荻野吟子が医師を目指す動機となったのは、「羞恥」と「屈辱」であった。医師は口腔や耳の穴、鼻の穴を器官として診察するが、女性のとって産道を男性に診察されるのは耐え難い羞恥であろう。「女医がいれば女性の悩みも消える、私が女医になろう」などと、、今の時代には考えられない動機である。なぜ、本人の意思より親は子を医師にしたがるのか?
塾や予備校で偏差値が高い学生に、塾側が医学部受験を勧めるのは、本人のためより、むしろ塾の功績との要素が強い。職業選択をみて思うに、「生」の価値基準がまったく変わってしまった。かつて、「医は仁術」、今や、「医は算術」である。三人の息子を東大医学部に入れたという母親の子どもらに、「どういう理由で医学部に?」と聞いたら、「母が勧めるので」というしかない。
ならば、母親は何と答える?「お金儲かるでしょ?」、「社会的地位が高いでしょ?」というホンネでなく、「社会のため」と言えば、立派な行為と評価を得る。学歴が就職のための時代にあって、金で学歴を買う。ある大学教授が今の学生を、「今の若い人はなんだか不幸。結局、先の見えないところを、一度も通ったことがないからだと思う」。と言っていたが、誰だって先は見えない。
見えないことを不幸などと思ったことはない。先が見えないということは、どうなるか分からないという事だから、「やってみよう」となる。そういう気持ちが新鮮なのに、「失敗するのでは?」などと慄いているなどあり得なかった。上手く行こうが、行くまいが、やることが楽しいのだ。今の若者が不幸だというのは、失敗を怖れるあまり、「やる事」を躊躇うのではないか?
「失敗することより、失敗を怖れる」という事が問題である。そういう臆病さがどうして培われるかを想像するに、母親が家庭で教育の中心となり、「あれはいけません」、「これは危ないからやめた方がいい」などと、女の保守さ、臆病さが子どもに伝染するのでは、と愚考する。子どもを伸び伸び育てるには、何より親が伸び伸びであるべきだが、近所の子ども会で驚きの体験をした。
子どもたちが小学生のころ、アスレチックにハイキングに行った時のこと。自分は初めてのアスレチックでもある、設置してある器具を見た途端、子ども心が沸き上がった。親が感動すれば、その様子は黙っていても子どもに伝わり、逆に親がビビッているなら、その様子は子どもが察知する。「ようし、全部トライしよう、それ行け~!」と先陣を切った。
自分はいたずらっ子だったせいか、大人になってもいたずらは大好き人間である。アスレチックなんか、いたずら遊びの器具だし、他に何の意味があろう。体力測定具ではあるまいに。娘と同級生の歯科医の息子は、親が何もさせなかった。「何でやらんの?」、「危ないから」と母の意向で父親もバツの悪そうにいう。我が家のハツラツぶりをどう見かたは分からない。
「いい」と思い、子どもはああでなければ…と思ったらやらせたと思うが、させなかったのは「いい」と思わなかったのだろう。親を見ながらそんな風に考えていた。歯科医の息子がどうであれ知ったことではないが、うろうろな育て方があるものだと納得した。その話はともかく、女性の道を切り拓いた先進的な女性の行動力は、目を見張るものがある。
女性は夫に仕えて家事をし、子を生み育てるを使命とされた時代に、女性が医師になるというそのこと自体がいばらの道であった。医の分野に限らず、男の聖域に立ち向かった女性の存在は歴史が示している。日本初の公許女医荻野吟子を足掛かりに、日本で初めて女医養成機関を設立するなど、女性医師の教育に生涯を捧げた吉岡彌生という女性もその一人である。
参政権すらなかった時代の女性は、まだまだ社会的立場が弱い時代であった。女性に参政権が与えられたのは、1925(大正14)年であり、そこに至る明治の終わりから大正の半ばにかけて、 女性参政権を求める声が大きくなっって行った。「女性などに医療を委ねるなどとんでもない。そんなことをされたら国が滅びる」などと、まことしやかに言われた時代である。
「女が精神的にも肉体的にも偉大な仕事をするのに適してないことは、その体つきを見ればわかる」と言ったのはショーペンハウエルで、彼はこうも言っている。「背の低い、肩幅のせまい、尻の大きい、足の短い女を、美しいなどと呼ぶことができるのは、ただ性欲でボケている男の知性だけであり、女の美しさというものは、男の性欲の中に潜んでいる」。
前にもかいたが、母親の彼に対する様々なことが、ショーペンハウエルをこれほど女嫌いにしたようだ。彼が不幸であるのはそういう母親を持ったことではなく、母親以外に女性を見出そうとしなかったことだろう。吉岡彌生という女性も、母から別の意味の啓示を受けている。家から外に出ず、朝から晩まで家事に追われる母の姿が、彼女の心に「澱」をもたらせた。
