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三浦九段問題の最後に…

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いろいろ思うところを論じてきた。将棋が好きで、棋界のことにも興味がつきないだけに、今回の失態はあまりに情けない。三浦九段が無実の立場でどうすべきだったかを考えたが、自分は三浦でないし、三浦も自分とは性格が違うし、三浦本人でない自分のアレコレは無意味である。が、この問題を考えていると、自分だったら、「どうした」、「こうした」がつい浮かんでくる。

所詮は何を言っても机上の空論と思いつつも、理不尽ないいがかりや要求に屈して欲しくないが、防止という点においてすべての発端は初動にある。やってもいないことをアレコレ理由をつけて言われたときに、何が、「善」であるかは、相手の言い分を無条件に通させないこと。自分の無実は自分が分かっているのだから、いかなる難癖にもひるまないこと。以下、類似のケースで思考してみる。

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スーパーで買い物を終えて外に出た。追いかけてきた警備員に呼び止められ、「なんですか?」と尋ねると、「あなたに万引きの疑いがあります。事務所まで御足労願えませんか?」という。一応したがって事務所に行くと、前にどっかと坐った店長らしき人物が口を開く。「申し訳ありませんが、レシートと袋の中身を擦り合わせたいのですが宜しいか?」という。

「なぜですか?警備員から聞きましたが、ここに呼ばれた理由を再度お尋ねします」。「あなたが万引きをしたという情報を、店内を巡回する従業員から報告を受けました。確認のために調べさせていただきたいのです」。「私に万引きの容疑がかかっているんですね?ならばその前にお聞きしますが、もし違っていたら、どうなさるおつもりか?それを聞きたい」。

「いえ、こちら側としては調査に協力してくださいとお願いしているんです」。「私は万引きなどしていません。それを申し上げておきます。それを信じないのはそちらの勝手ですが、疑われるのは心外です。疑われた私の怒りをあなたはわかりますか?こうしてここに呼ばれただけでも腹が立っています。ですから、濡れ衣だったらどう責任を取るかを聞いてるんです」。

「責任といわれましても…」。「人を疑う以上、責任はあるでしょう?それもなくて、人を疑っていいんですか?どういう責任をとるのか、それを聞くまで中身は見せません。それが無実を疑われた人間の自尊心です」。「違っていたら当然お詫びはします」。「お詫びではダメです。腹を切るか、ここを退職するかでお願いします。ない腹を探られる今の自分に、それ以外は認められません」。

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「そんな…、無茶な」。「人を疑うならそれくらいの覚悟でやれといいたいんです。人の自尊心を傷つける権利はないでしょう?」。「そんなことを言う人はいませんよ。皆さん、協力してくれます。あなたのような人は初めてです」。「当たり前でしょう?私は初めてここに呼ばれたんですから。私は私で人は人です。別に逃げも隠れもせず、安易に人を疑うなと申し上げているのです」。

「…」。「無実なのになぜ自尊心を壊されなければなりません?過ちの責任も取らない人間が人を疑うなといいたいが、あなたに自信があるなら、私のいう責任を取ればいいだけで、自信がないなら私を信じる。万引きは犯罪でしょう?私は犯罪なんかしていません」。というシュミレーションである。「協力」などと都合のいい論理を持ち出すが、こちらは「心外」を突き付ける。

「協力」などと由々しき言葉に騙されず、権利と義務を明確にする。さて、店長がどうするかは分からない。おそらく放免するであろう。自分の言葉は半ば冗談であるが、その程度の意思と責任をもって人を疑うほどの人間なのかどうか。もし相手側が、「ではあなたが万引きをしていたらどうします?」と言えば、「腹を切って詫びる」でいい。それが真実の強さである。

自分の確たる信念は突きつければいいし、それでこそ疑う側と、疑われる側が対等となれる。なにびとたりとも、一方的に疑われて損害を受けるいわれはない。人を疑う立証責任は疑う側にあり、それを明確にしない相手に従う義務はない。三浦九段の問題においても、基本は疑う側が証拠を突き付けるべきである。何を言われても、「自分は無実、やっていない」が正しい。

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スマホを提出してまで疑いを晴らす必要性はないし、それが手っ取り早い手段であっても、「人を疑う以上、確たる証拠を出せ」が正論なのだ。「週刊文春」の見出しに、『三浦弘行九段はやっぱりスマホ提出を拒否していた』というのがあった。読者への明らかな印象操作であり、「スマホ提出拒否をしたのは、あきらかに三浦九段はクロである」という世論喚起を狙っている。

低俗週刊誌のこうしたキャッチコピーに怯むことも翻弄されることもない。全国誌に晒されようと明らかに情報の意図的操作と無視するべし。理知で現実的思考すれば提出拒否=容疑隠しとは言い切れないからだ。スマホカンニングを疑われ、「だったらスマホを調べてくれよ」という人もいる。が、そういう人間ばかりではないし、自分は絶対に相手の身勝手な言い分を通させない。

