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親子は「老」と「若」

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人間が胎児出産するようになった理由はさまざまあるが、二足歩行によって産道が狭まったこと、頭脳の発達に伴い頭が大きく進化したことなどがあげられる。これらから未成熟の胎児のまま出産することで母体を保護する。また、何も出来ないうちに産んで、親がその子の世話をすることで愛情の度合いを深めていくという要素も考えられる。
 
それくらいに新生児~乳児期の人間は一人で生きていけない。これを保護という。そうして老齢期を迎えた人間が様々な原因で、同じように一人で生きていくのが難しくなる。これを介護という。保護と介護の違いの意味は乳児と老齢者を比較すれば分かると思うが、同じ老齢者に対する「要介護」と「要支援」の意味が違うことを理解しておく必要がある。
 
介護保険を利用して介護サービスを受けるためには、役所から「要介護認定」を受ける必要がある。介護が必要な方をその状況に合わせて5段階に分類したものが「要介護認定」であり、それに対して、介護は必要ないが、日常生活に不便をきたしている人を「要支援」と分類している。この二つは混同されることも多いが、「要介護認定」にはいくつかの種類がある。
 
「要支援」又は「要介護」の認定を受けると、介護保険を利用することができる。したがって、「要支援」と「要介護」の違いは定義だけではないし、実際に受けることができる介護サービスの内容や費用も異なる。「要支援」とは「現在、介護の必要はないが、将来的に要介護状態になる可能性があるので、今のうちから支援をしよう」という状態である。
 
年齢とともに人間の身体機能は衰えるが、適切な対策を行うことで身体機能の維持を図ることができる。これを「介護予防」といい、要支援認定を受けた方は介護予防の支援を受けることができ、介護予防サービスを受けることで、身体機能の高齢化を緩やかにすることを目指す。「要介護」とは、「現在、介護サービスが必要である」という状態をいう。
 
介護施設で快適に生活するには、要介護認定を受ける必要がある。自宅での生活が困難である場合に、これらの施設に入居して介護サービスを受けることができる。また、自宅での生活を続ける場合には、居宅介護サービスを受けることも可能である。少子化に加えて平均寿命の延びが、高齢化社会に突き進むことを示し、福祉行政の体制と充実が急務となっている。
 
老人介護がどれだけ大変かは、経験してみなければ分らない。新生児のケアと高齢者のケアとどちらが大変かと問うなら、老人ケアには絶望感を感じてしまうほどの開きがあろう。介護疲れが社会問題になっても、育児疲れほどではない。確かに育児ノイローゼなる言葉もあるが、新生児ケアと高齢者ケアの根本的な違いは、そのゴールにあるといっていい。
 
赤ちゃんケアの先にあるものは成長であり、親の希望である。が、老人ケアの先にあるものは率直にいうなら「死」でしかない。未来と棺桶の差が歴然とあることで、言葉は悪いが「どうせ死ぬのだから」という気持ちが人間の心の片隅に存在する。いい悪いをいってみても、厳然たる事実の前に負担を強いられるが、赤ちゃんと比較してみて負担度が違うということ。
 
未来へ進んで行こうとする赤ちゃんへのケアと、老化を少しでも食い止めることである高齢者のケアとでは目標自体が違っている。それが介助側の感じ方に差を生むのは仕方のないこと。老人のワガママや振る舞いに腹を立てる事はあるだろうが、新生児の欲求・要求はワガママでもなんでもない。そういう違いも歴然とある。相手は大人、一方では乳児である。
 
老齢の親を誰が見るか、兄弟にとっては切実な問題であった。「親をたらいまわしにする」などの言葉も生まれた。確かに年取った親は厄介者であったし、言葉に出す出さないに関わらずである。そういった高齢者介護を家庭から解放するというのも行政に与えられた使命である。「この世は順送り、親の面倒を子が見るのは当たり前」という時代は合理的ではない。
 
老齢者介護の合理的な考えは、子どもよりもむしろ老齢者側、つまり親の側が強く持つべきではないだろうか。「老いたら子どもと縁切り宣言」、そういう自覚が親に必要だ。子どもの負担になっていると思わない親は、自分から見ると思慮なき親ではないかと。思慮深い親なら、子どもの生活を最優先して考えるはずだ。それがない、それをしない親は傲慢である。
 
「自分の事は自分で」という考えを所有する親は、ボケる前にそういう行動をとるだろうし、子どもに無理・ワガママをいわないように思う。なぜそう思うかといえば、それが最も理性的で明晰な思考と思うからだ。親自ら率先しての子どもと縁切りは、子どもに「一害なき百利」であろう。そういう洞察、思いやりを親が持つことを奨励したい。
 
