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女性の道を切り拓いた人たち ⑪

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矢嶋楫子について全然書き足りていない、ゆえにもう一稿。彼女はあの時代に異常なほどの健康と、過剰ともいえるエネルギーを持ち、負けず嫌いで、強情っぱりで、命尽きるまで働いた、"頑張り屋婆さん"であった。NHK連続テレビ小説『花子とアン』の主人公村岡花子は、「矯風会」を通じて楫子とつながりがあり、荻野吟子も、「矯風会」の会員だった。

「矯風会」は、1886年(明治19年)12月、東京婦人矯風会が結成され、日本における婦人解放運動ののろしがあがった。楫子は初代会長となったが、時に54歳であった。1982年(明治25年)には全国的な組織と発展し、「日本基督教婦人矯風会」となり、楫子は初代会頭の推された。最初に手掛けた運動として、1890年(明治23年)に開設された国会に二大請願を提出。

一つは、「一夫一婦制の確立」、もう一つは、「海外醜業婦の取締」である。海外醜業婦とは「からゆきさん」をいい、海軍大軍医の石神亨が軍艦で欧州に往復する途中、シンガポール、東南アジアの諸都市に「からゆきさん」と称す、騙され売られた賤業婦の多くは、日本に帰りたくても帰れず苦悩する者、病と貧で死ぬのを待つばかりの女性を見聞し報告した。

矯風会は、この問題に取り組み、1916年(大正5年)に、「海外醜業婦防止会」作り、林歌子ら3名を海外派遣して醜業婦の現地調査を行い、国内においては、醜業婦の出身地天草、島原地方の調査も行っている。さらに矯風会は、足尾銅山鉱毒事件の時には、田中正造や木下尚江らとともに、被害者の惨状を世間に訴えた。また、日露戦争の際、6万個の慰問袋を作った。

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廃娼運動も続けられ、1917年(大正6年)、大阪の北新地遊郭が全焼したのを契機に、矯風会は消失遊郭の復活阻止運動を展開したが、翌年飛田に2万坪の遊郭地が指定され、強力に続けられた運動は敗北に終わる。楫子は1914年(大正3年)に女子学院を辞し、その老躯を矯風会事務所に移すと、遊郭廃止運動に東奔西走の活躍を見せる。1920年(大正9年)、楫子が欧州に赴く。

第10回万国矯風会大会出席のためだが、このとき88歳であった。翌年も89歳の身を以て、四国・九州を経て満鮮に赴き、40日間の日程をこなす。さらに翌年には渡米の途に着くなど90歳にして八面六臂の活躍であったが、さすがの楫子も以後は病床に伏せる。「私は誰もいない静かな時に死にます。皆がいて騒がれてはたまらない」と口にする楫子であった。

1925年(大正14年)6月16日、楫子は93歳の長き人生を終えたが、甥の徳富蘇峰をして、「精力絶倫」といわしめた。その言葉を表題にし、村岡花子は、「矯風会」機関誌『婦人新報』に、弔文を記した。蘇峰は青山会館で行われた楫子の告別式に、以下の追悼の言葉を述べている。「…私は如何なる具合であったか、幼少より此の叔母さんは嫌ひでありました。

而して長き歳月の間、厳正なる批評家の態度を持って、其の一切を観察して居りました。(略) 併しながら如何に峻厳なる批評者として之を観察しましても、一切を乗除して、矢嶋楫子は、明治大正の御代に於て、偉大なる婦人の一つであることを、否定するわけには参りませぬ」。彼女の性格の全貌をこう伝え、さらに蘇峰は楫子の墓碑銘の中に「精力絶倫」と記す。

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「精力絶倫」は男に向いた言葉と思いきや、女性に向けられたのは稀有であろう。楫子にそれに代わる適切な言葉は見当たらない。同じ甥で蘇峰の弟である蘆花も、「あんな嫌な婆さんはいない」と言ってたというが、二人の甥に嫌われるところに、楫子の人間的本質があったろう。88歳でロンドンで開催の万国矯風会会場で、名物婆さんと言われ楫子である。

蘇峰も蘆花も楫子の6歳上の姉久子の子である。二人は楫子を嫌ったが、反面楫子に辛辣であった。楫子にはぬぐい難き過ちがあり、そのことは、蘇峰も蘆花も知っていた。過ちとは、楫子が兄の看病のために上京、兄宅で奉職中に書生の鈴木要介と肉体関係を結んだ。人目を忍んで4年間も関係を続けたが43歳で妊娠。楫子は堕胎しようとするが、要介の希望で産むことになる。

東北出身で妻子がいた要介は、「ともに故郷に帰り、妾として戸籍登録をする」と申し出るも楫子は断わり、仮病を使って学校を休み、練馬村で出産する。楫子は子どもを農家に預けて教師を続けた。ごく親しい近親者以外はこの事実を知らない。数年後、楫子は、可愛そうな孤児がいると嘘をついて女児を連れて来、実の娘を養女と偽り、矢嶋妙子と名乗らせた。

人々は楫子の慈善心の深さに感銘を受けていたという。楫子は妙子を自身が院長をしていた女子学院を卒業させたが、最後まで秘密を明かさなかった。やがて妙子は、矢嶋・徳富両家の親類つづきである牧師と結婚するが、親の因果が子に…ではないが、妙子は夫以外の男と不倫関係となり、夫を捨てて男の元へ走る。悲嘆にくれた楫子は運命のいたずらを実感する。

