匿名(15/04/03 10:28)
息子が学校でいじめをして相手を不登校に追い込んだと学校から連絡がありました。学校へ行くと、校長・教頭・学年主任が揃っていていました。もう一人呼び出されていて、散々お説教されました。息子は先生達に叱られて、相手の子に謝罪をしました。翌日相手の家にも私ともう一人のママと一緒に謝罪に行きました。これで終わったと思っていたのですが、私と息子に関する悪い噂が広まっていると聞きました。
息子が学校でいじめをして相手を不登校に追い込んだと学校から連絡がありました。学校へ行くと、校長・教頭・学年主任が揃っていていました。もう一人呼び出されていて、散々お説教されました。息子は先生達に叱られて、相手の子に謝罪をしました。翌日相手の家にも私ともう一人のママと一緒に謝罪に行きました。これで終わったと思っていたのですが、私と息子に関する悪い噂が広まっていると聞きました。
息子は問題児。授業妨害にいじめを毎年繰り返している。校長室に呼び出されるのも1度や2度ではない。クラス替えで同じクラスになりなくない「NO.1」等々…。なぜこの噂の事を知っているかというと、近所の子がうちの前で遊んでいて夜勤明けの主人が「うるさい」とクレームをつけた所、近所のママから「自分達が受けた迷惑行為はこんなものではない」と逆切れされ色々言われたからです。
もう恥ずかしくて学校には行けません。懇談会も行きたくない。確かに校長から電話や手紙をもらって注意されたことは何度かあります。幼稚園の頃からやんちゃな子で何度も注意しても聞かないんです。周囲のママにも、『うちの子注意しても聞かなくて~』と注意しているアピールはしてきました。これ以上何をすべきなのでしょうか?」
という投稿である。いじめ加害者の生々しい親の声を耳目にするのは少ない。結婚し、子どもを産み、普通に育てて、それがある日、「オタクの子どもさんはいじめの加害者です。学校に来てください」と言われて親は従うだけ。別段いじめっ子になるよう育てたわけでなく、いじめられっ子を望んでいたわけでもない。ごく普通に育てていたら、いじめっ子ですといわれて驚く。
そういう親の心境であろう。今さら親が反省したところで、悔やんだところで、どうなるものでもない。「何度も注意しても聞かない」との自負心のある親にすれば、何をどう施していいかもわからない。ただただ、いじめた子に謝るしかないということのようだ。この親は、「恥ずかしくて学校に行きたくない」と追い詰められている。同じ親としての自分も、他人の親の言葉に驚くばかり。
今までいろいろ言ってきたが、何を言っても聞かない子どもである以上、今後の対策も浮かばない。こういう八方塞がり的な親って多いのだろうか?ならば、こういう親は今後もこういう親であり続けるしかない。子どもがどうなっても、何の対策も打ち出せぬ親でしかない。子どもを作り育てた親である以上、子どもの成長に対応していくべきだが、こういう親は傍観するしかない。
私見をいえば、こういう親にならないように、親には様々な、「親としての存在感」とでもいうのか、それを身につけることを、「親学」というなら、親がコントロールできない子どもを持たないために、身につけることは多い。子どもが周囲や人や社会に迷惑をかけぬよう、親は子をコントロールする時期はあるが、それができないとならば、親はもはや親ではない。
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子どもがいじめをする側の親です。 2007年2月5日 14:34
「ひとり親家庭で子ども(小3・男)を育てています。小学3年生になってから2回(A君への集団での言葉の暴力、B君へ軽い怪我を負わせる)、いじめの件で学校から連絡がありました。1回目は先方の親御さんには子どもを連れきちんと謝罪し、本人も謝りました。その後は学校での出来事などを極力聞くように意識をしてきたつもりでした。
「ひとり親家庭で子ども(小3・男)を育てています。小学3年生になってから2回(A君への集団での言葉の暴力、B君へ軽い怪我を負わせる)、いじめの件で学校から連絡がありました。1回目は先方の親御さんには子どもを連れきちんと謝罪し、本人も謝りました。その後は学校での出来事などを極力聞くように意識をしてきたつもりでした。
"いじめは絶対してはならい卑怯卑劣な行為"であることを折を見ては話をしてきました。ですが最近2回目の報告を受けたときは、もう何をどうしていいのかも分からなくなり、涙しか出ませんでした。本当にショックでした。逃げ出したい気持ちを抑え、気力を振り絞り、B君の家族の元へ謝罪のため伺いました。"いじめはいじめる側が100%悪い"と思います。
いじめにあったお子さんの親御さんの経験談はネットでも目にしますが、いじめっ子の親を経験された方のお話を目にすることがありません。自分の子どもとどう向き合い、どう乗り越えたかお話を聞かせていただける方がいらっしゃれば、と思い投稿してみました」。こういう親もいる。「いじめはよくない」と言い聞かせてきただけにショックは大きいようだ。