その事は我が身に降りかかってくるわけだから、理念として尊重されるべきであろう。有り体に「親の子離れ」というが、これが出来ない親は多い。子への依存を親の権利と錯覚するのは傲慢以外のなにものでない。「親にここまで育ててもらって感謝している」などと、成人式の決まり言葉などいわなくともよい。親は義務を果たしたに過ぎない。
 
手柄でもなければ礼を言われる筋合いもないが、感謝をするなら心でしておけばよい。子どもが親に好かれたいと思う気持ち、親が子どもに嫌われたくない気持ち、そんなものを意識しないで自然にふるまうことが大切だ。確かに人は人から好かれたい気持ちは正直な気持ちだろうが、だからといって自分を偽ったり、無理する必要があるのだろうか?自分はそうは思わない。
 
人が会う人すべてを好きになれるわけはないのだし、嫌いな人間も必ずいる。ということは相手も同じである。然したる理由がなくとも「好きになれない人」が出てくるのが普通の感覚である。しかし、その気持ちをあからさまに相手に出したり見せたりするのはよくないが、無理して好きになる必要はない。大事な事は人付き合いで「八方美人」にならないことだ。
 
実はその方がはるかに人間的魅力であり、よい関係を構築できる。八方美人的な人間は概して心の通った良好な関係と言えない。互いが差し障りのない言葉を交わすだけの、差し障りのない関係でしかない。互いがそう思っているならいいが、それが良き友などと思われることもあるのだろう。誰とでも友だちになろうとする人間は、結局は誰の友でもない。
 
無理して人に嫌われる必要はないが、「好かれていないな」と思う人間がいることを素直に認め、それが誇りに思えるくらいに人間は自他に正直であるべきだ。ある人が、数年前に比べて変わったなと思わせる言葉を見た。人に嫌われたくないが顕著な八方美人女性であったが、そんな彼女が数年前には絶対に吐かないであろう言葉に驚いた。
 
  今年の私は変わったなと思う。
  一言でいえば、わがままになったかなと。
  人を傷つけることが平気になったような気がします。
  自分の気持ちを優先し、友人たちを切り捨てることも。
  無理は所詮無理なんだと。
  ラクになりました。
 
この記述である。これを読んで、「彼女も人間的成熟をしたな」と感じた。特に、"わがままになった"というくだりは言葉の適切さというより言葉の旨みで、自分はむしろ"わがままが治った"と理解した。当人はわがままになったといい、自分はわがままが治ったと解したのだが、敵を作らず誰からも好かれたいという「良心志向」は、自身のわがままであろう。
 
人受け、人当たりのいい行為を醸すという点においてわがままである。"人を傷つけることが平気になった"というのも、人を傷つけない配慮という意識過剰の反動が言葉になった。こういう人は「No!」というだけで相手を傷つけたと思うのだろう。「No!」が言えない理由はいろいろで、自分が言われるのが嫌だから人にも言わないという反動形成的側面もある。
 
「ラク」になったのは成長だ。人に嫌われるを怖れなくなると生きることが楽になる。「やさしさ」という生き方にあこがれ、やさしさを身につける努力より、表面的やさしさを醸すのを欺瞞という。自己欺瞞な人は根本性格が身についてない付け焼刃だが、人から人間性を褒められようものなら自己欺瞞を増幅させるが、チラホラ正体が見えるとウンザリとなる。
 
曽野綾子に『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』なる著書があるが、これは『善人は、なぜまわりから好かれないのか』にしたいところを、アタリがきついから柔らかい文言にしたと推察した。他人にやさしくするのはいいことだが、やさしい言葉を売り込むのはどうだろう。善人とは善的な言葉をいう人ではなく、善行を自らの都合(事由)でする人のこと。
 
人間関係の多くは偽善と欺瞞であるが、差し障りない程度の関係ならそれもよし。望む人はそういう相手を望む。さもなくば善人として自身の存在感が淡いものとなる。自らの善意を売り込む人は相手のためというより、善人と思われたい自らのためにそうする。だからそういう相手を離さない。人間は「やさしさ」の押し売りを止めると偽善と決別することができる。
 
うっとうしい偽善の人間関係。レディーファーストの国アメリカの男は女性にやさしいというが、アメリカ人の本質を知る者はそうは思わない。アメリカの男性のやさしさは、あくまで外面的、物理的なものである。精神的には日本の男よりはるかにわがままで自分勝手なのだ。こういう正しい見方もなされぬまま、日本の男はその真似をしている。だから同居するとボロがでる。
 
