子どもが小学生の頃、トランプマジックや様々な手品をやって見せたのが懐かしい。絶対に種は明かさなかったし、手品は種を明かせばバカの骨頂だ。インチキのおかげで、「お父さんは凄い!」という肩書も得ることになったが、子ども騙しで得た肩書は長くは続かない。もっとも人気のあった手品は、皮をむいてない綺麗なバナナを念力をかけるとあら不思議…
子どもに皮を剝かせると、念力をかけた二か所が切れているという技。これは大人でも驚くマジックだから、何人かにやって見せた。当たり前だが、大人はそんな念力などだれも信じない。信じないが念力をかけるとバナナの中身が切れている現実を見る。誰も念力で切ったとは思わないが、その現実を否定することもできず、受け入れるしかない。
こういう心理状態を、「悔しい」という。子どもは「悔しい」などとは思わない。念力を信じているかどうか分からないが、そうでなければ絶対にあり得ないことだし、どういう心理状態か分からない。ならば、自分が子どものときに見たさまざまな手品を見たが、その時にどう思った?手品師は凄いと思った。理由は「凄いことができるから」である。
種があるんだろうと思いながらも、「種も仕掛けもありませんよ」という手品師の言葉をつい鵜呑みにしてしまう。なんという純真さ、純情さであろうか。純真というのはこの世の何よりも美しく、まさに子どもは天使である。情緒的な見方でいうならそういう感動もやぶさかでないが、科学的見地でいえば、幼年期は生物学的に条件づけられた時期に過ぎない。
人間に特化すれば、「性格の構造や人格形成のうえで、とりわけ重要な時期であるというのがこんにちの知見である。幼年期の想像力のエコロジーである。エコロジーは、狭義には生物学の一分野としての生態学のことを指すが、広義には生態 学的な知見を反映しようとする文化的・社会的・経済的な思想や活動の一部または全部を指す言葉として使われる。
我々は「大人はそうでなければならない」と、どこかで教え込まれているはずだ。中でも身近な大人の影響を受けよう、それが親である。親の教える「大人像」になろうと動物が、懸命に親を見、親を真似るように、人間も親を見、親を真似る。が、動物と違って人間には知性がある。親を正しいとし、疑わない動物に比べ、人間はその点が違っている。
草原のライオンが親を真似て狩りを覚えるのは、生きるためであり、動物にとって生きること即ち本能である。数度の狩りに失敗し、挫折し、自らの命を絶つライオンはいないが、なぜ人間は生きるを本能としないのか?する人もいるが、これほど多くの人間が、生を止めて死を選ぶのは、生きることがあくなき本能欲求でないからであろう。ならば人間の「生」の目的は?
これが哲学的命題であるほどに、複雑怪奇である。動物の「生」の目的は、「生きて子孫を残すため」と極めて単純である。だから動物であり、複雑怪奇であるゆえに人間である。よって、人間は親の望む、あるいは押し付ける「大人像」を素直に受け入れることをしない。親子とは言え、子と親は別の個体故、親の考えに背くのは当たり前のことだ。
背かぬ子を「いい子」、背く子は「悪い子」と親は子に教える。自分もそういう事ばかり聞かされた。「親に逆らう子が本当のいい子」などと親がいうはずがない。が、自分はあえてそれを言ってみた。なぜなら、親にとって都合のいい子は、親の為であっても、子どもの為とは思わなかった。「親のいう事をハイハイ聞いてるようではダメだ」という言い方をした。
ペットは飼い主の言いなりになるよう躾けられるが、人間の子どもに飼い主はいない。親は飼い主ではなく、きもちいいことをした結果に、授かった子どもの法的養育者である。だから、「誰に育ててもらったと思ってる」など恫喝する親はバカであり、卑怯者である。口には出さずとも、「親には感謝をして欲しい」とこに要求する親も、自分に言わせればバカである。
「バカ」は手っ取り早い言葉を使ったまでで、「傲慢」とか「無知」とか「勝手」とか、「思い上がり」などの言葉が馳せられるが、自身でこういう親は、「バカ」と思っていた。実際に、子どもは、"成長"する生き物として、楽しげに自らを実現しようと努めるものだ。そこに製造者の傲慢が反映されると、少なからず問題が起こる。問題の起こらぬ親子もあるのではという異論。
もちろん少なくない。おそらくそういう親子は、緊張感のない、どっぷりぬるま湯につかった親子、あるいは、どちらかが眠っている親子で、世代的にも対立して当然のハズだ。人はその時代にしか生きられないという論理からすれば、少なくとも親子には30年近い世代格差があるはずだ。対立がない親子はどちらが嘘をついている欺瞞親子と自分はみる。
