いつもながらのムダ話をしよう。ある女性の悩みについてである。それについて自分とのやりとりについて喋ろう。文章で喋るといえば書く、聞く側は読む。書けば喋り、読めば聞くとの言い方は、便宜的だがそういうものだ。公然と知らない人の話をするのはムダ話である。ムダ話を漢字で書くなら、無駄話より閑話がよいだろう。「閑話休題」というように。
こういう相談である。「友達がカラオケとか飲みにとか、いつも私を誘うんだけど、断るとすごく不機嫌になるので断れません。休日まで拘束してくるので、一度用事があると断ったら、どんな用事かしつこく聞かれ、嘘はつけないし、どうしたらいいでしょうか?」。ややこしい女性関係はいろいろ聞いた。断ると、「もういい!」などと露骨に態度に出す。
あるいは、無視したようにしばらく口をきかなかったり、わざとそういう態度で相手にプレッシャーを与えるなど、性悪女というしかない。よくもまあ、そういう相手と友達を続けられるものかと、そのことが凄い。断るなどは簡単だが、「No!」がいえない、いいづらいという人の深層は、嫌われるのが怖いわけで、そこの問題を人に聞いてどうするんだろう。
男的にいえば、こういう相手は速攻縁を切る。縁を切りたくないなら、従うしかあるまい。よって、「その人と縁を切るかどうか」、「切ってもいいのかダメなのか」、その辺りを聞かないことには無用なアドバイスとなる。それより、なぜこういう性格なのかという疑問である。幼少から親のロボットで、目立った反抗期もなく、己の意思を殺していたのか?
自らの可能性を犠牲にし、他人(親)の人生を生きてきたと言い替えられる。生きることが、他人の期待に応えることになった人の悲劇とは、いつも他人に怯えていること。相談者をA子とし、A子の友人をB子とすれば、A子はいつもB子に振り回され、あげく怯えていることになる。それでも関係を続けたいのは、現実が変わるのが怖いのか、変えられないのか?
自:「あなたは人の期待に応える自分が好きなんですか?」
A:「よくわかりませんが、断って不機嫌な相手を見るのが嫌かもしれません」
自:「でしょうね。相手におもねる自分しかないように感じます?」
A:「相手におもねる、自分…」
自:「自分の意思で判断し、自分の意思をハッキリ伝えるより、顔色を窺う…」
A:「だと思います」
自:「それって苦痛ではありません?」
A:「苦痛というより、ずっとそうして来て、そういうものだと思っているのかも」
自:「でも、時たま辛いこともあるんですね」
A:「はい。人とのことは、そういう風に悩むものだと思っています」
自:「なるほど。そういうものだと思っているか。そうではないんだけどね」
A:「それ以外の人間関係は頭にないです。考えたこともありません」
「ハっ」とさせられる言葉だった。これまで相手が普通だと思ってきた生き方を、今この時点で否定することも、否定されても、訳が分からないのではないか?ようするに、幼児期からの習慣が内面化されてしまっている人に、別の価値観が理解できるのか?20年間アメリカで暮らした人が、いきなり日本に住む。あるいは、その逆と同じくらいの違和感があろう。
聖書を捨ててコーランを持ちなさい。コーランを捨てて教行信証を読みなさいというようなものかと。他人の悩み、苦しみに同化することの難しさを実感する。親に反抗して生きてきた自分と、親に従って生きてきた人とは、まるで生き方の根底が違うのだから、話が噛み合うハズがない。「人の誘いに断れない」どうしたらいい?というのは単に表層である。
根本を解決しない限り、「断るのが正しい。そうするとストレスや苦悩が解決される」と口でいくら言っても、それを実行するためには、かつての自分を捨てるくらいの勇気とパワーがいるだろう。自己変革の難しさはそこにある。まずは、過去に遡って原因を知る。それを確実なものと信じる。そのことの善悪を問う。それから自分を変える行動を起こす。これは自我との格闘である。
そういうプロセスがないと、かつての自分に寄り添って生きるしかなくなる。自己変革の基本は自己否定であろう。これに類する書や映画は多くある。中でも、『グッドウィル・ハンティング』が印象的だった。この映画のレビューを書いたときに、真面目な中高校生風のゲストから、「稀に見るゲスなレビュー」と指摘されたのを思い出す。まあ、仕方あるまい。
彼は自身の都合で読み、自分は自分の都合でアレコレ書いた。読み手が書き手の意思や事情を理解しない限り、批判は当然に起こる。ピカソやキューブリックの芸術が分からないのもそういうこと。あれほどの天才の資質や意図に同化することは凡人には無理であろう。それを思えば、自分の駄文に同化は簡単だが、それをしないのも自由であり、批判を恐る理由はない。
