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「生きてることが辛いなら」

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森山直太朗の作曲になる詞は、彼の友人であり詩人の御徒町凧(おかちまちかいと)によるもの。楽曲は2008年8月27日にリリースされたが、詞は御徒町凧が20歳前後の1997年頃に作られたというが、一体何に触発されて書いたのだろうか?1997年6月に酒鬼薔薇聖斗事件があったが、この詞に関連する何かを探るに、5月に可愛かずみという女優が飛び降り自殺をした。
 
キュートで愛らしい顔立ちに豊満なボディが人気の女優である。芸能界に興味はなく、美容師を望んでいた彼女が高校在学中にスカウトを受けてモデルクラブに登録。日活の宣伝用ポスターの仕事が舞い込み引き受けるた。可愛は脱がないといけない仕事だと知らず、「話が違う」と一度は断るが、日活の担当者が怒られているのを見て同情し、その仕事引き受ける。
 
それがきっかけで18歳のとき、日活ロマンポルノ『セーラー服色情飼育』に出演、芸能界入りした。ポルノ映画出演はこれ一本だけだったが、デビュー作であったこともあり、世間から『ポルノ女優』とレッテルを貼られた。可愛本人は『ポルノ女優』と呼ばれることを嫌がっていたという。翌1983年には脱ぐ仕事をしたくないとの理由で、所属事務所を変わっている。
 
彼女の自殺の原因は岡田有希子と同様に恋の悩みであったとされるが、岡田と違って可愛は交際相手だったヤクルトスワローズ川崎憲次郎が居住する目黒区駒場のマンション7階から飛び降り自殺をした。1997年5月7日、享年32歳であった。死の翌日10日に都内の自動車販売会社を経営する実業家と正式に婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが後に分かった。
 
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そんな可愛だが、死の直後に遺書は残されていないということだったが、遺書というより父宛の走り書きメモを残しており、17年後の2014年4月に父親によって明かされた。内容は親友の川上麻衣子に対し、「麻衣ちゃんがいてくれたお陰で楽しかった」、「麻衣ちゃんと話しているだけでいつも元気になるの」、「パパ麻衣ちゃんをよろしくね」と書かれていた。
 
可愛と川上はドラマの共演で出会う、二人はマンションの隣の部屋に住んでいたこともあったが、精神的に追い詰められはじめた可愛をそばで支え続けた川上だったが、次第に病状が悪化していく可愛を支えきれなくなった川上はマンションを出る。マンションを出て1年、少しずつ彼女のことを忘れかけていたある日、可愛が自殺を図ったとニュースで知った。
 
実は自殺の前日、可愛から電話があったと言う。しかし舞台稽古で遅くなった川上は疲れていたため彼女の留守電を気に留めることなく返事を後回しにしてしまったのだ。そしてこの電話の翌日に可愛は自殺した。可愛の自殺と御徒町凧の「生きてることが辛いなら」の詞に関連があるという証拠はないが、御徒町凧が可愛のファンであった可能性は否定できない。
 
イメージ 3自分はそう関連付けてみた。婚約発表の日取りの1日前の、幸せ真っ只中と思われる時期の自殺であり、元交際相手のプロ野球選手の居住マンションから飛び降りたとなれば、様々な噂や憶測が飛び交うのも無理もない。川崎憲次郎との破局の原因は、怪我で戦線を離脱した川崎の「怪我の治療に専念したい」という想いからといわれているが、川崎とて自殺後は沈黙するしかない。
 
岡田有希子の18歳に比べて、可愛の32歳は思慮分別ある年齢といえるが、恋愛の魔力に思慮も分別もない。いずれも命を賭けた恋であったというしかない。「男などいくらでもできるわい」などと思えばいいのだろうし、二人とも男日照りするとは思えない恵まれた容姿容貌である。失恋ごときで死に急ぐのは、一途に思いつめる真面目な性格ということか。なんとも勿体ないことよ…
 
「生きてることが辛いなら」という詞について、"自殺容認の歌詞"では?との指摘が問題になった。"生きていることが辛いなら、嫌になるまで生きるがいい…"の個所についても、「文章が矛盾している。それらしいことを言ってるが無責任」であるとか、"他者に干渉しすぎてしつこい"とか、"死んでしまえば野となれ山となれの表現"がどうとかこうとか…。
 
物議を醸した詞である。底の浅い人間が行間を読みきれていないままに、自身を棚にあげてイチャモンをいう。それが物議の背景であるけれど、当人は自分が理解に及ばないなど夢にも思っていない。だから、"生きるのが辛いならさっさと死んでまえ~"、というふうに詞を読んでしまう。読解力も洞察力もない人間は、「小さく死ね」の比喩が分らない。
 
