大逆事件で死刑判決を受けた管野スガは、処刑前に大杉栄夫妻に手紙を書いているが、社会主義の同士たちが刑場に消えるとき、大杉は赤旗事件で二年半の刑を受けて千葉刑務所に服役中で、連座を免れることになった。その年大杉は千葉刑務所から東京監獄に移され、大逆事件に関連した取調べを受けるが検挙は免れるものの、獄外にいたら無事では済まなかったろう。
こんにち「大逆事件」は、明治政府が社会主義者を全滅させようとしてデッチあげた弾圧事件という解釈を共産党などは声高にいうが、どちらともいえない。ただし、大逆事件というのは大陪審が裁くしかなく、関与の程度に関わらず、死刑しかないという点は問題がある。アメリカの社会活動家エマ・ゴールドマンは抗議集会を行い、桂首相宛てに抗議電文を送った。
幸徳らの処刑された後、日本のアナキストたちはことごとく逼塞し社会主義者たちの「冬の時代」と言われる空白の時がくる。当時、日本のアナキズムの指導者であった大杉は、管野スガの内縁夫だった荒畑寒村とともに1912年(大正元年)10月『近代思想』、1914年(大正3年)10月『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き社会主義運動を広げようと画策する。
その大杉を支えたのが伊藤野枝で、二人の共通点は自由恋愛者である。大杉は居候中に堺利彦の義妹堀保子を強引に犯して結婚する。当時、保子には婚約者がいたが破棄された。栄は保子を入籍させず、神近市子という女にも手を出し、さらには伊藤野枝と愛人関係になる。野枝は長女魔子(後の真子)を身ごもる。栄は保子と離別し、市子は入獄したので野枝と家庭を持つ。
依然として入籍はせず、次女エマ(後の幸子)、三女エマ(同笑子)、四女ルイズ(同留意子)、長男ネストル(同栄)をもうけたが、野枝と入籍はしていない。大杉はフリーラブを提唱し、保子、市子、野枝たち三人は、互いに経済的独立を行い、大杉と別居しながら自由な愛の生活を彼と持とうというのである。野枝は大杉の思想を実行するため、小説を書き始める。
野枝という女性の本性は淫乱、今でいうヤリマンである。不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。世評にわがまま、奔放と言われた反面、現代女性の奔放な自我精神を50年以上先取りし、妊娠中絶、売買春、貞操など、今日でも問題となる課題を題材とした評論や小説を発表した。
「習俗への反発」という、こうした彼女の性格は抑圧から生まれたものと推察する。福岡県今宿村(現・福岡市西区今宿)に、7人兄妹の三番目の長女として生まれる。伊藤家は「萬屋」という海産物問屋だったが没落したため、父は鬼瓦職人となったが、放蕩者で気位が高くろくに仕事をせず、母が塩田の日雇いや農家の手伝いなどをして暮しを立てた。野枝は口減らしのため8歳で長崎の叔母の元に引き取られる。「幼児期から冷たい人の手から手にうつされ、違う土地の違った風習でと各々の違った方針で教育された私は、いろいろなことから自我の強い子でした。そして無意識ながら、習俗に対する反抗は12~3歳くらいから恵んでいた。生家の両親や兄弟にも親しむことのできない感情を持っていた」と野枝は回想する。
彼女の並外れた向上心と自負が、常に現状に満足を得ず、孤独心の強い少女にさせたのだろう。叔母の一家が上京するので野枝は実家に戻る。小学校を卒業するやすぐに村の郵便局にて働く。当時、女性の職はなく、勤めるなどは稀な時代だが、郵便局の事務職員は界隈ではエリート的存在だった。このころ野枝は『女学世界』を愛読、投稿して度々賞を貰っている。
明治34年に創刊された雑誌『女学世界』では、創刊当時から読者の投稿を呼びかけ、34年3月の定期増刊号『壺すみれ』で、初めて投稿小説の入選作が発表されている。特賞に選ばれたのは田中ハル「無情」であった。『女学世界』は積極的に投稿作品を募ったが、だからといって投稿者をプロの物書きに育成しようとしていたわけではなかったようだ。
当時の時代背景もあり、小説投稿には様々な制約が課せられていた。『女学世界』の懸賞文募集要項には、「政治的時事論に渉らざること、亦小説は可成優美なるを佳とす」とある。「政治」という男性の領域に入ることは拒まれ、「優美」という女性性をまとった文章のみ要求され、審査基準も、「良妻賢母思想」に則った作品に高い評価を与えている。
これらは生身の女性の視点からの女性を描いていず、読者投稿小説の多くが、男性作家の家庭小説の焼き直しゆえに、ヒロインは夫に貞節を尽くし、両親をいたわる理想的な女性として造形されている。家庭小説の登場は、女性を文学へと招き入れた反面、女性の本心を「描く」行為を奪っている。世は良妻賢母を強制したわけではないが、女性自ら積極的にそれを望んだ。
