日本将棋連盟は、10月24日の理事会において、第三者により構成する委員会を設けて調査を決定した。委員長には但木敬一氏(弁護士、元検事総長)を任命し、出場停止処分の妥当性、三浦九段の対局中の行動についての調査を要請した。我々はこの調査の成り行きと結果を待っているが、それとは別にさまざまな場外乱闘も起こっており、これは世の常ゆえに止められない。
乱闘はないが自分も外野の一員だ。屁理屈をいうつもりはないが、発言は大事である。自身の知識や理屈をひけらかすための発言でなく、何かが起こった時、善悪是非について考えるのは、紛れもない自身の思考体験となる。もし自分が当事者ならどうするか、何が良くて何が良くなかったかを、「出来る」、「出来ない」立場にないなら、是非論として考えてみる。
人間がそれぞれに自身の考えを思索し、練り上げていくのは、己の賢さを自慢する小事ではみすぼらしい。正しい考えとか何か、そこに辿りたいという目的で思考するのである。社会には至らぬ人間がうごめいている。至らぬ人間だから至らぬことをやってしまうでは人間に明日はない。至らぬことをやらないために様々な知識を有し、それを肥やしに正しいことを決めてゆく。
残念ながら、それでも人は正しいことをみつけられないし、決められない。連盟は今回の問題の調査に元検事総長の弁護士を任命した。彼らは世の中の悪と対峙し、何が正しいことかを常に考えている専門家である。が、そうであるからと、神の裁定がくだせられるとも思わない。1000人の人を納得させる裁定など存在しないし、何が正しいかを決めるのは難しい。
正しいものを探ることはできても、いざ決めるとなると多くは妥協であろう。世の中に存在するすべての決定は、妥協の産物である。正しいものを見つけることを真理の探究というが、この世に唯一絶対に正しい真理が存在するとは思えない。宗教は普遍的真理を探すというが、自分は宗教とは別の方法で探りたい。それが哲学だ。信仰と違って教義に拘束されない自由さがある。
ある考えや見方が生まれたとする。これらは自分のどこから出てきたのかを一言でいい現わすのは難しい。映画や演劇や書物から得たものなのか、経験から生まれたものか、親や周囲の誰かから身についたものか、宗教的な考えに沿ったものか、そうした何かであろう「何か」が、「何」であるか分からない。「自然に生まれた」という言葉を聞く。「自然」という言葉は便利で、後ほど考えてみたい。
連盟は第三者委員会を設置する前は、「三浦九段に対する再度の聴取はないし、この問題をこれ以上追求することはない」ということだった。この言葉を裏返すなら、「双方合意の元であり、一切は手打ちにして処分を確定させる」と言っているに等しい。それが急遽、第三者委員会を設置したことについては、三浦九段に対するさらなる調査をすると明言したことになる。
こうした連盟の決定は当初の発言と矛盾するが、第三者による調査を依頼した背景は、連盟がくだした処分の是非や、伝えられる渡辺竜王の恫喝まがいの発言に対する世論を抑えきれなくなったからだろう。何事か疑惑が浮上した場合、普通であればまずは調査をし、判定をして処分という手順をたどるが、今回の連盟の対応は、処分後に調査をし、判定する格好である。
となると、行った処分はどうなるのか?刑事事件でいえば冤罪の可能性が出てくるが、長期間獄舎に捕らわれた容疑者にどれほどの国家賠償をしたところで、失われた時間は戻らない。三浦九段が無実でありながら処分を受けたとするなら、竜王戦挑戦者並びに年内の出場停止などの物質的損失も大きいが、それ以上に人間としての名誉や尊厳を奪われたことが問題だ。
しかし、将棋がすべての三浦にすれば、現状で将棋を失うことは死にも値する絶望と考える。弱みと言ってしまえば言えなくもないが、三浦九段にすれば、「今回のことは無実が証明されればそれでいい、今までどおりに将棋が指せればいいです」。と、一連の問題を不問にするであろう。まあ、仕方がない。将棋を奪われることを思えば、これが彼の正直な心情と察する。
問題は無実の人間の名誉を傷つけるという過ちを連盟が犯したこと。一人の人間の口車に乗せらたのは軽率である。当該者の渡辺竜王はどの程度の罪を追うべきか?渡辺自身は、行動意図をブログで説明しているが、弁護はともかく、善悪良否を自ら判断できない。「泥棒にも三分の理」というが、殺人犯でも行為の正当化はできる。正しく裁くべく第三者委員会であろう。