自ら率先して、「スマホを調べて欲しい」などは絶対に言わない。それが無実の人間の強さではないか?よって、「見せろ」と言われても、「冗談じゃない」と拒否するし、すべきである。連盟から提出要求はなかったと三浦九段は述べているが、連盟は顧問弁護士に、「相手が自主的に出すならともかく、要求してはならない」と言われているハズだ。捜査権もない側がやると人権問題になる。

疑う側が証拠を出せばいいし、「スマホを見せろ」は越権行為。「やってない」という事実が神聖にして侵されるべくものではなく、スマホを提出してまで疑いを晴らす必要性は被疑者側にない。誰もが人を容疑者に陥れることはできるが、無実の者にとっては侮辱である。三浦の挙動に疑義があるとはいえ、それが離席であれ、誰が無用な離席と定義できるのか?

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捜査権を持つ警察の刑事事件性の捜査協力はやぶさかでないが、捜査と調査の線引きは明確に区別されるべきであろう。三浦にはそうした社会的知識がなかった。諸外国ならそうした社会的弱者庇護のために、すぐに弁護士がつく。日本の刑事事件は、容疑者をしょっ引いて、缶詰にしてあれこれ尋問し、泥を吐かせるやり方であり、これは人権無視も甚だしい。

低俗週刊誌もスマホを見せない三浦をクロと煽る。今回は文春の記者が渡辺からのリークで記事を書いており、一切が渡辺寄りになっていることも問題だ。三浦九段は真面目で誠実な人間であり、それ以上に純粋で無知であり、気弱であり、村社会の一員との認識もある。それらを加味して思考したが、こういう場合は真実より、疑義を人は怖れるのだろう。

真実が揺らぐことはないが、周囲から責められることでの孤立は辛く、強い気持ちがくじかれやすくなる。真実という強い味方はあっても、物言わぬ真実だけを拠り所とするのは辛い。村の掟の中で孤立状態の三浦が、テレビカメラの前で思いを述べたのは、反撃というより支えを求めたと察する。三浦の代理人は法廷闘争を視野に、「個別の問いには答えない」と黙している。

「自分ならこうした」は、三浦九段には関係ないが、知るべきは、「人を疑うなら、疑う側が根拠を示すべき」である。三浦はなぜそのように突っぱねなかったのか?上記のような理知的対応を取らなかったのか?三浦自身が頭が悪いとするより、朴訥で純粋であったからだろう。上記の行動をとり自分が、"頭がいい"のではなく、こういう対処経験があるからだ。

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渡辺のように、「プロの勘」、「不自然な離席が多い」、「指し手の一致率が基準を超えている」などが彼の疑惑の根拠というのが、自分から見るとバカなのである。それを真に受けて拙速な処分をした連盟も同様のバカである。このように初動の時点で、相手がバカに思えるなら、勝負は戦わずして勝利したことになる。これが孫子のいう戦の最善である。

相手の愚行をことごとく論破し、抑えつければいいわけだから、当然に不戦の勝利となる。上記のスーパーの例の如く、渡辺にも連盟にも、こちらが無実であった場合の、責任を確約させ、そこから話をスタートさせればよかった。「真実とは神聖にして侵されない。それを侵そうとするなら、それ相当の責任と覚悟でやるべきでしょう」と、三浦が言えば相手は手も足もでまい。

「疑念がある棋士と指すつもりはない。タイトルを剥奪されても構わない」との渡辺発言も、事前に確約をとって、文書に明記すなどして三浦が問題の処理を行っていれば、後になって「言った」、「言わない」なども起らない。自らの首をかけて人を疑うという渡辺の心がけは尊重すべきものだ。スーパーの店長とは大違いである。疑念を持たれた側はキチンと念書をとる。

そういう自己防衛の元に立ち向かえば、傷つくことはなかろう。三浦九段は、「瓜田に履を納れず」であったという非難は、オカド違いも甚だしい。疑いに屈する気弱な人間はそうすればいいが、自分の持ち時間内にどこで何をしようが、規則の範囲を逸脱してはいず、自分の持ち時間が減るというのは、むしろ戦う相手にとっては好ましいことのはずである。

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スマホカンニングという先入観が、離席を問題にしているだけのことで、対局者がそのように思うのは勝手である。渡辺というバカがでっちあげ、それを連盟のバカな幹部が鵜呑みにしたことで問題になった。三浦が正攻法の対処ができなかったことを、バカ呼ばわりはしたくない。無知であることで人から鬩ぎを受ける人間は世に五万といる。それを思うと無知は悲しい。

この問題は解決していないが、上記の行動をとることで防止はできたのではないか。バカには知性で対処するしかないということだ。今回のことを機に、棋士は頭がいいと思っていたことが根拠を得ないものとなった。それが事実なら悪いことではないが、棋士は頭がいいという先入観を抱いた背景には、心当たりもある。余興ながらそれらを次回に記してみたい。


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