らいてうが1908年(明治41年)に起こした心中未遂事件は、塩原温泉という土地から「塩原事件」ともいい、森田の小説から「煤煙事件」ともいうが、大杉栄の愛人神近市子が野枝に嫉妬し、短刀でもって大杉の咽喉を刺した、「日陰の茶屋事件」に比べればおままごとであろう。らいてうの行動は思慮浅く、脳ミソは幼児的なのかも知れない。本能の赴くまま行動する女に似ている。
1903年(明治36年)らいてうは、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて、日本女子大学校家政学部に父を説得して入学した。そんならいてうが22歳で起こした心中事件は、観念的女性の事実認識の甘さという特質が、如何に足元をすくわれ易いかを示している。事件の後、禅寺の若僧秀嶽と肉体関係を持つなど、らいてうは世評通りの淫乱女性である。
彼女が立ち上げた『青鞜』運動も、晴れがましい一面を持つ運動にはちがいないが、言ってれば観念的女性の認識の甘さに当初は推薦者たちも気づいてはなかった。が、より現実的で実践家には耐え難い行動に映ってしまう。彼女の内的衝動の強さは自身も認めているが、他者からの目で見直そうとしない(客観的自己変革がなされない)のは、社会的存在としての自覚の弱さであろう。
らいていが拠り所にした市川房枝の言葉を思い出す。話は戦後に飛ぶが、戦後の女性運動の大きな目標に、「我が子を戦場に行かせない」という平和運動があった。らいてうは、「非武装の日本」をアメリカに訴えたいと、野上弥生子、市川房枝らを誘い、自筆草稿文書をダレス国務長官あてに提出した。にも関わらず、日米はサンフランシスコで単独講和条約とともに安保条約を結ぶ。
しかし、らいていの平和運動はおさまらず、「再軍備反対婦人委員会」委員長、「日本婦人団体連合会」会長、「国際民主婦人連盟」副会長を次々に立ち上げた。昭和30年代から晩年のらいてうの活動はみなぎる信念と思われていたが、古くからの同士市川は、「平塚さんは本物じゃないですね。彼女はイデオロギーは持っていませんでした」と、批判と受け取れる言葉を発していた。
市川はらいてうを派手好きのノンポリ女と見抜いていたようだ。話が前後するが、らいてうは、1919年(大正8年)、奥むめおや市川房枝らの協力を得て、「新婦人協会」を結成し、同年協会の機関誌『女性同盟』を発行する。創刊号にはらいてうの、「社会改造に対する婦人の使命」は、『青鞜』創刊号の、「元始女性は太陽であった」と並ぶ、彼女の代表的な論文といえる。
「新婦人協会」の発起人は後の主婦連会長を務めた奥むめおで、上野の静養軒で行われた発会式には、大山郁夫・堺利彦・嶋中雄作・秋田雨雀らが駆けつけた。らいてうは賛助員に森鴎外の名を連ねたく手紙を出す。その中で、「市川さんが訪問した有名婦人の中には賛成はおろか、らいてうは不道徳な女で、社会的信用がゼロだから、そんな女が計画しても成功する筈がない。
あなたもおやめなさいなど逆説法されたりして、わたくしをまだ深く知らなかった市川さんはいささか心の動揺をしていた時でしたから」。市川の離反を周囲のそそのかしと言わんばかりである。男性中心の、「新婦人協会」をみても、らいてうは女性に嫌われていた。婦人活動の担い手山川菊栄は、「労して益なき議会運動」、「ブルジョア婦人の慈善道楽」と協会活動を批判した。
らいてうと母性保護論争を繰り広げていた与謝野晶子も、雑誌『太陽』にて、「新婦人協会」の活動目標を、「全く異様の感を持たずにいられなかった」と舌鋒鋭く批判した。日本社会の底辺に、「労働者」という新たな階層が生じた時期、らいてうは本質的にどう転んでもブルジョア的である。市川も悩んだ末に、らいてうといるかぎり「新婦人協会」はうまくいかないと去った。
何かと誤解されやすいが、物事を観念的・抽象的に見るということは、物事に対して高踏的になることではない。個別の特殊な物事に対し、単に感性のみで反応するのではなく、特殊なことを他のものとの共通性において、一般化しながら、そうすることで特殊たる本質を見ようとする態度であろう。あれこれの結論より、感性で此の世に繋がるより、観念的な自己主張で生きる。
その方がより自然の「生」であろうとする女が出現したのが明治だった。女の論文、女の評論には先走った感情論が見え、疑問符もつくが、そんな不備をカバーすべく熱気を明治の女性は備えていた。当時、『青鞜』、『婦人公論』、『女性同盟』などに発表されたらいてうら婦人運動家の記述には、論の是非とは別の、女性ならではの多くの問題提起があったのは事実である。
『女性同盟』はわずか3年の短命であったが、その後らいてうは、多くの組織を立ち上げている。再軍備反対婦人委員会委員、国際民主婦人連盟副会長、世界連邦建設同盟顧問、原水爆禁止日本協議会代表委員、世界平和アピール七人委員会委員、新日本婦人の会代表委員などがある。ベトナム戦争勃発時には、「ベトナム話し合いの会」や、「ベトナム母と子保健センター」を設立する。
イデオロギーがないのを市川に看破されたらいてう、喧嘩は好きなようで、青鞜社を、「病的狂的現象」と批判した母校日本女子大創立者で校長の成瀬仁蔵にも、「ジャーナリズムの非難、攻撃、揶揄と同調して、軽率にも、無責任にも、ジャーナリズムの描くところの青鞜社なるものを目の敵にして騒いだのは、当時の女子教育家連中でした」などと反撃するなど、返報感情はいたって強い。
