役者が簡単に様々な人間になれるよう、意識をすれば自分もできるのではないか?そういう命題を自らに課したことが有った。二度や三度ではないが、自分以外の自分をやるというのは実社会では無理だと分かった。脚本や台本のある映画や舞台ならさもあらんと思いきや、役者にいわせると役に徹するのは簡単ではないらしい。そういうものか?そういうものだろう。
役者自身がいうのだから納得せざるを得ない。役に徹するあまりの苦労話などは訊いたことがある。歌手であれ、歌(詞)の世界に埋没し、表現するのは大変のようだ。いしだあゆみが『ブルー・ライト・ヨコハマ』をヒットさせたのは知られるところだが、実はこの曲を当初いしだあゆみは好きでなかったらしい。今までの彼女を根本から変える曲であったからだ。
確かに聴く側にしてもそれまでのポップなアップテンポのいしだとはまるで様相が違っていた。いしだは、『ブルー・ライト・ヨコハマ』をこのように回想する。「『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、好きじゃないっていうか、この曲にいい思い出ないんですよ。だって、レコーディングに丸二日かかったんです。わたしが歌うのがいやで、怒られて、下手だといわれて…
ここがよくないとかじゃないんですよ。全部です。全部ダメっていわれたんです。わたし、マイクの部屋にこもって、ストを起こし、その部屋から動かなかったんですよ」。今だから笑い話だが、当時の苦しさは十分に伝わってくる。したくないことを他人から強要されるってのは、本当につらいことであろう。同曲の版権管理会社日音の及川光昭氏は言う。
「あれは橋本先生(作詞者の橋本淳)がいじめたんだよ。歌入れの前に歌詞のシーンが分かるようにと、いしだを横浜の街に連れて行ったらしいんだよね。にもかかわらず、『分かってな~い!違うだろう!』って。うわ、こわ~いと思って一緒にいて思いましたよ」。その後いしだは歌謡ショーで共演の加山雄三に凄く褒められたことで、やっとこ自信をもったという。
作詞家なかにし礼も、『ブルー・ライト・ヨコハマ』を世界で類をみない、日本の歌謡曲のベストワンと評価するくらいの名曲らしい。いしだも簡単に曲の世界に入ってはいけなかったと回想した。同じように演歌歌手の水前寺清子も『三百六十五歩のマーチ』という曲を与えられて苦労したらしい。が、結果的にどちらの曲も、ミリオンセラーの大ヒットとなった。
ことに水前寺は、演歌歌手としてヒット曲を連発したプライドから英語の、「ワンツー」という歌詞がある本曲に、「冗談じゃない。わざとイメージに合わない曲で私を辞めさせる気だ」と疑心暗鬼になったというが、作詞の星野哲郎は、「息の長い歌手でいるためには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない」との思いもあって、このような曲を書いたという。
漫画家の平田弘史も、雑誌の連載のため資料を渡され、仕事として向かう作品は気が乗らないとこぼしていた。月刊少年誌に連載するということは、そういうものだと、自分で描きたいものを選んで書くわけにはいかないものだと、腹をくくったという。こうして多くのアーチストや芸術家も、しばし商業主義の波にのまれて行く。そのことは良くも悪くもであろう。
楽しみながら、かつ自由さは素人の利得で、プロはプレッシャーに苛まれる。毎年ノーベル文学賞候補にあがる村上春樹は、「小説を書いているとき、『文章を書いている』というよりはむしろ『音楽を演奏している』というのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということかもしれません。
リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること」。なるほどである。自分も書き物をするときは、リズムが生まれ、そのリズムに合わせることが有る。そういう時は、書く内容はリズムが主体でリズムに合わせたりし、歌を歌うように書いている。音楽に限らず人間にとってはリズムというのは大切なものとされ、生活のリズムなどという。
こうした長いスパンのリズムについての把握はしかねるが、おそらくあるのかも知れない。彼が書いたものを読み返すかどうかわからないが、得てして作家は読み返さないという。直したいところが見つかって羞恥な気分になるというのも、自分と似ている。そういえば前出の平田弘史も、「描いた作品は二度と見ない」といっていた。理由はやはり嫌になるからと。
文体を変えたいと思ったことは何度もあるし、何度も意向をブログに書いたが、5000字書こうと長らくやって来て、その当時は段落を33~35段にであったものを、意を決して20段程度に削減したのは昨年の10月30日だった。記事の最後、「今回から幾分少なく、スッキリ書くことにした。書き足りないなら翌日、翌々日に書けばいいこと」。と記している。
年明けに、「文と欲望」なる表題で書いているが、過ぎし日の文を読むのも面白い。この日の考えは記録しておかぬと、消えてなくなるが、こうして記録をしているから懐かしい。中学になって小学生時代の日記や作文を読み返し、くだらんことよう書いてると思えるなら成長しているということだ。高校時分に中学時代の文を読んで笑えるなら、それも成長の跡。
