平塚らいてうが1911年(明治44年)に『青鞜』を起こしたのは、生田長江の強い勧めがあった。東京帝大卒で成美女子英語学校の教師時代に、当校に通うらいてうと生田は出会う。らいてうは1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業後、二松学舎(現在の二松學舍大学)、女子英学塾(同津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年(明治40年)、成美女子英語学校に入学する。
成美英語学校には生田を中心にした若い女性たちの文学研究会「閨秀文学会」があり、与謝野晶子、馬場孤蝶、島崎藤村、森田草平らが教えた。同会の回覧誌に発表したらいてうの処女作小説『愛の末日』が森田の関心を呼び、1908年(明治41年)、奥塩原温泉尾花峠でらいてうは森田と心中未遂事件を起こす。なんでそうなるの?のっけはこの事件から…
閨秀文学会の生徒であるらいてうにぞっこん惚れた森田は、らいてうに迫り強引に交際を申し込む。当時らいてうは、浅草の海禅寺で禅の修行に通っていたが、若い住職にいたずらっぽくキスをしたりしていたという。長い坐禅をした後、夜になって青年僧に出口まで送ってもらったときに、「チューっ」と、挨拶がわりに接吻したという程度のことらしいが…。
それでもこんにち、寺の玄関で青年僧に、「チュー」する女性修行者などいないし、なんともたばかった女である。若き美女にこんなことをされた秀嶽が、舞い上がり、真剣になるのは無理からぬこと。師と仰ぐ僧に相談に行き、求婚を決意した。これに驚いたのはらいてうである。彼女は男女の性的なことへの関心度は薄く、いわゆる晩生であったというが、秀嶽は真剣であった。
「結婚して欲しい。自分が僧であることが嫌なら止めてもいい」などと言いだす始末。困り果てたらいてうを助け、なんとか秀嶽の燃えさかる情熱をなだめてくれたのが、親友の木村政子であった。晩生の女性は、とかくこのような、男に誤解を与えるような言動をやるが、男女の機微というものがまったく分からない無知女ゆえの所業である。しかるに男は単純だ。
時代は日露戦争さなかの明治39年である。いかに晩生とはいえ、勉強ばかりの文学少女の他愛ない行為を責められない。向学心は結構なことだが、当時22歳の女性が玄関で若僧に、「チュー」はあまりに無垢、あまりに幼い。そんならいてうが心中事件を起こす。上記したらいてうの処女作小説、『愛の末日』に感化された森田が、らいてうに言い寄ってきたのだ。
森田は文学者としての批評も兼ねた手紙をらいてうに送り、褒められてご満悦のらいてうをデートに誘っている。一週間後のことだ。ゼミの講師が生徒を誘ってついて行く女もいる。嫌悪する女もいる。善悪はない、女次第だろう。らいてうは前者だった。朝の九時から夜の九時までのデートだが、その日に二人はキスをする。森田にとって念の入ったデープなキスであった。
らいてうはデープキス初体験にかなり上気した。そうだろう、そりゃ。さらに森田はらいてうの袴の上越しに接吻をすると、「そんな真似事みたいなことは嫌です」とらいてうはいった。「遠慮せずにもっとしっかりやってください」と、こんな言葉で森田をけしかけた。やんわり、おっとり進めているのに、「しっかりやってください」という女は、さすがに記憶にない。一体、どういうこと?
「しっかりやって…」などは今どきの言葉にない。言われたら吹き出すかも知れん。が、森田の性欲に火をつけたようだ。上野の森で袴の裾を上げるわけにもいかず、森田は思い切ってらいてうを、富士見町花街の「待合」に誘っている。「しっかりやるため…」にである。火鉢一つしかない殺風景な部屋だが、襖の陰には布団が用意されており、事はそれで充分であった。
いわゆる昔のラブホテル。とりあえず二人は、"なんじゃら、かんじゃら"で、コレという話もないままのいわゆる、「抱く前と 抱かれる前の 無駄話」状態である。森田はやおら立ち上がり、引きずり出した布団の上に体を横たえ、「ここにいらっしゃい」と誘った。さすがに未通女の要領は悪く、それも魅力と言えば魅力であり、一度だけのかけがえない魅力である。
男女関係の無知もあってか、らいてうは拒否の言葉を知らない。了承の言葉も見つからない。そんなときに、「私は女じゃない」といった。さらに「男でもない」といった。そして、「それ以前のものです」といった。上気の為か、緊張感か、支離滅裂な言葉を言わせる。こういう場合にもっとも親切なのは、了承を取らずにかぶさるべきである。美人局ではないのだから。