あらゆる生物は成長するが、成長こそが生物と無生物の違いである。職人によって作られた椅子は成長しない。軋み、傷むのは成長というより劣化である。また、人間以外の知覚をもった生物では、成長がある程度の発達段階で止まってしまう。人間だけが、ほとんど例外なく、生において、行動的にも、精神的にも、成長することができるのだ。
精神的とは宗教的な意味ではない。それは、人と、その人を取り囲む世界に対する、その人の心構えを作りあげることで、成熟ともいう、その糧として宗教に頼る人はいようし、外界のあらゆるものが精神的成長に寄与する。人を愛したいも成長であり、好奇心、詮索好き、知的欲、性的欲、学習欲、想像力、創造性、ユーモア、歓び、遊興心、誠実、思いやり…
どれもこれも成長がもたらす人間の情念だ。それらを妨げる親であってはならないし、助長はいいにしても、親自身の偏見的価値観と、子どもの抱く価値観に差異が出た時、親はどうすべきかを、親自身が問うべきである。問わない親なら、子どもは反発すべきである。文化的に踏襲されるものもあるが、どうしても自分に向かないと思うなら仕方なかろう。
池畑慎之介は上方舞吉村流四世家元で、人間国宝吉村雄輝の長男として生を受けた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれたが、5歳の時に両親が離婚、「好きな方を選べ」と言われ、舞の稽古で鬼のように怖い父を捨て、母の池畑清子との暮らしを選択、小学2年の時に祖父・祖母のいる鹿児島市で少年時代を過ごし、後にピーターと称す。
これは奇異な例であるが、自らの意思で親の跡を継がなかった例は多い。自分も両親の経営する商売の跡を継がなかった。父は「継げ」なる言葉を一度も発しなかったが、母は朝から晩までそのことばかり口にした。どちらの方が継いで欲しかったかは、口に出さぬ父であったのは分かっていた。こういう話がある。先祖代々の菓子製造に従事している父親がいた。
父は息子が暖簾を受け継いでくれるものと思い、息子も幼少から父の仕事に興味を持っていた。ところが、息子は大学受験に際し、法学部に進んで官僚になると言い出した。「そんな馬鹿な!」と、父親は大反対したが、結局息子に同意してしまった。息子の言葉が印象にある。「父は先祖代々の名誉ある仕事と口では偉そうに言いながらも、内実は違った。
税金が高い、原料が高騰した、これは政治が悪い、などと愚痴が多かった。それは真から自身の仕事に誇りを持っていないからでは?」と、息子は父をやり込めた。父親は唖然としたが、そういう言葉を吐いていたのは事実である。吐いた唾は飲み込むしかないし、息子の変節の責任は自身にあることを悟るしかなかった。斯くの事例は社会的に「父親殺し」と言う。
子どもの成長に伴う象徴的な、「親殺し」は必要なことだが、「それがいかになされたか」によって、大きな「差」となって現れる。息子を諦めた父親は、姉に婿養子を迎える算段を息子に言い渡す。息子は法学部に入学して勉強を続けたが、法律の勉強は思うほどに面白くなく、自分に向いていないと思い始めたが、今さら家業を継ぎたいとも言えずに思い悩む。
こういう問題には事前の正解はなく、客観的に見て、「何が良くて」、「何が問題か」という問題ではない。結果の前に物事は起こるわけで、結果を見て論じても意味はない。双方ともが下した決断を「了」とするしかすべはない。本日の表題は「トランプマジック」。アメリカ大統領のドナルド・トランプについて書こうとしたが、またしても表題と中身が一致しない。
頭の中がまとまっていないというよりまとめない。何事も「自然」の成り行きに抗わない自分を好む。トランプ勝利の要因はメディアが論じるし、ど素人が知ったかぶりをすることもない。が、ふとトランプのこわもて、暴言ばかりを目に耳にした人は、自分も含めて多かったろう。アメリカ在住の野沢直子が日本のテレビに出演し、「アメリカ人はバカ」と言った。
「トランプが大統領になったら国は終わり。ブラジルに引っ越します」とまでいったが、その理由が、「髪形が嫌い、生理的に受け付けない」だそうだ。野沢がいうなら何でも許そう。が、「トランプが勝利の要因は髪型だ!」というユニークな分析がオモシロイ。人気テレビ番組に出演し、髪型をからかわれたり、くしゃくしゃにされたり、それでもニコニコ笑顔のトランプ氏である。
彼の広いキャパをアメリカ国民は見たろうし、自分も、こわもてトランプのこれまでにない別の一面を見た。司会は、「ヒラリーに勝利して大統領になったら、こんなふしだらなお願いはできないので、是非とも最後の願いを」と前置きし、「あなたの髪をくしゃくしゃにしていいか?」。トランプは、「答えはイエスだ!」と笑顔で快諾。なんともユーモアが絶やさないお国である。