物事には大きい小さい(大小)が存在する。小休憩もあれば大休憩もあり、小人もいれば大人もいるし、小便もあれば大便もある。だから、「小さな死」くらい想像したらいい。一読しただけで何ら非の打ち所がないいい詩である。"生きていることが辛いなら嫌になるまで生きるがいい"の文章が矛盾とはいかにも若い。"開き直って生きろ"と言っている。
 
作者は「生きることの意味など求めなくていい。生ききることが大事なのだ」と言っている。それがサビの部分の、「何もないとこから、何もないとこへと、何もなかったかのように、巡る生命だから」に歌われている。歴史は壮大というが、所詮は公園にある小さなブランコだ。宇宙は広大というけれど、同じく公園にある水飲み場程度の存在と考える事もできる。
 
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これが人間の想像力の偉大さである。つまり、歴史を公園のブランコに、宇宙を同じく水飲み場にもできてしまう。これを偉大といわず何と言おう。悩み < 宇宙 < 想像力という世界観を持とうといっている。「重箱の隅をほじくる」とは、小さいなこと、細かなことを取り上げてアレコレいうとの意味だが、歴史も宇宙も小さいんだ、小さいことに捉われるなと。
 
この歌を口語体に直せばこうなる。「生きてることが辛いなら、遠慮せんでいいから1回休め。その程度のことで周りがどうとか気にせんでいい。人には人の生活がある。生きてることが辛いなら、見栄をはらず、素直に泣いたらいい。赤ん坊にも泣き疲れがあるように、お前も天使の寝顔になる。生きてることが辛いなら、悲しみを眺めて糧にすることだ。
 
悲しみはむしろ生の糧になるし、悲しみを摘み取って苦しみにしないように、糧は大事にした方がいい。「人間はどこから来たのか」、「どこへ行こうとするのか」、「人間はどう進歩していくのか」の答えは永遠のもの。求めずとも巡るものだ。生きてることが辛いなら、どれくらい生きることが嫌になるかを知るのも一興だ。そうこうしてやがて死を迎えるとき…
 
「やっぱり生きてよかったぜ」という喜びがあるんだよ。生きてることが辛いの、答えはそこにある。と、解釈してみたが、今日の解釈は明日は変わる。半年後、一年後にはまた変わるだろう。答えは流動的だから、今日、死のうと思った奴は止めとけ。明日には変わるかも、半年後、一年後には、「死ぬなんて冗談じゃない」となるかも。生きてなければそれを味わえない。
 
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というように、「生きてることが辛いなら」の歌詞は自殺を肯定していると感じるなどとんでもない。言いたい事は最後のフレーズ、「くたばるときが喜びなのだ。とっておけよ。」で締めている。自殺が唯一の行動でありながら、人がなぜ自殺をしないで生きているのか。生きたいから生きてるのではなく、死ねないから生きているのも立派な人間の「生」である。
 
大江健三郎は自著『われらの時代』の主人公南靖男にこう語らせている。「おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている。そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために飛び込む勇気を奮い起こすことができない。そこでおれたちは生きていく、愛したり憎んだり性交したり政治運動をしたり、同性愛にふけったり、名誉を得たりする。
 
そしてふと覚醒しては、自殺の機会が眼の前にあり決断すれば充分なのだと気づく。しかしたいていは自殺する勇気を奮い起こせない、そこで偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ。これがおれたちの時代だ」。靖男は、北極を超え、コペンハーゲンを超え、パリへ脱出していく可能性を得る。この脱出は頼子との別れであり、頼子を捨てること。
 
男が自らの生の実在感を手にいれるためには女を捨てる必要のある事を知る。女を捨てることのできない男など、所詮は何もできないと言い聞かせながらも、靖男は行動できなかった。太田博美の『木綿のハンカチーフ』、財津和夫の『青春の影』、『心の旅』も、女を置き去る男のロマンが歌われている。女の涙を背中に感じなから発って行く男たち。
 
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あこがれを描いたもの、現実を描いたもの、いずれに共通すものは、幸福という視点だけでは捉えきれない若者の心情だ。『二十歳の原点』の高野悦子の死の4ヵ月前、「私には生きようとする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない」と記している。
 
2ヵ月前には、「何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。」そして、死の前日、長い文だが気になる個所のみ。このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。
 
私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおせれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(中略) 雨が強く降りだした。どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい。二時三十分、深夜。
 
高野が死ななければならなかった動機は誰にも分らない。高名な心理学者が1000人、寄って集ってアレコレ議論しても分らない。大事なことは彼女がなぜ死んだかではなく、死ぬまでどう生きて来たかだ。何度も何度も彼女の日記を読むたびに、この女と付き合ってみたかったと思わされる。さすれば日記で読む彼女の苦悩の三分の一でも共有できたかも。
 
