Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「空気を読め!」というヘタレ

$
0
0

イメージ 1

「女性の道を切り拓いた人たち」という表題で歴史をさかのぼってみたが、そのきっかけは、今回のアメリカ大統領選挙だった。女性初のクリントン大統領が生まれるのか?歴史的瞬間を見ようと、アメリカ国民ならず全世界の人々が注視していた。残念ながら歴史は生まれなかったが、政治経験も軍隊経験もない初の大統領という新たな歴史を生んでしまった。

詳しく調べてはないが、政治経験が全くない企業家の大統領というのは、立候補者のみにとどまっている。アメリカというお国は日本の議院内閣制と違って、国会議員でなくても大統領に立候補できる。立候補できるということは、大統領になる資格があるということだが、アメリカ大統領の資格というのは、アメリカ合衆国憲法の第2条に以下規定されている。

 ・「ナチュラル・ボーン・シチズン(生まれながらのアメリカ市民?)」であること 

 ・35歳以上であること

 ・14年以上アメリカ国内に住んでいること

ただのこれだけ。上院・下院いずれの経験がなくても立候補は可能だが、過去に大統領経験のある者はダメ。トランプ新大統領は、「不動産王」の異名がある実業家である。かつて、「歌う不動産屋」と呼ばれた千昌夫が総理大臣になったようなものだが、彼はバブル崩壊で落ちぶれ、借金地獄である。政治家以外で大統領選に立候補したのは、1992年のロス・ペローがいる。

イメージ 2

民主党・共和党、どちらも支持しない元IBM社員で、ITサービス企業経営の独立候補者だった。2月に立候補表明したが、7月に突然不出馬を表明する。1984年の大統領選では、牧師で黒人運動家のジェシー・ジャクソンが、民主党指名を得るための予備選に立候補したが得票数は伸びなかった。上院議員歴の長い政治家も多いが、オバマ、ヒラリーは一期だった。

今回、米国民がワシントンの政治家に不満を抱いているのが如実に現れた格好だが、だからといって、アメリカ国民が政治家以外の大統領を、本心から望んでいるのだろうか?こればかりは、実際にアメリカに住んでみない事には実感できない。それより、小池百合子はなぜ東京都知事になれたのか?こちらを思考し、分析する方が日本人にとって分かり易い。

自民党はなぜ党員の小池を推薦しなかったか?当選後、「都議会の冒頭解散」とぶち上げた小池に都議会長老たちは怒り心頭だった。小池は都議会の既得権益との対決姿勢を鮮明にした。小池と同様、既得権益にメスを入れた猪瀬は、都議会のドン内田茂の画策で辞任させられた。舛添は神輿を担いでもらうただのお人形。石原?彼の裏の顔は卑屈な小心者。

「我田引水」という言葉がある。権力を持つ政治家がこれをやると国は崩壊する。都民のための仕事をしようとする知事は潰されるようだ。知事一人に数の都議が造反なら、孤軍奮闘するしかない。橋下徹のように論は長けても、論だけで議会は牛耳れない、ゆえに潰される。飴と鞭が大事というが、橋下や小池は飴をしゃぶらせるタイプではなさそうだ。

イメージ 3

いみじくも猪瀬が言ったように、都民がハイエナ都議をしっかり監視するしかない。どこの誰にどのような既得権益があるのかを把握するのは至難である。また、いかなるハイエナも選挙の時だけは土下座をする。小中校のいじめと同じで、周囲が見て見ぬふりをするから発覚しない。議員たちもこれと同じであろう。まさに子どもの世界は大人の縮図である。

「平和で住みよい世の中にしましょう。一緒に祈りましょう」などの宗教勧誘言葉は、どうにも寝言に聞こえてしまう。祈りを否定はしないが、祈って世の中がどう良くなるというのか?悪を排除、排斥するためにはどうすべきかを考え、啓蒙する方が真に世のためになる。神の言葉を暗唱・復唱し、観念的な言葉をいったところで、メシのおかずにもならない。

本気で何もしようとしない人間が、道徳や良心をもちだすのが、いい加減うんざりの昨今である。最近は山本七平の本を取ることが多い。が、文庫本1ページに20行もの小文字が苦痛である。本を読むことがこれほど苦痛なのは、眼鏡嫌いということもある。せめて七平の本くらいは読みたいが、これがしんどい。七平信奉者の谷沢永一も、『山本七平の叡智』を著わしている。

谷沢をして、「史上最高の日本人」と言わしめた著書の冒頭文。「自分のリクツを見せびらかすために本を書く人がいる。(略) どうです、私は頭がいいでしょう、と反っくり返って見せるわけであるから、確かにいい気分ではあるだろう。その正反対が山本七平である。読者のひとりひとりが自分の考えを練ってゆくのに、少しは参考になるでしょうかと、控えめに思うところを差し出す。」

イメージ 8

イメージ 4

いささか飽き気味の観念論を無理して読んだところで、腹の足しにもならない。七平の『空気の研究』の初読は30代だったか、手元の版は、「1988年第2刷」とある。最近これを再読した。その理由というのが、巷でひっきりなしに耳目にする、「空気読めよ!」という流行り言葉に腹が立ったからだ。「空気読めよ!」って、直に言われたことはないが、言われたらカチンだろう。

