2月18日午後9時すぎ、相模原市南区の団地の一室で、この部屋に住むパート従業員の母親(47歳)と15歳で中学3年生の長男が首を吊って死んでいるのを帰宅した父親が見つけ、警察に通報した。父親によると、「長男は前日の高校受験がうまくいかず悩んでいた」という。 警察は、長男が自殺を図り、その後、母親も自殺を図った可能性があるとみて調べている。
高校受験に失敗して自殺?母親も後追い自殺?何というバカげた…と思うが、当事者たちには深刻だったのだろうが、高校受験に失敗で死ぬほどのことか?死ぬほどのことだったのだろう、そうしか言いようがない。母親もだ。息子が死んだから母親の人生は終わるのか?終えたのだから、この母親にはそうだったのだろう。夫なんか屁みたいな存在だ。
高校受験に失敗して自殺?母親も後追い自殺?何というバカげた…と思うが、当事者たちには深刻だったのだろうが、高校受験に失敗で死ぬほどのことか?死ぬほどのことだったのだろう、そうしか言いようがない。母親もだ。息子が死んだから母親の人生は終わるのか?終えたのだから、この母親にはそうだったのだろう。夫なんか屁みたいな存在だ。
息子の首を切って、追い詰められて飛び降り自殺する母親に比べると、やさしい心を持った母であろうが、果たしてやさしいだけでいいのか?子は育つのか?などと思ってしまう。たかだか高校受験に失敗して自殺するような息子が、母親のやさしさが原因とは言い切れないけれども、父親には相談したのか?適切なアドバイスや励ましの言葉を与えたのか?
与えるだろう、普通…。人の一生が高校受験失敗で終わるほどのモノではないくらい、誰にでもわかることだ。息子は分からなかったし、親は分からせられなかったというふうにしか言いようがない。現に自殺をしたのだから。この際、母親の後追い自殺のことはいい。「息子命」であったと思えば、そういう母親は存在するし、女の情緒を責めても仕方がない。
結果的に高校受験失敗で死ぬような子だった。そうならない子にするのが親の力、そうするしかなかった。というのも、死んでしまった後の結果論といえばそうだ。が、後手を引く教育を教育とはいわず、そんなのは対策である。受験失敗くらいで死ぬなど誰も予測もし得ない。が、それが現実である。「結果にコミットする」というCMがある。コミットとは、コミッション、コミッショナーの名詞形。
・委託、委任
・言質、約束、公約
・義務
・関わりあい
などの意味があり、ライザップは、約束・公約という意味合いだろう。親は子が生まれた以降、関わる存在だが、親は子の結果にコミットすべきか否か、これは難しい。息子を殺して自殺した母親も、息子の自殺に同化して自殺した母親も、いずれも息子にコミットし過ぎた結果である。思春期の子どもが、望んだとおりに育たなかったことの絶望感であろう。
子どもが自分の思い通りに育たなかったことくらいで絶望するような親でいいはずがない。「わかる!母親の気持ちがよくわかる!」と、賛同というか、理解する母親もいるんだろうが、他人の事とはいえダメじゃないのか?親がそんなでは…。親がそんなでは、というのは親自身だけの意味ではないし、そういう親はは必ずも子どもによくない影響を与えている。
世の荒波に向かって力強く生きる姿勢を見せるべきであろう。標語のような言い方だが、「弱く」て困ることはあっても、「強く」で困ることは何もない。ただし、人が弱くなるのは簡単だが、強くなるのは難しい。性格だけではない。勝敗を争うあらゆるスポーツやゲームなどにおいても、強くなるために努力し研鑽するが、それでも強くなれない場合もある。
人間は弱い生き物だ。精神も弱い、肉体も弱い。厳しい環境にさらされて生きる動物の強さに圧倒される。だから強くなるために「鍛錬」をする。先の記事で、いじめっ子は親にも問題があると書いたが、いじめられっ子も、問題のある親に育てられたのではないか。いじめ自殺をした子の親が、「学校はまるで家庭に問題ありという言い方をする」と怒っていた。
問題はあると自分は考える。いじめっ子、いじめられっ子の親にどういう問題がある?結果には必ず理由があり、何事も原因なくして結果はないという考えにいる。「結果にコミット」するとのうたい文句のCMで成長した企業があるが、科学的なカリキュラムを打ち出し、指示通り行えば必ず結果にコミットできるというが、デブには明らかに原因があるからだ。
