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「時代は変わる」。どう変わる?

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ノーベル文学賞受賞の発表後、沈黙を続けてたボブ・ディランが賞を受け入れる意向を発表したと、選考委員会のスウェーデン・アカデミーが発表した。アカデミーによるとディランは、「私が賞を受け取るかって?もちろんだよ」と答え、「ノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて言葉を失った」、「とても栄誉なことで光栄に思う」と受賞の意向を示したという。

受賞決定から2週間も沈黙を守ったことで、周囲を、いや、世界をヤキモキさせたディランだが、彼なりに必要な時間であったようだ。すぐに反応してコメントを出すのが、世界的な賞に対する敬意というものだろうが、多少遅くなったからといっても敬意は敬意である。沈黙していた理由をディランは、「でも、今はここにいるだろう?」とだけ答えている。

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あるファンの一人は、「沈黙には、何か特別の理由があったと思っていただけに拍子抜けした」の記事は、天才への偏見であろう。以前、こういう記事を見た。羽生善治に森内俊之が挑んだ、2004年の名人戦のことだ。第6局の2日目。対局者から昼食の注文を取る際の品書きの中に、天ざるそばがあった。羽生名人はそれを示し、「天ぷら抜きで」と注文した。

そのまま素直に記せば、「昼食の注文は、天ざるそばの天ぷら抜き」となる。これについて、「さすがに名人の注文は哲学的だ。凡人には、意味がわからない」。という記事に加え、「食べない分は、最初から注文しない。それもまた、現代の名人の、品のよさを伝えるものか」と、ここまで将棋の天才に遜るものなのか?と、呆れるやら、滑稽やら…

こういうのは変人としたもので、哲学的とか意識高いとか上品だとかで表現することではなかろう。変人と考えたくないなら、「メニユーに"盛りそば"がないからそういう表現をした」と思えばいい。羽生は「盛りそばはないんですか?」と聞くのが面倒だから、天ぷら抜きの天ざる」と言ったのかも知れないわけだが、何かにつけて天才としたがる凡人だ。

羽生もディランも間違いなく天才であろう。それは将棋において、音楽においてである。過去のノーベル賞受賞者もその業績において天才である。ノーベル賞を取れなかった天才、辞退した天才もいる。『La Nausée  嘔吐』などの作品で知られるサルトルは、ノーベル賞を拒否した一人だが、彼はスウェーデンのノーベル財団に手紙を出し、以下のように述べている。


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上記とは別にフランス国内向けの別の説明もあるが、彼は、「ノーベル文学賞の後では、すべてがつまらぬものになってしまう。なぜならば、すべてが回顧的な価値を認めるだけのものになってしまうからだ」。と述べている。「目的はすべての手段を正当化する」という昨今の傾向からは程遠いサルトルの言葉であり、行為であって、その点は評価したい。

ただし、別の見方をするなら、賞を受賞しようが、名誉に押し上げられようとも、「自分の人生としてやるべきことをやる」ということはできたであろう。サルトルは、「全てを変えてしまうだけの自由と力」を自らに保存するために受賞しないと決めたが、サルトルのいう自由の哲学とは、「賞ごときに自分の自由が左右されるものだった」との批判がある。

人は人を自由に批判していいし、批判にムキになることもないのだが、そこは生身の人間である。批判に対して反論バトルはしばしば目にするが、気心の知れぬ他人から頭ごなしに押さえつけられれば、自尊心を守ろうとするのは自然であろう。が、その際に言葉を汚く罵る人間が、尊敬されることはない。ホリエモンのように「尊敬などいらない」という考えはある。

それはそれでいいが、それなら「すぐに頭に血が昇る小心者」とバカにされるだろう。まあ、それでも自分は自分なら、最終的には人は自我を守る戦いとなる。強い自尊心にかられる人間は、「それはできないでしょう」と他人から言われること、あるいは自ら「できない」と悟るのが嫌なのだ。そういう人は、「可能か不可か」というカードを隠しているものだ。

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「可能か不可能」かをそれほど隠すこともなく、自身で分かりそうなものなのに、自尊心がそれを許さない。よって、「是か非か」との抽象論に持っていこうとする。「是非論」であるなら、己の主体的な判断によって事を決めたことにならない。ゆえに自尊心も守られる、決して傷つくこともなければ、自身を慰めることにもなる。こういう人は困ったものだ。

さらに困った人は、全知全能宇宙の審判者のつもりの物の言い方をする人。自身の判断によって、すべていいか悪いか、是非善悪を決めていくという絶対者の立場に立つ人だ。実母はこういう困り者であった。ようするに、知恵も浅く、視野も狭いからできることなのだが、本人がそう思わない以上、誰の言葉も聞かない。斯くの人間とは話さないに限る。

いじめ問題は、まずは、「相手に非があるのかないのか」が先決であり、「非」があったとするなら、その、「非」を追求することが「可能か」、「不可能か」に収斂していくべきである。それを、「是非論」に転化し、小中学生の、「いじめ」は悪ふざけの延長であり、加害者を追及したり排除(転校)するなどは、人権問題である。などということがいじめがなくならない要因だ。