連盟の雇った弁護士なら、連盟寄りの裁定を下すと誰もが考える。元東京都知事舛添氏の問題の際も、第三者委員会とは名ばかりで、これについて元検事で弁護士の郷原信郎氏などから、「舛添氏は佐々木弁護士(依頼人)に一体何を依頼したのか?」と訝る声もあがっていた。依頼人は何を依頼されたかで調査の範囲を決めるが、連盟が自分たちの処分を頼むわけがない。
渡辺には週刊誌にリークをした同義的な問題がある。内部で調査すべきことを、週刊誌という媒体で権威づけを狙ったのだろうが、これは渡辺正和五段が指摘するように、著しく連盟の信用を失墜させる行為に抵触する可能性がある。だとしても、連盟を処罰し、渡辺竜王を処罰するのは、連盟自らが行うしかない。勿論、顧問弁護士などと相談をするであろう。
自分が裁定者ならどういう判断を下すか思考してみた。その前に今期竜王戦が続行されるのはオカシイ、中止(延期)にすべきと23日の記事に書いたが、これを伊藤雅浩弁護士は法律論で以下述べている。伊藤氏の御子息は現在奨励会在籍であるという。主宰新聞社とどういう話し合いがもたれたかは不明だが、両者は挑戦者を代えても中止はしないとの決定を下す。
主宰紙の了承は解せぬが、渡辺竜王による、「三浦クロは間違いない」との強烈な押しがあったハズだ。将棋界に巣食う偏執的な人間と違い、一般企業の常識的な人間が確たる証拠もなく挑戦権確定者の権利を剥奪などするとは思えない。これが裁判沙汰になれば証拠不十分で敗訴濃厚であるからだ。それほどに渡辺竜王の自信と確信性に賭けたと推察する。
それとも引きづりこまれたか?非道理行使につき、「当社は関知しない」との一文も交わすであろう。将棋の虫、将棋一筋の三浦九段は、いかなる裁定にも従うという読みもあったのか?それなくして、状況証拠のみで三浦挑戦者を降ろすなどあり得ないが、主宰社側が連盟を説得・指導する立場にない。確かに将棋指しは、将棋を指せなくなると何もできないという弱みがある。
この段階では、読売も連盟も渡辺の三浦クロ説に傾いていたと考える。渡辺明の将棋の強さだけでなく、彼の人間的な性格に負うところも大きい。物怖じせずズケズケいうところが自信と取られ、そこに頼った(誤魔化された)側が、のっぴきならぬ状況に陥っている現状である。自分は三浦シロという前提で述べているが、その理由は、証拠隠滅ができる状況にないからだ。
前置きが長くなったが、自分なりの裁定はこうだ。①今期竜王戦で渡辺防衛の場合は剥奪。理由は、三浦が勝ち取った挑戦権を剥奪されたように、竜王位を勝ち取った渡辺も同罪である。②挑戦者に上がった丸山に罪はないが、竜王位奪取も無効とし、空位のまま新たな挑戦者を決めて戦う。③丸山敗退の場合は、奪取同様に正規の挑戦者でない以上、対局料・準優勝賞金は三浦と折半する。
②については次案として、丸山竜王位奪取の場合において、その労力は徒労であってはならず、栄誉を讃えてそのまま竜王とする。ただし、優勝賞金の半額を連盟に収め、残りの半分を竜王奪取の可能性があった三浦九段と折半する。というのも捨てきれない。
④調査委員会という無駄な経費を使わせた渡辺には、対局料没収のペナルティを科す。が、除名や出場停止処分は行わない。理由は、渡辺の告発が独善的、恣意的であれ、三浦処分の責任は連盟にある。渡辺の恫喝は私憤的なものとの想像力も働いていない。あくまで規定どおり竜王戦を実施し、三浦の疑義については後日時間をかけて調査すべきだった。
よって、⑤連盟会長ならびに理事は総辞職とし、向こう5年間の欠格期間(立候補を認めない)を設ける。以上が自分の考える裁定だ。過激でも何でもなく、これくらいのお灸をすえないで何が再生だ。信頼の回復さえおぼつかない。第三者委員会には、該当者を処分する権限はないが、処分に科せられた三浦九段の妥当性についての判断は盛り込まれているようだ。
昨日、第三者調査委員会(但木敬一委員長=弁護士、元検事総長)の初会合を開催されたとの発表があった。委員には新たに永井敏雄氏(弁護士、元大阪高等裁判所長官)、奈良道博氏(弁護士、元第一東京弁護士会会長)が選任されたようだが、「三浦九段の対局中の行動について」調査という点は腑に落ちない。電子機器類の使用なくば、一手指す度に糞するのも自由だろに。
渡辺竜王は三浦九段への過度な思い込みから名誉を傷つけたばかりか、当事者しか知らない内部情報を、三浦や連盟の了承を取らずメディアにリークした。連盟は渡辺の告発を鵜呑みにし、三浦を精査することなく処分という判定を下した。渡辺および連盟役員による前代未聞の責任は大きい。早期の信頼回復並びに、連盟の将来のためにも、各自の確固たる自浄力に期待する。