人も植物も良い環境で育てば良くはなるだろう。三人の息子を東大に入れたとはしゃぐ母親がいたが、是非はともかくとして、間違いないライザップ効果であろう。まったく楽器を弾けなくても指示どおり行えば弾けるように人をいじめるような子に育てないカリキュラムはあったと考えるし、いじめられる子に育ったカリキュラムもあったということだ。
同様にいじめられないように育つカリキュラムもある。弱い者いじめをする人間は心の弱い子である。強さというのは、権威や権力に立ち向かうものであろうし、どちらの子どもも、それなりの家庭環境はあったと考える。親がすべて環境がすべてでないにしろ、大きな要因である。いじめっ子の親、いじめられっ子の親は科学的に見ても傷ついた親である。
親や家庭環境の影響を否定するものは何もない。特に母親の子どもへの影響はあり過ぎるくらいにある。赤ん坊は、感覚器でできあがる胎児期の終わりから、授乳期の一歳くらいまでは、母親の無意識から、実は大きな影響を受けているのだ。胎児は文字どおり母親と一体で、抱っこされての授乳も、排泄処理という赤ん坊にとっての快感も母親がする。
父親がする家庭もあるが母親がいい。こうした人間教育の基本的要素が胎児期、授乳期などの母親との接触において確立される。井深大氏の名著『0歳からの母親作戦』の副題は、「子どもの人柄・能力は、母親にしかつくれない」とある。始めての子を持った時、これを読んで目から鱗が剥がれ落ち、ここにあることはむしろ父親でなければできないと悟った。
確かに生まれてからでは遅すぎる面は多いが、これは父親の範疇でないし、せめて妊娠中が妻にストレスを与える言い合いや喧嘩は慎むことくらい。ソニー創業者である井深氏が、物づくりの原点を子ども作りに見立てたのはよくわかる。そういうした熱心さが、「一歳までに母親が子どもにどう接したかで、その子の人格形成の核は決まるとわかったようだ。
「母原病」という言葉を生み出した元愛知医科大教授で、精神科医の久徳重盛氏も、多くの著書で子と母親の関連性を述べている。氏は、「人間という生物は、もともと、正しい育児が分からない"変な生物"という特徴を持つという前提で、子育てを行わねばならない」とあり、「母原病」は、育児に間違いを犯す典型的症例(実際は病気ではないが)とした。
上記の母子心中2例は母原病ではないだろうか。男には考えられない。昨日の「NEWS23」では、自室で首を吊って自殺した15歳の少女について母親がいろいろ語っていた。少女にはピアノの才能があり、ビデオで実際の演奏を聴いたショパンのエチュードは、半端ない腕前だった。自宅のピアノの黒鍵はすり減っているのを見て、膨大な練習の量が伺えた。
少女は昨年11月、家族との夕食を終えて自室に戻り、首を吊って自ら命を絶った。部屋に残された日記にはいじめへの苦しみが綴られ、母親は青天の霹靂だったという。両親は学校側にいじめ調査を求めるも、学校側はいじめの事実は把握できなかったと報告。両親は同級生から、娘が「死ね」、「うざい」、「臭いからくさや」などと言われていたことを知った。
母親は思い当たる節があったという。娘は臭いに敏感で、部屋用のフレグランスまで吹きかけて登校していたことを述べた。体臭が強く、「くさや」とあだ名されたのは、おそらく腋臭(わきが)ではと推察した。自分が高校時代、そう言われていた女子がいた。なりたくてなった病気ではないが、本人はどういう気持ちで、どういう防護をしていたか、まで気は回らなかった。
学校は3年生全員の面談の結果、「いじめは把握できなかった」としたが、いじめは隠匿すべきもの、またいじめの認識は加害者にないのが一般的。学校から家庭での悩みを聞かれ、この両親は自殺の原因が家庭にあったと言いたいのかと不信感を募らせたという。娘の自殺の原因を学校にあるとし、自殺の原因を知りたいのは分からなくもないが、娘は帰らない。
子どもが自殺した原因を知るのは残った遺族の慰めである。そこにやり場を求めなければ親はあまりに苦しい。自殺は苦しみの末に選んだ死という選択だが、死に行くものの悲哀はあれど、残されたものの苦しみは計り知れない。死に至った原因を知ったところで子どもは還らない。死なない子どもをどう作るか、死んだ後にではなく、生きてるときに考えることかと。
葛西りまさんは、ホームの上で何度も後ろを振り向いては泣いていたという。これから死ぬという決意と、この世にお別れする悲しさとで、心が揺れていたのだろう。これが列車に飛び込む直前の、防犯カメラに映っていたりまさんの最後の姿である。お気に入りの洋服と靴を履いていた。「綺麗な死に方すらできないけど」の言葉を残した彼女は、綺麗に飾って逝った…