『グッド・ウィル・ハンティング』は秀逸な作品である。「旅立ち」という副題があるように、まさに人間の新たな旅立ちである。脚本は今を時めく大俳優のマット・デイモン、ベン・アフレックの共作だが、いずれも当時は無名だった。脚本の評価は高く「アカデミー脚本賞」に輝いた。アルバイト清掃員のウィル・ハンティングが、数学の天才だったという奇異な設定だ。
が、それは物語の本質ではない。ショーンという心理学者によって、ウィルは自己変革に至る。毎日連れ添っていた心の友(いわゆる悪友)と、袂を分かち、新たな世界に向けて旅立っていくウィル。最高の友人として彼を認め、お前は自分たちなんかとつるんでいてはダメだと言い続けていたチャッキーは、自分たちの前から消えたウィルに心からエールを贈った。
真の友人とは、場合によっては相手を突き放すこと。ここのところが胸を打つ。真の親は子を突き放す。自分の都合で依存するのではなく、相手の心を尊重して依存を解く。自ら離れようとする。これが真の愛情と考える。自分は子どもを持った時から、「与える愛情」と同等の、「与えない愛情」を考えていた。与えない愛情というのは、与えたい側には苦しいもの。
その苦しみの中に真実があると考えていた。真実は自分の好都合の中にはないということ。生きてる以上は様々な苦しみや悲しみがある。がしかし、その中に自分が生きる意味の真実が隠されていると思う事だ。それに耐え、乗り越えること、即ちそれも真実であろう。苦しみから逃れ、死に至るものは、そこを考えない、考えることも及ばないのだろう。
それを教えるのが教育ではないのか?親も教師も、そして自分のようなそこいらのおっさんも、そういう事を考えている人は、臆面なく発すればいい。それを恥さらしと嘲笑する人はいようと、そんなことは問題ではない。そんなマヌケ人間に屈する方が怒マヌケである。自分にはそれなりの情熱があるのが分かっているので、何を偉そうにという批判は百も承知。
少年、少女が苦しさのあまり、自殺を企てたとして、その自殺を留めさせる彼らの苦しみを共有できる、そんな親や教師や、そしてそこいらのおっさんが多くなればと考える。そのことで何を考え、何を書いたところで、一日24時間のいかばかりかである。それくらいの時間はどうでも捻出できる。「なぜこんなことで人は苦しむのか」の原因は、遠くの彼方にあると考えている。
今の苦しみを解決するのは、「今」でしかないが、もっと遡ったところに核心がある。誰も親になれるし、そうして親になった時に、子どもの10年後、20年後を予測する。「今」は未来への懸け橋と言われるが、「今」は地獄の未来の切符を作ることも可能だ。子どもの未来について、上のどちらも親は選ぶことができる。もはや学歴などに振り回される時代ではない。
慶応や東大に入学するのは決して悪いことではないが、つまらん人間が行ってはダメだろう。いい大学に入れば、良かれし人間になるのではなく、かつてのように、一部の良かれし人間がそれに見合った学歴を得る方が、社会の為でもある。また、良かれし人間は、学歴に依存せず、社会のどのような場にあっても、善く生きているから、ない物ねだりは必要ない。
学歴社会について徹底的に考えたことがある。電通のような超優良企業は、有名大卒の管理しやすい無個性エリートを入社させ、会社の命を忠実に守らせようという魂胆丸出しに彼らをコキ使う。「お前ら、こんなイイ会社入れてやってるんだぞ。文句を言わずに黙々と働かんか!」などと、人間扱いしない。残業を誤魔化し、法順守もへったくれもないとんでも有名企業。
ブルーカラーの仕事はキツく、エリートは楽をできるってのは上辺だけ。今や前者がほどほどに楽しく生活し、後者のエリートたちが窮している時代である。ホワイトカラーとブルーカラーの給与差の変遷を眺めると面白い。大正五年のデータでみると、大卒初任給が50円、ブルーカラーの平均給与か23.5円だが、確かに年齢とともに差は開いていく。
即ち、日本社会は経済的格差が学歴という能力によって決められているというが、そのレースに参加できる者は限られていた。親の学歴や職業、資産などから受け継いだ能力差という生まれながらの体裁を格差として受け取り、受け継いだ者が、選抜システムのなかで、それをロンダリング(浄化)し、さも実力差であるふりをする。それが学歴社会である。
1991年8月にあった「電通事件」は、入社2年目の24歳男性社員が自宅で自殺した。電通では、「月別上限残業時間」(60~80時間)が設けられていたが、実質は名ばかり。遺族は会社に損害賠償請求を起こし、2000年に同社が1億6800万円の賠償金を支払うことで結審した。奇しくも25年後、同社で入社9ヶ月の女性社員が過労自殺した。世間は「電通事件再び」と非難をする。