女性初の大統領は幻に終わった。アメリカ人のほとんどが、日本人の多くが、世界の大多数が、ヒラリー・クリントン大統領を予感していた。故に、アメリカ人も日本人も世界の国の多くの人間も、トランプ勝利に驚いた。事前に州毎の選挙人獲得予想を明らかにしたアメリカの主要メディアは10社以上あったが、殆どがヒラリー氏の勝利を予想していた。
過去の大統領選で驚異的な的中率が注目された、「ファイブサーティエイト」のネイト・シルバー氏の予想が外れると、誰が考えただろう。ネイト氏は、現職のオバマ大統領がロムニー候補に勝利した2012年の前回大統領選では全選挙区の勝者を的中させ、その前の、オバマvsマケインの2008年大統領選でも、1州を除き勝者を的中させたことで注目を浴びた。
その後彼が開設したWebメディア、「ファイブサーティエイト」の名前は、まさにその大統領選の選挙人の総数「538人」に因んだもの。そのファイブサーティエイトの最終予測では、70人近い差でヒラリー氏が勝利するとしていた。そして、同サイトが開票前最後に公開した、「ヒラリー氏が勝利する確率」は実に71.4%に達した。対するトランプ氏は28.6%に過ぎなかった。
まさにアメリカ国内も世界も驚きの声を上げた。喜んだ人も、ほくそ笑んだ人も多いだろうが、アメリカに喧嘩を売ったフィリピンのドゥテルテ大統領は9日、訪問先のマレーシアで、米大統領選に勝利した共和党のドナルド・トランプ氏を祝福し、米国との喧嘩をやめる意向を示した。理由は、「我々2人は、些細な問題でも汚い言葉を使う似たもの同士さ」だという。
ヒラリーが当選すれば女性初の大統領として歴史が生まれた。オバマも初の黒人大統領という歴史を作った。トランプも米国史上初の公職経験のない大統領となり、これも歴史的快挙であろう。彼は経済人だから、決められた予算を上手く執行するのは、むしろ政治家よりも適任かもしれないが、とかく暴言の目立つトランプ大統領で、アメリカはどうなるのか?
先行きの懸念や予想は専門家に委ねるとして、今回生まれたかもしれない、生まれなかった初の女性大統領。女性が大統領候補になる時代というのも、黒人大統領と同じくらいに凄い時代である。日本も女性が総理大臣に立候補する時代はくるのだろうか?これまで総理候補と言われた女性政治家は何人かいたが、ただの候補と立候補するとでは大違い。
総理候補と言われた女性は、田中真紀子、野田聖子、稲田朋美、蓮舫などが浮かぶ。小池百合子も名が挙がったこともあるが、今や彼女も首都の初女性知事として歴史を作った。この人たちはなぜ、総理候補といわれたのか?田中真紀子は父のこともあって、国民的人気が高かったからでもあろうが、外相に就任するやトラブルの連続で9か月で更迭された。
また、02年には秘書給与問題のスキャンダルが発覚し、説明・弁明ができず、議員辞職に追い込まれた。翌年の衆院選で復帰(無所属)したものの、院内会派「民主党・無所属クラブ」に加入し、返報感情が収まらぬ自民党に対して、厳しい批判を繰り返すようになり、ついには夫の直紀と連れだって民主党に入党するも、2012年第46回衆議院議員総選挙で落選。
野田聖子が総理候補の理由はワカランが、目先を変えて人気取りを目論む自民党が、「初の女性…」と、ちょっとばかりの美人を仕立てれば、ちやほやするアホな民も増えようとのAKB作戦的思惑か?稲田朋美は弁護士ということで、その論客ぶりが言われている。まだまだ当選4回の新参政治家であり、もっと経験を積み、重要閣僚ポストを積んだ暁にどうなっているか?