高畑事件のように、後で怖いおっさんが出てくることもない。「恋愛や性欲のない人生はどこにもないんです。それじゃ無のようなものじゃないですか」などと、森田は懸命に諭すもらいてうは、「無で結構です」と真面目に返す。「むむむむ…」などと、面白可笑しく、場を和ませる才覚は森田にない。本来なら、「そうですか。分かりました」と、尻込みせざるを得ない状況にある。
が、そうはならなかったのは、らいてうがまんざらではなかったからであろう。女の性欲を沸き立たせるるような男の言葉はないが、好奇心という別の情緒もある。案の定、らいてうの開通式は滞りなく行われた。性欲はなくとも、好奇心で初体験を終えた女性は、この世にゴマンといる。なんでもいいのよ、チャンスはチャンス、チャンスを逃した婦女子もいるわけだ。
らいてうという女を現代に当て嵌めてみるに、無知からくる素直さ、不用心さ、スレてない純真さ、帰り際に若僧にチューをするなどの屈託のなさ、そういう女は男として放っておけないところがある。恋人としての対象にならない女性であれ、男女関係のみの継続は可能だ。どっちのみち、森田には妻子がいるわけだ。らいてうにしろ、森田にしろ、行き場のない恋である。
恋というより、「お遊び」の様相だから、心中などという遊び半分な言葉もでよう。その気がなくとも、演じるくらいはできる。その辺は女の方が演出に長け、らいてうは懐剣を用意していた。森田は、「わたくしはあなたなら殺せると思う。殺すよりほか、あなたを愛する道がない」などと気取ってみても、所詮は、「心中ごっこ」のおままごと。らいてうは森田の覚悟のなさを見抜いていた。
その日の朝、二人は海禅寺で待ち合わせ、汽車で北をめざすと、雪の塩原温泉の尾頭峠を彷徨したあげくに死にそこなった。死ねなかったという心中もあるが、死ぬ気はなかった、死ぬふりをした心中も少なくない。二人には追い詰められたものが何もなく、どちらともなく言い出したことに引っ込みがつかず、とりあえず芝居の限りを尽くしたと自分には映る。
精神年齢の低さ、幼稚さが引き起こした茶番劇であろう。二人には捜索届けが出ており、近くの旅館にいるところを発見された。二人の心中未遂事件はあっという間に世間を駆け巡る。らいてうを嫌う人々は、好奇な耳目をそばだて、新聞は連日書きたてた。森田のことは話題にもならず、らいてうばかりを話題にするが、総じて結論は、らいてうが色情狂の淫乱女で収まる。
「紳士淑女の情死未遂」、「情夫は文学士・小説家、情婦は女子大卒業生」、「いやはや呆れ返つた禅学令嬢といふべし」、「蜜の如き恋学の研究中なりしこそあさましき限りなり」などなど、新聞各社の嘲笑的な見出しが、主人公の顛末を物語っている。雑誌『女学世界』は、三宅雪嶺、内田魯庵、二葉亭四迷、三輪田元道に、「緊急・謎の解明」にあたらせた。
魯庵は、森田が事件の朝の新聞を読んでいたらしいことをとりあげ、「こんな事でとても死ぬる訳のものでない」と批判した。四迷は、二人がダヌンツィオの『死の勝利』に酔ったのであろうという説を披露し、らいてうが本気で禅に心酔していたなら、「死ぬの生きるのと騒ぐはずはなかった」と切り捨てる。森田の師漱石は、「君らがやったのは恋愛ではない」と蔑む。
森田は漱石の弟子であった。東京帝国大学英文科を卒業後、岐阜に帰郷するが漱石の『草枕』に感銘を受け妻子を置いて上京した。事件後に森田は、「明は不可思議な女」と漱石に話すと、「ああいうのを無意識の偽善者というのだ」。漱石は森田をたしなめた。森田は事件を元にした小説『煤煙』を、「東京朝日」に連載を始めたが、これは漱石の差し金であった。
「柳の下の泥鰌」か、森田はこれを機に文壇デビューを果たす。特異体験が人を物書きに押し上げることがあるが、「閨秀文学会」の講師として森田の同僚であった馬場孤蝶は、心中未遂事件のあらましを知っていただけに、森田の連載を、「よくもあんなに綺麗事に仕上げたものだ」と、半ばあきれ顔で青山菊栄にもらした。『煤煙』の記述を世間は嘘だ、事実だと騒然となる。
時事新報はらいてうの父定二郎の、「涙の談話」を掲載したが、らいてうは恥ずることもなく、ゆるぐこともなかった。男は社会の目を気にするが、女はいたって気丈である。親友の木村政子に宛てた手紙で、「自己のシステムを全うせんがためなり」などと書きつけ、事件後の森田への手紙には、「今回私のいたしましたことは何処迄も私の所有である。他人の所有を許さない」と書いている。
森田はこの一件を、「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって霊と霊の結合を期待した」などと御託を並べて気取ってみたが、森田の詭弁を見抜いた漱石に、「結局、遊びだ」と一蹴されている。人はみな自分の行為に都合のよい理屈をつけたがるが、他人の目からみれば茶番であることが多い。こういう美辞麗句を好む森田ゆえにか、同僚の馬場孤蝶らから失笑される。