小池百合子都知事を、「日本のジャンヌ・ダルク」と指摘するが、どうだろう?確かに彼女は女性初の東京都知事となった。驚いたのは0.1%の開票で当確のテロップが出た。その時点で小池500票、増田350票、鳥越100票で、これで当確というのは、期日前投票で小池は170万8195票を既に獲っていたし、出口調査においても圧倒的優勢だったこともある。
小池候補は、自分を裏切った自民党の推薦や支援を全て断り、緑色を旗印に都民の先頭に立ち、東京都政改革の旗手として独り立ち上がって戦ったのは、まさに母国フランス王国軍の先頭に立ち、フランスに侵攻したイングランド王国軍と戦う百年戦争のヒロインで救世主ジャンヌ・ダルクそのものであり、彼女はフランス国王に裏切られても挫けなかった。
確かに小池百合子は「日本のジャンヌ・ダルク」といっていい。石原から舛添に連なる悪しき都政ならびに、腐敗した都議会と意を決して戦う気概も伝わってくる。小池新党はこの際、「ジャンヌ・ダルク党」と名付け、腐りきった首都東京をクリーンな街に変えてもらいたい。「日本のジャンヌ・ダルク」といえば、福田英子を忘れてはならない。
福田英子は、「東洋のジャンヌ・ダルク」ともいわれたが、彼女を知らぬ日本人は多い。史実は多くを語らぬが、ジャンヌも福田も伝説の人ではなく、実在の人物である。福田英子とはどういう女性であった?最近、彼女をテレビで観た。最近といっても、2014年1月18日、25日と2回に渡って放映された、『足尾から来た女』というタイトルのドラマである。
数々の賞を獲った名作誉れ高い作品で、広島出身の脚本家池端俊策によって史実を元に描かれたオリジナル作品。今秋放送された『夏目漱石の妻』も彼の脚本だ。基本はテレビの人だが、『復讐するは我にあり』(1979年)、『楢山節考』(1983年)、『優駿 ORACIÓN』(1988年)などの映画の脚本もある。三作とも緒形拳が出演するが、ふたりは昵懇であった。
2008年、緒方の死去に際して、追悼ドキュメンタリー番組、『俳優~脚本家・池端俊策が見つめた緒形拳~』(NHK)が放送された。『足尾から来た女』は、足尾銅山の精製現場から発する鉱毒により、環境汚染で不毛となった栃木県の谷中村で、父とともに家業の畑仕事に打ち込む新田サチ(尾野真千子)が、上京して家政婦として働くという明治39年の設定。
サチが家政婦として働くことになった福田英子(鈴木保奈美)宅だが、サチを福田に紹介したのが国会議員で足尾鉱毒事件で名高い田中正造であり、サチの兄は田中に師事していた。政治的なことには無知で文字の読み書きもできないサチは、社会主義活動家として警視庁からマークされていた英子を、警察官僚の日下部から危険人物であることを吹き込まれる。
英子宅に集う社会主義者を横目に、サチは忙しく働いていたが、日下部に家の様子を密告することを指示されていた。自分の行動に戸惑いを感じる日々のなかでサチは、字を読めないながらも物語や詩に興味を持つようになる。無知で教養もない少女を巧みに利用し、スパイもどき密告を要求する公安との間で葛藤するサチは、次第に英子宅に居づらくなっていく。
前にも書いたが尾野真千子は好きな女優である。彼女以外に好感を抱く女優は今のところ見当たらない。彼女の魅力を考えてみたが、彼女演じる役柄にはいずれも尾野真千子という自己主張が感じられる。不自然なほどに美形でないところにもリアルさが感じられ、さらには尾野の内に隠し立てできない知性が滲んでいる。デビューのきっかけがユニーク。
国立奈良女子大学附属中等教育学校の3年生の時、学校の靴箱当番の掃除をする彼女は女性映画監督河瀬直美の目に止まった。「一生懸命掃除に取り組む尾野の姿が印象だった」と河瀬は述べている。「掃除はまじめにやると良い事があるんですね~」と尾野はいうが、それが女優になるきっかけとなった。彼女は中学3年で河瀬監督の映画『萌の朱雀』に主演する。
尾野真千子はさておき、福田英子に戻す。福田は慶応元年(1865年)岡山・備前藩士景山確(かげやまかたし)の次女として生まれる。景山英子は当時、女性にとって大切な黒髪を16歳まで耳たぶあたりでバッサリ切り落していたことで、学童らに、「マガイもの」というあだ名で呼ばれていた。行きかう大人たちも短い髪をジロジロ眺めては、侮蔑の表情を露骨に表わした。