女のやさしさも、実は男を捉まえるだけのものが多く、それに気づかないのがバカな男だ。女はもともと「やさしくしてもらいたい」生き物であり、男が女にやさしさを求めること自体、ない物ねだりといっていい。かくも男と女は見せかけのやさしさを競い合っているのであって、そんなくだらない、そんな虚しい競い合いに終止符を打つ年代もあるということだ。
 
が、そんな中にもやさしい女がいるのは紛れもない事実。何を持って女のやさしさというのか?と聞かれれば自分の答えはただ一つ。「誠実である」ということ。言い換えると嘘をつかない女。誠実なんて言葉は大人になっても少年の心を絶やさない男に当てはまる言葉かも知れぬが、「誠実な女」というのは、当てはまるならそういう女は誠実である。少ないけれど存在する。
 
女の嘘は、幼少時期から女の世界で培われた本能の延長のようなものだ。だから、責めることはできない、しないというスタンスをとっている。しかし、若い頃はそれが分らず、そこまで達観できず、女の嘘に振り回されるのが一般的な男だろう。異性であることが魅力的である段階時期に、男が女に振り回されない方がどうかしている。が、それは若いときと言った。
 
が、正しくいえば女慣れしていない男なら、50になっても60になっても女に心を奪われる。男は女に心を奪われなくなって、女を人間としてシビアに見ることが可能であろう。それくらいに女という存在は男にとって魔力である。色仕掛けの誘惑にはまるようでは男の卑しさ丸出しといえる。同じように中高年男が18歳以下の少女のパンツに興味があるの心が若い。
 
12日に16歳少女に猥褻行為をした容疑で逮捕された神戸新聞社阪神総局長(57歳)は、その肩書きを皆は驚くが、どんな肩書きであれ、それが抑制に寄与しなければ正直肩書きの意味はない。肩書きは出世社会の栄光である反面、抑制としての意味を持つ。本当に自由に生きたい、自由に生きようとする人間は『イントゥ・ザ・ワイルド』でなければならない。
 
アリストテレスは「人間は社会的な生き物である」といったが、「社会」とは複数の人間によって作られる集団であり、その人たちによって作りだされる規範のことをいう。つまり、人間は自然と社会を形成し、生活していく動物であり、社会を外れて生きて行く事は難しい。それは古代の人間の知恵であり、人間の存続の意義であり、歴史であろう。
 
社会を敵に回して自然の中で生きていたいという挑戦は構わないが、「社会を甘く見るなよ」という言葉もあるように、「自然を甘く見るなよ」であった。それは人間が社会的動物であるが故に重くのしかかる。アメリカの若者のバイブルとまで言われている『イントゥ・ザ・ワイルド』に見るべき場面もあったが、TOTALにおいてそれほど評価できない作品だった。
 
挑戦は尊いが、素人はアイガー北壁を登れない。エベレストにも登れない。自然の驚異を知る事こそ自然に立ち向かう者の義務である。自然の驚異に脆弱な人間は、自然に畏敬の念を抱くことでしか自然に立ち向かえない。それがこの作品の主人公を評価し得ぬ点であった。人が良いというから良いのではなく、懸念を納得させられてこそ「良い」である。
 
挑戦するのは誰でもできる。いや、できないから凄いのだという考えもあるが、少しばかりの勇気を評価する人間には組することはできない。サラリーマンを辞めて自営業をやる者は多いが、始めること以上に至難なのはやり続けること。それと同じ事は周囲に散在する。どれほどの事をやったら「凄い」といわれる?ではなく、バカと無謀と凄いは紙一重であろう。
 
『イントゥ・ザ・ワイルド』を一緒に観た人間が、「彼は親不孝だな」と言った。親不孝の意味は自分で考えた。親が所有する栄誉や富裕という価値観に子どもが染まらぬどころか、反旗を翻して絶縁のための家出をした事をいったのだろう。子は親を選んで生まれないという理屈に照らせば、富裕に生まれた親は得意満面、貧困に生まれた子に詫びねばならぬのか?
 
美人を生んだ親は得意満面、ブサイクを生んだ親は子どもにすまない?と言う事になる。富裕に生まれればそれなりに、貧困に生まれればそれなりに、子どもが踏襲しなければいけない理由はない。現に、貧困家庭から多くのセレブが誕生している。だから富裕を否定して親不孝と言えない。あの映画の根本的命題は、主人公の勇気や意思の評価ではない。
 
富裕にあぐらをかき、子の心親知らずを猛省すべき作品である。主人公を親不孝とするなら、「君のいう"親孝行"って何だ?」と問うてみたい。自分は実親にすべき親孝行が何かを知らぬまま、分らぬまま育った。そして今、自分が親になっても子が親にすべき親孝行が何かを知らない。考えることすらない。それでいいと思っている。無いものは要求しないでいれる。
 
 

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