小説投稿での受賞もあって、向学心に目覚めた野枝は、上京した叔母宅宛に、「上京して女学校に入学させて欲しい」と数通の懇願の手紙を送る。「卒業後にはひとかどの人物となり恩返しをする」と記した。野枝の熱意に叔母一家は彼女を東京に迎えた。上京の翌年、猛勉強のすえ上野高等女学校に1年飛び級で4年編入試験に合格。作文に抜群の成績をあげる。
そんな野枝は、現在にあっても地元福岡県では逆賊扱いである。十数年前、伊藤野枝のテレビ取材に関わった人によれば、彼女と同年代で存命の老婦が、「地元の恥をさらすのか~」と大声でいきり立ち、「淫乱、淫乱、淫乱女」と叫んでいたというのだから穏やかでない。歴史の中の伊藤野枝は、淫乱、逆賊にくくられても否定できない一面はある。
決められた縁組みを破棄せんと逃亡し、女学校の恩師の家に転がり込んだり、その恩師を捨て自ら大杉栄との四角関係に身を投じ、平塚らいてうには、「あんた仕事しないなら、私に雑誌ちょうだい」と迫ったりもした。大杉が拘束されると、内務大臣後藤新平宛に四メートルにも及ぶ抗議文を送るなど、僅か28年の生涯とは思えぬほどに波乱に満ちている。
野枝の筆書きの抗議文は、「私は一無政府主義者です。私はあなたをその最高の責任者として、今回大杉栄を拘禁された不法に就いて、その理由を糺したいと思ひました。それについての詳細な報告が、あなたの許に届いてはゐることゝと思ひますが…若しもあなたがそれをそのまゝ受け容れてお出になるなら、それは大間違ひです」。という文面で始まり…
「ねえ、私は今年廿四になつたんですから、あなたの娘さん位の年でせう?でもあなたよりは私の方がずつと強味をもつてゐます。そうして少くともその強味は或る場合にはあなたの体中の血を逆行さす位のことは出来ますよ、もつと手強いことだつてーー。あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」。で結ばれている。後藤がこの手紙を見たか否かは定かでない。
また、野枝は後藤の娘に言及しているが、おそらく調べた上でか、後藤の長女は野枝と同じ1895年(明治28年年)生まれだった。この日の午後、大杉は、「証拠不十分」で起訴されることなく、釈放され帰宅した。現代の女性は強いと言われ、強くなったと言われるが、昔のような、「芯の強さ」ではなく、子どもを人質にとったり、贅沢をしたり、その程度の我儘三昧ではないか?
絞首台の上で、「われ主義のために死す、万歳!」という肝っ玉が昨今の女性にあるだろうか?現代女性はいわゆる、「内弁慶」的な強さであろう。女性が虐げられた時代に、真の女性の在り方を求めた女性には、なりふり構わない芯の強さを見る。男の強さというのは、理性を纏った武装した強さであるが、女性の真の強さとは、一糸纏わぬ裸身の強さであろう。
野枝が一面強い女性を見せつけるエピソードがある。それを彼女が高等女学校を飛び級で4年に編入となった経緯に見る。片田舎の小学校卒の学力など知れたものだ。英語や数学が遅れて、いかに才媛といえども2年編入がいいところ。ところが彼女は叔母宅の従妹千代子と同じ4年に入るときかない。叔母宅の代準介は呆れ果て、「受からなかったらトットと九州へ帰れ」と怒鳴ったという。
自ら公言したこともあって、野枝は徹夜につぐ徹夜の勉強で難関を突破した。神経が図太く、情熱を有し、時に他人に迷惑をかけようと、自らの思いを全うする彼女の性格は、若き日からのものだった。身なりも映えず、小太りで小柄、鳩胸で出っ尻の野枝は、学校の授業を頭から軽蔑したことで、女教師や同級生に歓迎されなかった。が、彼女の才能に期待を寄せる二人の教師がいた。
国語教師で担任の西原和治と、英語教師の辻潤である。野枝が5年の夏休み、準介や実家の父の手で、同郷の青年と仮の祝言をさせられた。青年の父はアメリカで成功した実業家で、息子の嫁探しに帰国して東京の女学校を出るという野枝の話に大乗り気となる。卒業までの学費を肩代わりする約定で、縁談は野枝の知らぬところで進み、準介らの説得を了承する。
野枝は挙式を済ませ、婚家に泊まって新婚初夜のはずだった。が、野枝は新郎に指一本触れさせなかった。理由は、新郎が低級に見えたこと。こんな男に自分の未来を委ね、縛られてなるものかの一念である。卒業後には帰郷し、夫の元で妻として尽くさねばと思えば、体が裂けるばかりの惑乱状態である。野枝は苦悩の末にある決心をし、慣行を企てていた。