13歳で小学校を卒業した彌生は、当時の一般的な女性と同じように裁縫や機織りなどの仕事を始めたものの、そうした日々の暮らしの中で女性のありふれた日常の澱が消えることはなかった。そんな折、彌生は1つの新聞記事に目を奪われる。それは、医術開業試験に2人の女性が合格し、医師として正式に認められたという内容であった。「すごい」と彌生は思った。
同時に、「これだ」と思ったことが、彼女を行動へと走らせた。彌生の父は漢方医、兄二人は医師を目指して東京で勉学に励んでいた。それらの影響もあって、彌生はこのときはじめて「自分も医師になりたい」という明確な夢を持った。ところが医学校を希望する彌生に父は真向反対したのは、「女性は家を守るべき」という考えに娘が背くことへの強い抵抗感。
仕方なく彌生は父に従うが、夢を諦めることができないままに、独学で医学の勉強を始めた。それから二年間、黙々と勉学に励む彌生の意志の強さに負けてか、ついに父は娘の上京を許可。兄の在籍する医学校「済生学舎」に入学することになった。この時代、医者を目指す人々は、「内務省医術開業試験」という国家試験に合格することが条件であった。
多くの人は大学で勉強して国家試験を目指したが、地方出身者にとって、経済的な理由や学力不足のため、大学に入ること自体が困難だった。1876年(明治9年)、長岡藩出身の長谷川泰は、大学に行かなくても医者になれるルートを確保するために、東京本郷に「済生学舎」を設立した。が、彌生を待ち受けていたのは、独学では未経験な高度な授業であった。
それだけではない。荻野吟子が体験したと同じような、女子学生に対する、いたずらや嫌がらせ、冷やかしを受ける。男子学生たちの心ない行動のせいで、彌生をはじめとする男子に混じるごく少数の女子学生たちは、満足に勉強することができなかったという。「女のくせに医者になるなんて生意気だ」と、そんな言葉を投げつける男子学生も多く、耐える日々である。
勉学は苦しいがゆえにやり甲斐はある。21歳の1892年、彌生は医術開業試験の合格を勝ち取り、日本で27番目の女性医師と認められた。荻野吟子に遅れること8年である。それまで小学校でしか教育を受けたことがない彌生が、たった3年の勉強で医師となったことを想像するに、一体どれだけの努力をしたのだろうかと。一心不乱の彼女の姿が思い浮かぶのだった。
臨床経験を積んだ彼女は故郷の遠江国城東郡土方村(静岡県掛川市)へ帰り、父が営む病院の分院で開業した。彌生は産科の医師だが、内科、外科、歯科を問わず、あらゆる患者の診察をこなしたといい、病院は大盛況だった。3年後の1895年に再上京し、昼間は開業、夜はドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学。同年10月、同学院院長の吉岡荒太と結婚する。
ところが1900年、母校の済生学舎が女性の入学を禁止した。「女子がいることで風紀が乱れる」が理由で、それを知った彌生の中にかつて停滞していた澱が姿を現す。ならば自分が養成機関を作ろうと彌生は、「東京女子医学校(後の東京女子医科大学)」を設立。開校当初の生徒はわずか4人。自宅の一室に粗末な机と椅子を並べただけの質素な学校である。
夫のと父の助力もあり、学校はどんどんその体をなして行き、生徒の数も増加した。そして1908年、ついに東京女子医学校から医師を誕生させるに至る。ところが、規制の強化と医師法が改正され、「医学専門学校」を卒業しなければ医師になれないどころか、受験も許されなくなった彌生の私学校は、廃校の危機に直面したが、決して彼女は諦めなかった。
専門学校認可に奔走し、吉岡家の全財産を投げ打って新校舎建築や附属病院開設が行われ、申請から2年半後の1912年、東京女子医学校は、「東京女子医学専門学校」へと昇格を果たす。その後、彌生の夢は専門学校の認可から医科大学への昇格へと変わる。関東大震災による被災や大戦を乗り越え、1952年、ついに「東京女子医科大学」を発足させ、7年間学頭に就く。
現在も世界で唯一の女子医科大学を創設した吉岡彌生は、1959年自宅で永遠の眠りにつく。88歳の生涯だった。彌生は生前、東京女子医学校の設立について、「当時低かった婦人の社会的地位を向上せしめようとしたのが動機であります」と振り返ったうえで、次の言葉を残している。「終戦後の困難な時期にもついに初志をまげませんでした。(中略)
その結果、ついに女子医科大学が認められることになったわけであります」。初志貫徹という言葉に相応しい女性である。時代に抗い、傷付けられながらも、決して折れず、女子の医学教育体制を確立した。「女性でも自立できる、社会で活躍できる」という、幼き日に抱いた想いの貫徹の結果であろう。吉岡彌生の信念の強さと行動力に敬服する。