年頃の娘たちはみな一様に、艶やかに結いあげた自身の桃割れや島田の髷に着飾っていたが、英子は一見して男か女か分からない、そんな風情であった。「マガイ」とは「紛い」、つまりニセモノで、それでいて本物に似ているとの意味。つまり、女のくせに男のマネをするアホという嘲笑の意味があった。彼女が短髪だった理由は、単に面倒くさいからである。
髪を梳かしたり、結ったりする時間があれば本を読みたいという熱心な、別の言い方をすれば、「変わった」少女であった。英子は後年、『妾(わらわ)の半生涯』という自伝を書いているがその中に、「私は八、九歳のときに屋敷内で賢い娘と褒めそやされ、十一、二歳のときには、県令学務委員などの臨席した試験場で、大人相手に講義をした」と記している。
講義内容は中国の歴史小説『十八史略』や、頼山陽の『日本外史』で、それを今でいう小学5~6年生の少女が、大人に講義するとは畏れ入ったる才媛である。英子自身、「世に私ほど賢い者はあるまいなどと、心秘かに郷党(郷里のなかま)に誇っていた」と書いている。英子の頭の良さを見抜いていた母の楳子は、彼女の陰になり日向になって励まし続けた。
もっとも楳子自身は私塾を経営し、明治五年(1872年)に県の命で女子訓練所が出来たときに、教授に任命されるほど秀才で気丈な女性であった。自伝にもあるように英子は自尊心も強く、男っぽい性格であった。英子は月々の生理も22歳までなかったといい、このことは精神的だけでなく、女性として肉体的にも晩生だったようだ。彼女は自伝にこう述べている。
「普通は15歳前後からあるそうだが私は女らしさ、しおらしい風情など露ほどもなく、男の中にまじって何をしてもちっとも恥ずかしいと思わなかった」。そんな英子であるが、16歳の暮れに二人の求婚者が現れた。一人は後に首相となる犬養毅、もう一人は海軍大将になった藤井較一である。いずれも岡山藩士もしくは、備中・郡奉行を務めた家計である。
両親はこの良縁を喜ぶも、英子はニべもなく断っている。父母は説得を試みたが英子の気持ちは動かなかった。この時のことを自伝に述べている。「ああ、世の中にはこのような父母に威圧されて、ただ儀式的に機械的に愛もない男と結婚するものが多いだろうに。なんとかしてこのような不幸な婦人に独立自営の道を得させたい。私の心に深く刻みつけられた願いとなった。
当時の世相は、男女の婚前の交際などはなく、釣書を交換しただけでお見合いをすることもなく、結婚させられるのが普通であった。が、男女ともに一目惚れということもあり、一概に愛のない男ととか、そういう婚姻を不幸な女性と決めつけてしまうのは少なからず短絡的であろう。が、英子のいう、「女にも独立自営の道を得させたい」というのは卓見である。
英子が縁談を断った理由はもう一つあった。小学校を卒業するや、すぐに同校の助教に任命された英子は、昨日の生徒が今日は先生ということだが、初任給3円という高給であった。現在の大卒初任給が20万とするなら、50~60万ほどになろう。彼女はどこに出ても自活する自信はあったが、母に家において欲しいと頼んだ。英子の言葉に母の楳子は手を取り涙ぐむ。
「お嫁に行くのが嫌なら出ていけと言われても困らないけど、お母様のそばに長く置いて欲しい。お給料はそのままさしあげます」と言われた母が涙ぐむ。縁談が一つのきっかけとなり、英子は髪を伸ばすことにした。母も英子の心の変化を読み取り、茶の湯、生け花、裁縫などを習わせた、さらに女性らしい情操を養うためにと、月琴うぃ習わせたりもした。
明治15年(1882年)、英子は18歳になっていたが、この年を彼女は、「生涯忘れることにできない年」と自伝に記しているように、英子は家出をするのだから、この世はまさに「一寸先は闇」である。大好きだった母を捨て、なぜ突然の家出を慣行したのか?英子は友人の兄、小林樟雄(くすお)から一冊の本を借りた。それは、「ジャンヌ・ダルク」の伝記であった。
小林樟雄は、板垣退助らの自由民権運動に参加し、岡山で「実行社」、「公衆社」などの政治結社を組織、国会開設の請願を行っている。1881年(明治14年)、国会開設の詔を受けて自由党が結成されると、「山陽自由党」を結成した。小林は英子にこのように言った。「英ちゃんも日本のジャンヌ・ダルクにおなりよ。そして天下国家のために尽くすんだね」。