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要介とのことがあった翌年の1879年(明治12年)、それまでキリスト教に不快感を抱いていた楫子だが、ミセス・ツルーの影響もあって、築地新栄教会でタムソン牧師から洗礼を受ける。当時17歳でキリスト教徒であった甥の蘇峰は、楫子の洗礼に際し、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと  2.妻子ある男の子を産んだこと)」を告白すべきとの手紙を送っている。

蘇峰の弟である蘆花も、老叔母楫子の死の直前まで、楫子の過去の秘密(過ち)を告白せよと追求した。若く純粋だった二人の甥は、罪の懺悔もないままに教育者という偽善を侵す楫子が許せなかった。楫子は終ぞ死ぬまで告白しなかったが、蘆花は楫子が亡くなるやすぐに、「二つの秘密を残して死んだ叔母の霊前に捧ぐ」という文章を『婦人公論』に発表したのだった。

亡くなってすぐに故人の、それも身内の暴露話や批判をするなど、非礼という言葉では済まないが、蘆花にとっては楫子が告白を拒んだ不誠実な態度がよほど腹に据えかねていたようだが、事実は違った。蘆花夫婦に懺悔の説得を促されていた楫子は、意を決して矯風会の幹部であり、のちに会頭に就任することになる久布白落実に依頼して、懺悔録を口述筆記させていた。

楫子とて生身の人間である。蘆花が病床で懺悔を厳しく迫った時、楫子自身、善悪の狭間で大いに悩んでいた。そうして遂に、蘆花の姪であり、楫子にとっても姪の娘である矯風会の若き幹部である久布白落実に口頭筆記をさせていた。落実は掲載を悩んでいた。ところが、蘆花が暴露したことで、落実は1925年(大正14年)9月、矯風会機関誌『婦人新報』第331号に掲載する。

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これまでの楫子の虚妄人生は、クリスチャンである久布白落実にとっても許しがたい欺瞞であったが、懺悔録が公になれば、楫子の評価は地に堕ちるばかりか、「矯風会」はキリスト教の慈善団体どころか、偽善団体として世間の批判にさらされる。落実はそう考え、楫子からの口頭懺悔録を隠蔽するつもりでいた。もし、蘆花が暴露をしなければ公にならなかった。

楫子の過去にあった2つの大罪は、落実さえ黙っていれば永遠に隠し通せると思っていたようだ。それが、まさかの親族である蘆花が、それも楫子の死の直後に暴露するなど、予想もしていなかった。それについて蘆花はこう述べている。「私が大正11年の秋、夫婦で十年ぶりに訪ねて行ったとき、『叔母さんは死ぬ前に一切の秘密を告白しなければならない』と迫りました。

そのとき叔母は非常に落ちつかぬらしかった。しばらく考えた後に、『私の過去の秘密を知ってくれて感謝しますが、私のことは私で処理します』と言い切ったので、そのまま帰って来ました。早く懺悔をしてもらいたかったのです。懺悔の一日も早からんことを願って、毎日胸が躍るのでありました。が、叔母はついに、懺悔しないで死んでしまいました。

知らない人を叔母が懺悔しないで導いたのは大きな罪悪であると私は思います。過去の秘密を隠していながら、叔母は人を導いたり、人に教えたりするところに嘘がある。」盧花はこの文章を発表して、大いに社会からの反発を買ってしまう。何十年も前の若き日に犯した過失を、かくも執拗に告白せよと迫られては、楫子も迷惑に思ったことだろう。

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が、叔母の欺瞞が許せなかった蘆花の純真な気持ちも判らなくはない。子どもを捨てたこと、不倫の子を産んだことを隠すために、楫子は無数のウソをつき続けなければならなかった。嘘に嘘を重ねる行為は、もはや罪の意識など微塵もない、嘘の技術と化してしまう。嘘をつくことより、嘘の上塗りが問題。そこに歯止めをかけなければ人は嘘つきとなる。

「真実」というのは、なんと恐ろしいものであろうか。どうあがいても、真実は本人も他人も傷つかずには実行できないからだ。自分も他人も傷つくがゆえに真実は偉大であり、真実は美しいと思っている。なぜ傷つくことが美しい?人間が耐える姿がそこにあるからだ。人間の耐える姿はいかにも美しく、「頑張る」という情緒の極致ではないか?

ところが、真実を求めていく過程で、真実の圧迫に負けてしまうことがある。真実に耐えられる人間を真に強いといい、これとて美しい。人は嘘をつきながら、嘘をついている自分を認めるだけの強さがないために、やれ道徳だ、良心だのと無意識に誤魔化してしまう。自分の弱さを弱さと認められないのなら、人間の偉大さは何処に行ってしまうのか。

嘘を嘘だと認める、醜いことを醜いと認めることは勇気がいる。が、嘘を真実といい、醜いことを美しいと思い込むのを欺瞞という。「他人を傷つけたくなかったから、嘘を嘘だと認めたくなかった」という言葉を口にする人はいる。一見、思いやり、慈悲のこころのようだがダメだ。真実を実行するとき、人は傷ついてもいい。それ以上に自分が傷つくことになるから…。

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