管野スガという女性を、荻野吟子や福田英子ほどに知る人は少ないだろう。彼女は1911年(明治44年)1月25日午前8時28分、東京市市ヶ谷富久町にあった東京監獄構内処刑場の絞首台にて処刑された。前日は幸徳秋水ら11名が同場所で処刑されたが、彼女一人は翌日に執行された。スガはキリスト教徒であったが、生前の遺言により火葬され、仏式で葬られた。
明治14年6月7日、大阪・絹笠町に鉱山事業家の管野義秀の長女として生を受け、わずか29歳と7か月の命であった。ありし日のスガは豊かな髪をひさし髪に結い、まるでつけまつげのような長いまつ毛に覆われた涼しい目で、じっと人を見すえる、そんな女性であったという。彼女の罪名は、大日本帝国憲法下の刑法第七十三条に規定された「大逆罪」である。
「天皇、大皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
というのが大逆罪の論旨である。また、大逆罪を裁くことができるのは大陪審のみで、大陪審とは現在の最高裁判所にあたる。よってここでの裁判は、「第一審ニシテ終審」となる。ただの一回だけの裁判ゆえに、不服があろうとも上告への道はない。大逆罪の判決は、明治24年1月18日に行われ、被告合計26名のうち、懲役刑二名を除き二十四名が死刑となる。
ところが翌日19日、死刑判決を待っていたかのように、半数十二名の特赦が発表された。特赦とは、「天皇陛下の特別のおめぐみ」による恩赦で、岡林寅松他十一名の死刑囚が、「無期懲役ニ減刑ス」という特赦状が伝達された。特赦のない幸徳ら十一名らの死刑は、判決から10日も立たない1月24日執行されたが、紅一点の管野スガのみ翌25日の刑執行となる。
死刑執行に立ち会った看守によると、スガは終始落ち着き、絞首台の上から、「われ主義のために死す、万歳!」と叫んだ直後絞首となる。スガの獄中日記は、「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上がるまでの己を飾らず偽らず自ら欺かず極めて率直に記し置かんとするものこれ 明治44年1月18日 須賀子(於東京監獄女監)」という序文で始まっている。
処刑の前日の24日で終わるスガの日記の書き出しは、「死刑は元より覚悟の私」である。彼女の言葉が嘘でなく、強がりでもなかったことは、死を面前にした態度にも、また、誰にも何ものにも怖れぬ大胆率直な日記に現れている。『死出の道艸(みちくさ)』と題された彼女の獄中日記は、管野スガの自画像であり、あまたの獄中文学の傑作とされている。
死を前にした一人の女性がこれほど心情と真実味を込めて書き上げた文章は、まさに奇蹟的であり稀有な存在であり、女性文学の白眉というべきものでもある。スガは19歳の年に東京深川の裕福な商人小宮福太郎と結婚したが、花柳界に入り浸る横暴な夫と性格が合わず、家を飛び出して大阪に帰り、海軍に身を置くこととなったことを理由として離婚した。
離婚後は、文士の宇田川文海に師事して文学を学び、1902年『大阪朝報』に入社して記者となっており、これらの経歴から文才はあったようだ。1903年(明治36年)11月に日本組合天満教会で洗礼を受けてキリスト教に改宗した。大逆事件は1910年(明治43年)だが、その2年前に「赤旗事件」が起こっており、この時、大杉栄らに混じってスガら4人の女性が検挙された。
6月に発生した赤旗事件だが、スガは8月末に神川マツ子と共に無罪放免となるも、以後は執拗に警察の尾行がつき、勤務先の『毎日電報』を解雇される。生活に困窮したスガはアナキズムに共鳴したことから幸徳秋水の経済的援助を受け、2人で『自由思想』を創刊して赤旗事件を糾弾すべく内に、秋水とは恋愛関係になって平民社内で同棲するようになる。
当時秋水には妻子がいたし、スガにも禁固1年で獄中の、荒畑寒村と内縁関係にあった。二人は新聞雑誌に重婚と騒がれ、スキャンダルと批判されたことで、スガは寒村に一方的な離縁状を送りつける。女性の側から三行半をたたきつけられた格好の寒村は激怒し、出獄するやピストルを入手してスガを射殺しようと湯河原に向かったが、行き違いから果たせなかった。
この当時の男女関係は今にも劣らずふしだらであり、同士愛と言いながらも結局男女の関係に発展する。秋水も妻の千代子に離縁状を出してはいるが、離縁後も愛情を持ち続けていたことは、秋水の手紙などから明らかになっている。優柔不断というのか、何というのか、こういう男はいつの時代にもいるようで、どちらかといえば、つまらん男の部類である。
