しさまぎれで塾に通ったのが偽らざる動機である。
この本の書かれている父と子の受験奮闘記は、奇しくも私が塾に行っていた小学5、6年の時期と合致する。当時、私は塾の隣りの女の子の消しゴムや筆箱を隠したりして困らせていた。彼女たちは同じ空の下で何処で何をしているのだろう。本を読み終え、学習塾で私のヤンチャに付き合ってくれた女の子たちがいたからこそ今の自分がここにいるように思う。」
なるほど。やんちゃは塾に行ってもやんちゃなんだなと。塾にもこうした楽しい時間があるんだなと。子どもが塾に行きたいと言ったことがあった。仲の良い友達が行ってるとの理由だが、行けば行ったで楽しいこともあったろうが、「塾に行って100点とるより、自力で50点を褒めたいね~。ウンチと勉強は自分でするものだ」と、説き伏せ行かせなかった。
そんな言葉に納得したとも思えぬが家の決め事である。塾で100点より自力の50点を褒める親もいれば、カープの鈴木誠也の父は、「宿題する暇があるなら走って来い」だった。いろんな親がいてもいいだろう。勉強ができるから可愛いではなく、バカでもいい子はいる。もし自分が今、子どもであったとして、バカだからの理由で親から嫌われているなら、悲しくはないのか?
そういう想像力を発揮すれば、あるがままの子どもを愛することもできよう。三田誠広は、百瀬昭次著『受験子育て戦略――わが子を成功型人間に育てるために』(1984年)を読んで感化されたようだ。日本人は相も変わらずホンネとタテマエで生きている。タテマエは、「学歴なんて関係ない」、「良い大学を出ても社会で役に立つわけではない」などと言ったりする。
ホンネは子どもに良い学歴を求めるおもしろいお国である。例の、「灘高3兄弟」の本のとおりの子育てをしてみたところで、良い子どもが育つわけではないと思いつつ、この手の本を手に取る親の性。「お金があるからできるのよ」という言い方(批判)をする親もいたりと、これは批判というより妬みである。お金があっても受験批判スタンスの人は、黙して語らずだったりする。
お金があったからといってできることではないし、あれは母親の狂信的ともいえる情熱の賜物であろう。的外れな批判を耳にするくらいなら、自分はこの母親の側を持ちたい。学費なんか借金してでもどうにかなる、くらいの意気込みと情熱があればやれる。ローンで3000万円の家を買ってがむしゃら働くようなもの。お金があってもできない、なくとも情熱があればできる。そう解釈すべきかと。
そもそも書籍で紹介されているような、労力と時間を子どもにかけることのできる親がどれ程いるか? できない人は、「パートで働いてて、できるわけない」などの言い訳をする。「もし、あなたが専業主婦であったとして、同じようなことができるのか?」、「そういう情熱があるのか?」と言いたくもなる。つまらん言い訳には、嘲笑のご褒美を差し上げたい。
批判というよりあの母を、「甘い」と感じた。勉強だけで他は何もしなくていい、これは勉強させんがための論理。塾講師の、「今でしょ」が流行ったが、躾も「今でしょ!」。都合の良い論理を基調に、「簡単なことはいつでもできる」などは、自己正当化の詭弁である。生活習慣を見くびる親は多く、だから身につけさせられない。難しいことはやれても、簡単なことができないのが人間である。
生活習慣を身につけるのがいかに大変か。親が息子にいかなる夢を託すも結構、すべては他人の家庭の問題であり、他人が他人を批判する理由はない。が、本を買って読んだ人が、「勉強は今しかできない、他のことはいつでもできる」という考えを盲信しないよう警鐘を鳴らしたに過ぎない。生活習慣の難しさは、取り返しがつかないほどに難しい問題と自分は考える。
「三つ子の魂百まで」ではないが、親がおろそかにしがちな問題に目を向けなければ、その子は身の回りのことができない大人になる可能性がある。子どものときに泳げないと大人になって泳げない。子どものときに自転車に乗れないと習得が大変。将棋のルールも同様だ。子どもの時期はあらゆる点で大切だから、勉強だけしていればいいというものでは決してない。
そういう事をすべて知ったうえで、それでも勉強だけでいいというならそれは選択の問題だから、無知であるのとは違う。昨今は、「男子厨房に立つべからず」という時代ではない。卵焼きはともかく、目玉焼きさえ作れない子どもがいる。男が掃除、洗濯せずとも女がすればいいという時代でもない。勉強ばかりで「生活感」のなさも困ったものだが、そういう子が多い。
掃除ができない、片づけができない妻、ダラダラして何もしない、蛍光灯さえ交換できないグータラ夫。生活習慣が身についてないことが原因で、夫婦の仲がこじれたり、裂かれたりすることもある。幸せな結婚、家庭を夢み、年収4000万を覆して夫を射止めた西川史子が、「ペットボトルのラベルをどちらが剥がすかで喧嘩になった」。これは決して笑い事ではないのだろう。
夫婦の軋轢とは、日常生活の細かいことが積み重なって起こる。昔の御主人様というのは、「縦の物を横にもしない」で威張っていられたが、今はそんなではさっさと離婚されてしまう。女性側から離婚を突き付けられる時代にあっては、男の子にも生活習慣を身につけさせるべきかと。医師で稼ぎがよくても、IT企業の社長で年収〇億であっても離婚は生じる。