「何だと?空気を読めだと?お前はバカか、空気は吸うもんだろが!」くらいは言い返すかも…。「空気を読め!」なる言葉は、どこかのヘタレが、「何を偉そうにバカを言ってやがる」くらいにしか思えない。そんなヘタレバカに、「お前な~、空気を読めないんか?」などと言われて、焦って、ドギマギして、「はい、スミマセン」などいってるようでは、この国は終わったも同然だ。

そんな言葉はなかった。場の空気はさまざまあったにしろ、空気を察知する者はいるにせよ、「空気を読め!」など誰もいわない。それにして、「空気」感というのは付和雷同型日本人の典型で、グローバルな時代において時代遅れも甚だしい。人の意見とは、空気に支配されるくらい軽いものか?他人がどうあれ、自分の意見は空気などに吹かれない。七平は言う。

「『空気』とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが『空気』に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。」

イメージ 5

様々な「場」で、空気を感じることはあった。場の空気はなぜ澱み、なぜに漂のか?その場の空気を作り出している張本人は誰なのか?まずはそこを読む。読んで判断し、空気を醸すターゲットに攻撃をかける。よって、空気に順応することはなかった。暗黙に空気に支配されたこともない。金魚のうんちのような自分ではありたくない。場に抗うのではなく、標的は空気の主である。

地域の寄り合いに顔を出した。自分は転入したばかりの新参者だ。が、ここでは長老が決めて皆が従う。そういう所であるのはすぐに実感した。自分は長老と考えが異なるので反対した。すると長老は、「あんただけど、反対するのは」というので長老にいった。「『長いもには巻かれろ』っていうけど、それって若い者は意見を言うな!ってことでしょう?」。

長老は絶句し、言葉を返さなかった。が、会がお開きになるとすぐに自分のところに来て、「あんたは長い者に巻かれろといったが、あれは貧乏人の言葉で…」と言って出ていく。「貧乏人の言葉?」さっぱり意味が分からないが、プライドを壊された長老は何かを言おうと躍起になって考えた言葉である。周囲が持ち上げる長老だが、「この人の頭の中身はこの程度」と思うしかなかった。

昔はなかった、「空気を読め!」という言葉。こんな言葉が支持され、流行るようでは、穏便にいえば日本人は田舎者だ。「長い者には巻かれろ」より、陰湿な感じがする。若者がこんな言葉にひれ伏し、自分を閉ざすようでは話にならん。「空気は吸うもんだろ?バカいってんじゃないよ」と反発し、あげくは、「そんなくだらん言葉、二度と口にするな!」くらい言ったらいい。

イメージ 6何かを決める時に、「場を混ぜ繰り返すのはよくないから黙っていよう」という人はいる。日本的にいうと彼らは善人かもしれない。が、良い考えやアイデアと思えば遠慮くなく言うべきである。「どうせ自分の意見なんか、大したことじゃない」などと卑屈になることもなければ、尻込みすることもない。意見が乱舞してこそ熱心である証拠。アメリカ人の管理職はそう判断する。
まさか、「黙っている社員は善良」と判断するおバカな日本人管理職はいないだろうが、いたらヘタレ会社であろう。シドニー・ルメットの、『12人の怒れる男』を見た時、これがアメリカのいう民主主義の強さなのかと感じ入った。先日観た松本清張の『疑惑』は、現代風にアレンジされていたが、そのワンシーンで、裁判員裁判員が、「 (容疑者には) 疑惑はあるけど、証拠がない。」と困り果てる。

同席の判事に、「こういう場合、どうすればいいんでしょうか?」と尋ねる。問われた判事は、「そういう場合は、刑事裁判の大原則に照らして評決をしてください」とアドバイスする。刑事裁判の大原則とは、「疑わしきは罰せず」となっている。刑事裁判ならそうであるが、三浦九段疑惑は裁判になってない。彼は将棋村の村民であり、村の長から疑わしきを罰せられた。

第三者委員会が処罰の妥当性等を探っているが、名誉棄損が回復されない場合、裁判に持ち込むべきとの意見は多い。ただ、三浦九段のケースは民事であって、民事訴訟というのは、私法上の権利の有無、請求権の有無についての判断を裁判所に求める場であり、刑事事件にいう犯罪事実の有無や、被告人の犯人性の証明ではなく、あくまで権利の有無となる。

また、民事裁判の場においては、原告と被告は対等であり、刑事裁判のように一方が弱者とまではいえず、したがって、推定による原則を持ち出さなくても不相当とはいえない。よって、推定無罪という刑事裁判の原則は当てはまらず、民事の原則は第三者である裁判官の判決より、当事者双方の話し合いでの妥協による和解であろう。この件の推移を見守っている。

推論を述べるなら、三浦九段は将棋村の一村民である。その中で棋士という仕事をさせてもらう以上、村の論理が大きく立ちはだかり、従うしかない弱者である。こんな会社は辞めて別のところで働くわけにいかない。いかに無実といえど、嫌な相手と対座し、対峙して将棋を指すしか道がないのを彼は知っている。理不尽ではあるがそれが彼の生きる道だ。

イメージ 7


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>