スガと同棲することで、同志たちは秋水に離反し、彼から離れていった。秋水と寒村は思想上の同士であり、寒村が入獄中に彼の妻を奪うなど、卑劣漢以外の何者であろうか。「見損なったぞ秋水、男なら恥を知れ!」という批判は当然である。スガの心には秋水しかなかったが、寒村の心中にはかつてないスガへの未練と執着が、彼の自伝に記されている。
秋水はスガがアナキズムに共鳴したことで生活援助をしたことになっているが、それだけではないだろう。目鼻立ちのハッキリした現代人的美人のスガに下心があったのは推察する。アナキズムとは無政府・無秩序のことだが、アナキズム信奉者は男女のことにおいてもアナーキーである。確かに獄中の同士の妻に手を出すという行為は、男として許すべからず。
どっちが燃え上がったなどは関係ない。男は手を出さず、女は貞淑にして心をなびかせないが、こういう場合のモラルであるが、アナーキーにモラルもクソもないようだ。スガは路上で脳出血を起こして入院するが、「神経衰弱から来た激烈なヒステリー」と医者から診断され、日毎に容態は悪化するばかり。秋水はその費用を捻出するために、郷里の屋敷を手放すことになった。
下世話な事はともかくとして、天皇暗殺計画とは、爆裂弾を製造し、それを天皇に投げる計画であった。爆裂弾製造は、愛知県亀崎工場の機械工、宮下太吉が受け持つことになっていた。彼は製法を研究し、1909年(明治42年)、明科の山奥、会田川沿いで、爆発実験に成功していた。それもあって、宮下、新村、管野ら同士は、実行時期を1910年の秋と決定した。
この年の五月、スガは発刊した雑誌「自由思想」第一号が発売禁止、即日差し押さえ、第二号も同じ発禁となる。編集兼発行人のスガは、新聞紙法違反で告発され、両号ともに有罪で七百円もの罰金刑を受ける。スガの肉体は衰弱しきっていたが、政府や官憲への憎しみに燃え立っていた。スガは病床で、「仇を討つ、天皇を殺す」とうわごとのように口走る。
1910年(明治43年)3月、秋水とスガは東京の家を引き払って、伊豆湯河原温泉の天野や旅館に向かう。療養方々『通俗日本戦国史』の編纂のためだ。スガは罰金の工面が出来ず、迷った末に秋水に言った。「私、監獄に入ります」。労役なら百日の換金刑である。秋水に頼ったが工面はおぼつかず、実現できずに今日に至っていた。入獄は罰金以外にも目的があった。
秋水は爆弾による天皇暗殺計画に背を向けていたが、それでも妻のスガがこれから犯すであろう罪によって、自分は死刑になる身だからいいが、秋水には多大な迷惑が生じる。それもあって5月に1人で東京に戻り、とある場所に実行犯のスガ、古河、新村、宮下の4人が結集し、誰が先に爆裂弾を投げるかのくじ引きをした。結果、管野、古河、新村、宮下となる。
5月の半ばにスガは入獄した。以後、彼女はシャバに戻ることはなかった。宮下の身辺を探っていた信州松本署のスパイ活動で宮下、新村を検挙した。発覚理由は、宮下が姦通していた女の夫に爆弾を預けていたというお粗末さである。6月初旬、湯河原に定宿中の秋水が検挙される。検挙網は全国に広がり、無政府主義者、急進的社会主義者数百名が検挙される。
「大逆事件」について神崎清は以下の見解を示している。「ことさら幸徳秋水を首領にまつりあげ、その指揮下の24名の決死隊員が、明治天皇暗殺計画に参加していたと構想して、頭から大逆罪を適用するような過ちを犯し、大量24名の死刑宣告を行った大陪審の判決書の中に真実はない。
大逆事件の真実は、むしろ爆裂弾を開発した自信を持ち、明治天皇暗殺を一身に引き受け、単独計画のような形で実行するつもりでいた革命的労働者宮下太吉の『発覚当時ハ心が替リ、川ヘデモ流サント思ヘリという動揺と解体の告白のなかに見出されるのである」。
爆裂弾製造を請け負った宮下太吉は予備調書で以下述べている。「爆裂弾ヲ造リ、天子ニ投付ケテ、天子モ我我ト同ジク血ノ出ル人間デアル事ヲ知ラシメ、人民ノ迷信ヲ破ラネバナラヌ」。管野スガは『死出の道艸』の中で、死刑囚の半数が恩赦で助かった感想を以下のように記している。「欲にはそうか私達三四人を除いた総べてを助けてもらいたいものである。
其代りになる事なら、私はもう逆磔刑の火あぶりにされやうと背を割いて鉛の熱湯を注ぎ込まれやうと、どんな酷い刑でも喜んで受ける」。なんという表現であろうか?これほど率直な嘘は、そうそう書けるものではないだろう。管野スガという女性は、極限において聖女であった。与謝野晶子の歌を好んだという彼女は、『死出の道艸』にいくつかの歌を置いている。
やがて来む終の日思ひ限りなき 生命を思ひほゝ笑みて居ぬ