いじめを「悪」とする以上、「悪」に罰がなくて何で、「悪」であるのか?観念論や保護意識の前に現実的対応という日本人の甘さがある。「万引きは犯罪です」と謳っておきながら、「次からしないように」と注意のみで帰す。罰を与えられないよう本人は反省した演技をみせて逃れようとする。「厳罰主義」の功罪はないとはいわぬが、ならば、「保護主義」の功罪もある。

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罰を罰として実施しようとする、「厳罰主義」、罰を本来の意義から離して犯罪者の再教育装置として機能させようとする、「保護主義」、被害者・無辜(むこ)の市民の権利を守る「厳罰主義」、加害者の権利を守る、「保護主義」、どちらがいいのか悪いのかを臨機応変に判断するものがいないという問題が浮かぶ。つまり、いじめ加害者に対する的確な判断をしない。

「しない」は、「できない」と言った方がいい。あまりにヒドイいじめ加害者という認識を教師も校長も強く持たないのは、保護者を怖れるからである。これが現代のサラリーマン教師であり、強い教育的信念がない似非教育者である。「人権教育」を謳いながら、死者の人権は反故にされ、生きる者の人権を確保する。自己保身者の学校に、「厳罰主義」は望めない。

「厳罰主義」の判断は、利害なき教育理念を持った教師や学校管理職及び県教委・市教委が判断すべきだが、これらが機能していない現状ではいかんともし難い。こういう構造的な問題がいじめという「悪」を排斥できない彼らに誰が、「教育的指導」を与えればいい?害悪生徒を害悪と指摘できず、生ぬるい言葉でしか指導できない学校が教育現場であるはずがない。

命令ができないリーダーはリーダーではないが、そういう人間がリーダーである時代。先日、妙な張り紙がメディアで公開されたのを見て驚いた。これを相撲界の珍事と自分は見た。大相撲の秋巡業は28日、岡山県倉敷市で行われたが、三役以下の力士の支度部屋前に一風変わった「注意書き」が張り出されていた。「一風変わった」とメディアも指摘する。

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確かに変わった張り紙である。直接的な言葉で注意、指導するではなく、巡業部長の元横綱貴乃花がつぶやいている形式の、やんわりとした、「注意書き」が、玉ノ井巡業副部長(元大関栃東)の名前で張り出されていた。「横綱や大関が稽古場にいるとき、稽古しなくともせめて土俵回りに来るのは基本。分かってもらえれば」と意図を明かした玉ノ井親方。

親が子に、教師が生徒に、師匠が弟子に遠慮する時代なのかと…。これがディランの望んだ、"時代の変遷"か?おそらく彼は答えない。確実に時代は悪しき方向に向いている。時代は文明の加護を受け、影響されるが、良い方向に変わるとはいえ、何が良く、何が良くないのかは時代が決めるのか?人は各々がその時代に生きるように、人が時代を作っていく。

変化というが、人が時代を変えるのか、時代が人を変えていくのか、複雑に絡んだ両輪を判断するのは難しい。時代は強いリーダーを求めず、合議によって進んでおり、これを民主社会という。封建時代の将軍には決定権があったのか?その辺も定かではない。将軍以下の衆議によって、将軍の指令を返上することもあり、決定権が将軍か衆議か明白でない。

自民党の安倍総裁のリーダーシップは?民進党の蓮舫代表はマスコットではなく、リーダー足り得るのか?見るところ彼女が党を動かす実力者と思えない。小池都知事はいつ頃までリーダーシップを発揮できるのか?強いリーダーシップを発揮した橋下徹も頑張ってはいたが、集団主義という「見えざる規範」が、各人の行動原則と主張される現代社会である。

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かつての田中角栄ような、強力なリーダーが生まれ、育たない時代にどんどん移行している。会社というのは機能集団であるから、社長命令や専務の指令は下まで届くが、世の中でもっとも憐れな類は、学校長、大学の学長である。すべては職員会議、教授会に諮らねばならない。今後は相撲協会も将棋連盟も、強いリーダー不在の下で変質していくことになろう。

今の時代だからこそ、田中角栄の人気再燃、ブームが起こるのも分かる。大蔵官僚が支配した日本という国家を、小学校卒の土建屋のおっさんがブルトーザーに乗って大きく変えて行ったが、金権政治という手法が一人のジャーナリストに総理の座を引きずり降ろされた。「あのレポートが田中を倒したのではない、時代が彼を倒した」と、立花は謙虚に語っていた。

こんにち田中のような巨象は政界にいない。吠えるライオンもいなければ、カピバラのようなのっぺらい政治家が目立つ。巨象はともかく、ライオンを再び呼び起こさねばならない時節は、とっくに到来しているハズである。が、一時流行った物言う市民運動家が立ち上がり、草原の清掃に乗り出す時代が来る?それにしても、大麻ばばぁが立候補するようでは…


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