人はスーパーマンじゃない。どんなに頑張ろうとできないことはあるが、一般的に、「できない」は、「したくない」場合が多い。ブログの文など、行間の余白をあける人がいる。見る側に素敵に見えるが、自分には真似ができない。「できない」は、「しない」といったが、「したくない」という気持ちの強い場合もある。大学ノートに切り詰めて書いた我々の世代の貧乏臭さであろう。
余白が生む詩情性は、美しくモ効果的であるが、やろうとしたことはない。自費で購入するノートでなく、タダで与えられる余白でさえも、勿体ないと感じるのだからどうにもならない。お金持老ちがお金を使うのが勿体ないからと、日々一汁一菜で生活すると同じことか。人は世代に蹂躙されている。善悪抜きに無意識に観念として内に蓄えられているようだ。
「いい」と思ったことを行為できない人がいる。それぞれが背負う観念というものがある。無意識に近い観念を捨てるのは大変だが、捨ててよきものと捨てないでよきものがある。他人から見てオカシイと思うこともその人の観念であり、指摘は善意とならないばかりか、余計なことであろう。宗教を信仰する人に対して、アレコレいっても余計なお世話であるように…。
その時代に生を受け、その時代の影響を受けることを、「その時代を生きた」という。その時代の、「その」とは、生の実在感を強く受けた時期のこと。それが青春時代であったりする。青春期の圧倒的バイタリティーは自分自身に気づいていなかったりする。地中深く眠る休火山のマグマにように、一触即発的であり、それが親子間の悲劇をもたらせる。
「ワイルドネス wildness 」という英語の語句は、日本語で「荒々しさ」、「野生」と訳される。親とはいえども、子どもの心情や動向を予測したりコントロールはできない。それがワイルドネス。親はワイルドネスを子どもの中に認めることは、子を持つ親に与えられた課題であろう。もちろん、自身の中にあるワイルドネスに留意し、自らがその対策を講じる必要がある。
「備えあれば…」の慣用句は、的を得ている。本能が退化、しかも壊れている人間には動物に存在する予知能力といえるものはない。ゆえに、「備え」という知恵を働かせる必要がある。結果に驚き、結果にうろたえるより、知恵で心の準備を怠らない。事あるごとに、「そんなことが起こるなど予想だにしなかった」と、いったところで罪の軽減にはならない。
自身の内面的成長というのは、背丈の成長ほどには分からなものだ。若き日を振りかえり、笑い話が多いほどに人にとっての成長の証である。笑い話が笑い話でないなら悲劇というしかない。だから死ぬのはダメだ。死んだことは後の笑い話すらにもならず、悲劇という意識すらもないが、実行したことが客観的な悲劇である。死人に主観も客観もないけれど…
死は人の未来を消すが、積み重ねてきた過去さのすべてを消滅させる。つたない10年前を笑い、30年前を笑えるのが生きてる証である。もしも自殺をした人が、「ちくしょー、何であの時自殺なんかしたんだろう。今となっては凄く後悔しかない」と思える、「今」さえもない。すべてが「無」、それが死だ。死んでいいことがあるのかないのか、死んでない者には分からない。
が、おそらく、「いいことはない」という想像力が死を阻む。過去も未来もすべて奪う死の、なんという勿体なさである。自殺の多くは抗議である。自分の経験でもそうだった。死ぬことで親は嘆き悲しむ、そういう抗議である。親を変えさせたいという、究極の選択である。子どもにとって、「悪の権化」というべき親は、子どもの心に重くのしかかる。
葛西りまさんも苦しい状況を変える唯一の方法が自殺であった。耐えるか死ぬかの選択しかなかったと察する。「孤独は人生の花」と安吾はいった。孤独はともかく孤立は辛い。人間を孤立させぬためには様々な方策があるが、その場の環境で異なり、あれこれ論じてみても外野に現場を把握できない。唯一の救いは親であり、親はすべてを投げ出す覚悟がいる。
りまさんの母親は、上記のようにいった。子どもを失った親の率直な気持ちであろう。「悔い」という言葉では言い表せない苦悩と後悔。他人の子がなぜ寄って集って我が子を苦しめるのかという怒り、これらやり場のない悲しみに襲われる。他者は何が面白くて我が子をいじめるのか?他人の親や子に対する憤りを、どう処理すればいい?悔しい現実であろう。
自分も悔しい。他人の子であっても…。りまさんの父親は、「いじめがなくなるように…」との願いを込めて、娘の氏名や姿を世に知らしめた。小1で強姦殺害された広島の木下あいりちゃんの父も、匿名報道という配慮に異を唱えた。親として、父として、理解に及ぶ。が、それでいじめや幼女強姦がなくなるとも思えない。りまさんやあいりちゃんに共感しなければ…
美しいものを美しいと感じ、悲しいことを悲しいと感じる。怒りや不正にも強く憤る、そうした感受性を子どもに育てるのは親でしかない。そのためには、「明日は我が身」、「情けは人の為ならず」という想像力が欠かせない。見ず知らずの他人の子が理不尽ないじめで死のうが関係ない。そうならそうでいいが、共感し、奮い立つ親多き社会を望みたい。
文の最後は今日も、「いじめ」になった。りまさんのこと、いつまで頭に滞っているのだろう。まあ、自分のブログだ、頭にあることを書けばいい。理不尽や腹立たしい経験は少なくなかった、世の中で…。許せないのはいじめである。人が人をいじめるという、悪辣さを我が子に想像するのはあり得ないし、許さない。どれほどの時間やエネルギーを費やしても止めさせる。