当時は女が、特定の価値観を体系的に表明すること自体、画期的なことだが、らいてうはさらに異なった価値観を持つ人にも論争を吹っ掛けた。与謝野晶子との、「母性保護」論争も、論争を超えた喧嘩の域をでない。晶子は、「妊娠・分娩期の女性が国家に経済上の保護を求め、国家に寄食するのは、労働能力の老衰者や廃人が、養育院の世話になると同じ」とした。
対するらいてうは、「母性の保護は国家の当然の義務である国庫補助によって、妊娠・分娩・育児期における母体生活の安定をはかられるべき」と主張。晶子が反対するのは母性保護自体というよりも、「国家利益としての子育て」という主張と、「女=母=子育て」という等号で、働く力がありながら、「国に手当てをもらう国の妾」という自立心の低さである。
貧窮にもめげず11人の子を育てながら、夫の鉄幹の身勝手にも後ずさりをすることもなく、あらゆる文芸活動や社会活動をしていた晶子は、経済的独立をあくまで自力で獲得するべきだと説いた、「徹底した女の独立」という主張であった。それに対するらいてうの反論は、育児とを天職化、美化するような論調で、「女性解放は自立自尊から」の原則からして中途半端は否めないとした。
そこに割って入り、らいてうを揺さぶったのが、社会主義者山川均の妻で女性運動家の山川菊栄である。彼女はたいてう、晶子両者の主張を分析し、問題の根本的解決を、「資本主義社会の矛盾」と喝破して、ひとまず論争に終止符を打つ。三者三様といいながら、観念的思考に脆弱な女性の、論者としての限界が、ただ一人においてよりも強調され、拡大される結果となっている。
少し後にらいてうは市川房枝に出会う。「いままでの日本女性にまったくない活動性と実務性を感じた」、「いづれこの人の力を借りたい」と、市川を評価するなど印象を述べている。房江に引きずられるようにらいてうは、名古屋地域の工場を見て廻り、さらには東京モスリン工場に入り、女工の山内みなを知ると、「国民新聞」に10回にわたる「女工見聞記」を書くようになっていた。
綿ぼこり舞う地獄のような紡績工場を見学したらいてうは、女子労働者というのは、俗な婦人論のいうところの、家庭における婦人の余力や、経済的独立の欲求の結果では無く、家族の生計の足しに働きに出ていることを認識する。こんなことは労働者階級にとっては当たり前のことだが、当時のらいていにはそれがなかった。そういうところが山川の指摘する、「ブルジョワ的」であろう。
らいてうは、「私から見れば、今日は一般婦人に向って労働を奨励すべき時ではなく、むしろ反対せねばならぬ」と、「わが国における女工問題」と題する論文を、「婦人公論」1919年6月号に書いている。また、同年9月の国民新聞には、「いったい日本の産業界は幼児を抱いた母からその幼児を奪ってまでも産業に従事せしめねばならぬやうな実際状態にあるのでせうか。
婦人が工場で働くといふことは、幼児から母の柔らかい腕とその温い胸とを奪はねばならぬほど人生において絶対の価値あるものでせうか。人間そのものを創造する母の仕事と人間が消費する物品を製造する労働者の仕事といづれが大切なことでせうかと」と、問題提起をした。らいてうは市川房枝から多くを触発されたが、らいてうと自分の人間の質差を実感した房江はらいてうから去る。
実務に長けた市川を失ったらいてう、彼女は実務能力ゼロ、政治センスもない(料理も裁縫もできない)らいてうが、社会運動から離れることになった。労働運動に疲弊もあったが、実は質屋に通うほどにお金にも困っていた。大正10年(1921)、らいてうは画家の奥村博と信州に転地する。奥村と出会ったのは1912年の夏で、同棲を始めた直後、野枝に『青鞜』を譲った。
農家を借りうけ、「村の生活」をするようになる。らいてうの新たな生活実験だったのだが、世間はそうは見なかった。らいてうが明(はる)という本名かららいてう(雷鳥)に変えたのは、心中未遂事件での激しいバッシングから逃れて長野県の友人宅に身を隠していた時である。雷鳥が冬に羽毛を白色に変えることを知り、自らの脱皮を願ってらいてう(雷鳥)とした。
らいてうの昌子批判は延々続いた。彼女は与謝野晶子を、「着くたびれた、しわだらけの着物」などとあざとく評す。山川菊栄についても、「娘らしさというものがみじんも感じられない」、福田英子には、「血ばしったような大きな出目」、伊藤野枝を、「料理下手(略)汚いことも、まずいことも平気」など言いたい放題。こうした女の感情的悪口は、男から見るとバカ丸出しである。
言わなければバカに見えないが、言いたいのが女なんだろうか。今回、「女性の道を切り拓いた人たち」の表題で上げた女性解放者、先駆者としての女性たちの中で、他人の悪口が過ぎる平塚らいてうがバカにみえてしまうのだ。行為や行動についての批判、主義・主張の批判ならともかく、「お前の父ちゃんデべソ」的な悪口好き女は見苦しい。情緒未発達のバカ女と常々思っている。
「男女平等」、「男女同権」と声高に叫ばれているが、それが本当の女の幸せなのだろうか?どのように考えても質的差のあきらかなる男女同権論は、間違いなく女性に不利ではないだろうか?自分は、女には許せても男なら許せないものがたくさんある。また、男には敵わない女性の優れている面を知り、上記のような感情的悪口など、女性の嫌な面も知っている。
画一的な男女同等・同権は、人類の大きな損失を招くものだとも思っている。男には男の、女性には女性としての、特殊な権利というものが間違いなく存在する以上、それぞれの長所や利点を尊重し合う、真のアダルトな感性を身につける教育ができないものか?戦後、日教組が誤った男女平等思想を持ち込んだことが、教育の荒廃を招いたのは明らかであろう。