それで、「もう何をどうしていいのかも分からなくなり、涙しか出ませんでした」と苦しんでいる。この方は冒頭で母子家庭を公言している。世間はいろいろ、子どもについて相談や一緒に知恵を絞って考える夫もいれば、居ても居なくても一緒、そんな子どもに無関心な夫もいる。それでも父親という肩書であるが、こういう夫ならいない方がマシである。
母子家庭だから一人で悩むしかないこともないし、母子家庭が子育てにマイナスになることなど、母親の自覚一つでむしろプラスに変えられる。つまり、夫と子育てについての考えや価値観が異なり、喧嘩の原因にならないというメリットもあるわけだ。マイナスはプラスにできるし、プラスはマイナスにもなるということなら、母子家庭に利点はある。
「"いじめは絶対してはならい卑怯卑劣な行為"であることを折を見ては話をしてきた」と相談者はいうが、それが功を奏する場合もある。また、いじめに問題意識を抱いた親であっても、子どもがいじめっ子になるケースもある。問題は、そういう子どもはなぜそうなのか?を知ることではないか。「いじめは楽しい」と思う子と違って「いじめは悪」と認識しているなら…
こどもに聞いてみればいい。まだまだ、打つ手がないなどと言うことはオカシイ。「お母さんはいじめはダメ、卑怯な行為と言ってきたけど、なぜあなたはいじめをするの?お母さんのいう事が伝わらなかったの?それとも"悪"と分かっていても、人をいじめるのは楽しいからやっているの?そこが聞きたい。どっちか教えて欲しい」と、これが導入となる。
いじめの躾をしたからいじめがなくなると思いきや、そうはならなかった。それで愕然とするではなく、「なぜ」があって、それから次の対策を練るべきである。とにかく、こうした冷静かつ論理的な会話で、問題を解決していく機会を持つことだ。子どもの返事をちゃんと聞いて、いろいろ話し合うしかない。道徳を学んだから道徳的になるわけではない。
「あれ程言ってきたのに、何であなたは!」と怒るのも逆効果で、言われたことを守らなければならない義務は子どもにないのだから。言われたことに賛同し、親の考えに同化してこそ親の意が伝わったということ。何でもカンでも口で言ったことを子どもが守ると考える方がまともな親ではない。子どもとは、躾とはそんな簡単な、そんな便利なものじゃないよ。
親の財布からお金を抜き取る子どもがいる。コッソリ、分からないようにやるのは、その行為が悪いと知ってるわけだから、「何でそのような、悪いとしって泥棒みたいなことをするの?」と、こういう現象を捉えた言い方は何の意味もない。実際、泥棒は悪いと知ってて行為をするのだし、そこには泥棒の論理があると、そのことを親は理解すべきである。
要するに、親の財布から金を抜き取るのは、お金が欲しいからである。それが大前提で、なぜお金が、どういう理由で必要なのか、今の小遣いではなぜ不足なのか?そのことが行為に怒って叱るよりも大事である。叱る前に、何事も「なぜ」、「なぜ」で、子どもを理解する姿勢を持つ。叱って止めるなんざ、甘いと思った方がいい。親は手抜きで叱って事を収める。
こんなのは「手抜きの躾」である。レトルトや手抜き料理は不味いだろうし、手間暇かけなければいいものはできないように。上の相談に対し、「"いじめはいじめる側が100%悪いと思います"と、親の側で、こういう風に考えておられるケースは珍しいような気がしました」との回答があったが、先ずはこういう姿勢でなければ、いじめっ子問題解決の糸口はない。
ちなみに上の投稿は、葛西りまさんに名指しされたいじめっ子の親の発言を投じた人がいて、それに対して憤慨する言葉は多かった。「こんな母親が馬鹿みたいに子供ポンポン産んでまともな教育しないからこんな事件が起きたんだろうね。投稿主が言ってる様に、子は親を見て育つからほんとこんな馬鹿な女は、子供産まないでほしい。マジで胸糞悪い!
また、下の記事は葛西りまさんのいじめ自殺が全国に報じられた後、浪岡中学校を擁護する投稿である。自分たちの共同体を守ろうという動きは分からなくはないが、そこには死に行く者を嘲笑する空気が充満しているからだ。いわゆる村の論理であり、「場」の空気というのはこういうものであり、自己規定もできないで鎧を着る人の存在は驚くものではない。
自己を正義の基準で規定する人間と、善悪を利害で規定する人間の受容と排除には天地の差がある。青森県の浪岡という田舎町が、はからずも少女のいじめ自殺という形で全国的に有名になろうと、浪岡中の現状がどうであろうとも、自分たちの町の、自分たちの子どもが通学する学校について、とやかく言われたくない、ガタガタいうなという発想である。
したがって、自殺した葛西りまさんも、その両親さえも、平穏な町を荒らす加害者という認識である。自分たちは自分たちなのだという局地的存在にあっては、そこで起こる特別な事象は、例外的存在なのだといわんばかりの人たちである。局地に例外などあってはならず、りまさんの自殺は身勝手な行為と責める。彼女の死を悼み、事の是非を思考する発想はない。
加害者もいない以上被害者もいない。りまさんは彼女の都合で勝手に死んだだけなのだと。それが村落共同体の論理である。日本社会に民族紛争はないが、仮にあったとしても一切は悪となる。民族紛争も民族戦争経験もない日本人の、日本人的普遍主義からすれば、あり得べかざることが起こっているに過ぎない。つまり、単色とは多色を認めないことである。