蓮舫はどうか?東京都知事に立候補しなかった理由は、総理になりたいからとの声も聞くが、民主党にいる限り総理はない。自民党に戻ればさらになくなろうし、どちらにしてもない。小池百合子は、いつまで都知事をやるかは未定だが、その後に国政には戻らないだろう。総理になりたいがために橋下人気にあやかった石原慎太郎は、晩節を汚してしまった。
長いこと女性は政治に向かないとされていた。その理由として、女性だけの社会を作り、男性を虐げたアマゾネスの結末がそれを示している、という内容の本を読んだことがある。フェミニズム運動を支持しない女性は多く、一部に尖った女性もいるにはいるが、女性の本質はその性器の構造からみてもパッシブであり、男に依存を良しとする女性は少なくない。
舛添要一はこのように述べている。「女は政治に向かない。生理のときは異常で、そんなときに国政の重要な決定、戦争をやるかどうかなんてことを判断されてはたまらない」。「自分は男であるが、明らかに政治に向いてなかった」と言うなら彼もバカではないが、男でも女でも、向く人は向く、向かない人は向かない。ハゲる男もハゲない男もいるように…
女性であろうが、男性であろうが、目指すものが政治家であれ、トラックの運転手であれ、「自分の生き方を自分の責任で決める」のは、職業に限らずとも大切な要素である。近年、職業選択に性別はない。看護婦は看護士となり女性の聖域ではなくなったし、女医も珍しくない。日本初の女医といえば、荻野吟子(1851年4月4日- 1913年6月23日)である。
彼女が女医になろうとした動機が素晴らしい。1870年(明治3年)、遊び人の夫から淋病をうつされたことで吟子は離婚した。上京して順天堂医院に入院、婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、医師となって同じ羞恥に苦しむ女性を救いたいとの決意から女医を志した。
いかにも時代が生んだ職業動機である。こんにち男性婦人科医が嫌だという女性は少ない。それでも女医に越したことはないと、それが女性である。医師になる決心をした吟子は、埼玉・熊谷から上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀に師事するが、頼圀より後妻に望まれる。東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学したのは24歳だった。
首席で卒業後、軍医監で子爵の石黒忠悳を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。吟子は、男子学生からの好奇な目線やいじめに耐え、3年間で優秀な成績で修了するも、国内に女医の前例がないことから、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。
埼玉県にも提出したが同じ結果だった。私立医学校卒業から二年後の1884年(明治17年)9月、ようやく医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験したが、吟子1人のみ合格であった。翌年3月、後期試験を受験し合格。同年5月、文京区湯島に診療所、「産婦人科荻野医院」を開業する。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過していた。
吟子はキリスト教に入信、1890年(明治23年)11月25日、39歳時に13歳年下の同志社の学生だった新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善と周囲の反対を押し切り再婚する。新島襄の妻は、NHK大河ドラマ『八重の桜』でおなじみ、新島八重である。医術試験の願書を受け付けてもらえない吟子は、産婆になるしかないと諦めかけたこともあった。
が、吟子のひたむきな姿に感動し、彼女を応援する人たちも現れ、遂に念願の医術開業試験を受けられるという告示が出されたのだった。当時の試験科目は、物理、化学、解剖、生理、病理、内外科、薬学の7科目に合格する必要があったが、前期、後期の試験に一回で合格した頑張り屋であった。伝道師である夫のために財をなげ打ち開拓者ろして北海道に渡る。
共に寒さと戦いながら二人で力を合わせて伝道と医療に励んだ末に、やっと軌道に乗り、これからという時に、夫の志方は病気になって42歳でこの世を去ってしまう。吟子は一人で3年間ほど北海道で暮らしたが、58歳になって彼女は東京に帰ってくる。本所に荻野医院を開き、近所の人たちのために尽力するも、吟子は1913年(大正2年)、63歳で天に召される。
40歳の吟子は、14歳年下のキリスト教伝道師である青年と周囲の大反対を押し切って再婚したが、直後に夫の之善は、キリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極めた。その後も、紆余曲折を経て、結果的に之善の試みは挫折に終る。
夫が渡道した5年後、吟子は北海道に渡るが、すぐに医院は開業はせず、一年後に海辺の瀬棚の会津町で診療所を開業する。現在、開業の地に、「荻野吟子開業の地碑」が建立されている。若き理想を抱く夫に従い、支え続けた吟子の人生は、現世の栄達を顧みることもなく、決して成功とはいえないが、彼女の献身と奉仕の生涯を知る人の心に深く刻まれている。