イメージ 7共感というより共有。「共感」とは、見つめ合い、手を取り合ったり、抱き合ったりと向き合ったり。「良かったね!」、「面白かったね!」、「悲しいね!」、「腹立つね!」などの感情を互いが呼び起こされ、言葉にし合ったりすること。言葉にせずとも、共に笑いあったり、喜び合ったり、涙したり、共感することで人間関係は深まっていくのだろう。「共有」とは単に頭で理解すること。女の悩みに男が心から共鳴し、共感できるとも思えないが、理性的に思考して解決を模索したいということ。共に感じあってそれで満足という事もあろうが、自己満足ではなく解決の思考を持ちたい。もちろん、日記に共感するものは多いが、共感できない部分も多い。共感できずとも共有して思考する立場に居たいと思ったわけだ。
 
共感できなければ相性が悪い、価値観が合わないではなく、相手の苦悩を共有し、思考する。女は感情的に合う、合わないを判定するが共感できなくとも親密になる事は可能である。だいたい、人と人は合わないと言う事が前提にあれば、くだらないことで鬩ぎ合い、言い合いをすることもない。合わないから合わせるでなく、合わなくても接点を模索する。
 
いかなる人間関係において、すべての人と合うなどあり得るだろうか?だったら、合わない部分に目くじらを立てずとも、合う点を模索すればいい。ちょっとしたことが合わなくて相手を避けようとする人間は真に心の狭き人。相手がわるいのではなく、自分が子どもなのだ。自分の問題を他人に転嫁してギャーギャー喚いてるのが多い。こういう人間は何かにつけて不満多き人だ。
 
何でもないことを責められて、「…でオレが悪いわけ?」と呆れる事も多い。こんなことを言われた、と責める奴がいて、そんなことで傷つくのか?と思うが、思ってはいけないのだろう。以前はそう思っていた。「冗談じゃないで、その程度のことで傷ついただなんて、被害意識丸出しだろが、ナイーブすぎないか?」と思ったりだが、これも自己肯定であり、強者の論理である。
 
自己肯定して相手を責めてみた所で、相手のキャパが増すわけでも、強くなれるわけでもない。それなら自分が相手のところまで下げて、言葉を配慮しながら話せばいい。自分は自分というのは、実は傲慢であるのが分る年齢があるということだな。こういう柔軟性を余裕と言うのだろうが、だからと言って相手にも「視野が狭い」、「偏執的だよ」くらいはそれとなく言う。
 
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言って分かるとは思えないが、客観的な指摘も大事である。相手をただあやすだけならある種相手を見下げていることにもなり兼ねないし、対等を目指すならこちらからの発信も必要になる。あとは、優しい言い方を心掛けること。いかにも相手を見下し、バカにした言い方は、本心は対等を望むというより上目線を望んでいると思われる。真に対等を望むなら言葉に表れよう。
 
そういう配慮が足りなかった時期は、相手を見下げているバカにしているなどと受け取られたようだ。そういう気はなくとも、言葉に配慮がないなら誤解は仕方がない。相手が何を誤解しようがそんなの知ったことかという以前の体質が改められた気がする。誤解させるのは自分の足りなさ、至らなさと思うようになった。「真」を相手に伝えられない自分の未熟さである。
 
何事も、他人のせいでなく自分の責任と考えることで、いろいろ工夫が身につき、配慮の大事さを知る。他人への配慮が無理なく苦痛なくできるようになれたら、人は人として一人前だろう。それをひっくるめて「優しさ」というのではないか。人を表面的に捉えて「優しい」などの言葉を簡単に使うけれども、なかなか身につけることが難しい大変なことかも知れない。
 
「優しい」とは、真に相手の身になり、立場に自分を置いて考え、行動できる人を言う。巷いわれる「優しい」の多くは嘘の優しさであり、女性が男にいう優しさも実は本質でないものを感じる。自分の経験で言うなら、「優しい」をあえて言わない女性の方が真実ではないかと。つまり、「優しい」は口に出して伝えるものではなく、心で感じるものだから。
 
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真実を言葉にすることで嘘になる事は多く、心で秘かに感じてこそ「真」ではないか。なのにどうして人は言葉を求めるのだろうか?真実を言葉でいうのは簡単だが、「ボクは君を好きだ」だけでは満足しない女に、つい誇張したお世辞などをいってしまう。人間関係を発展させるための世辞の類が悪いと思わないが、言葉は暖かい心から発せられるべきだ。
 
「冷え切った心で暖かい言葉を送られるくらい、その言葉を受け取る人にとって気持ちの悪いことはない」。これは有島武郎の言葉だが、絶対にそうとも言い切れない部分もある。なぜなら、歯の浮くような言葉であっても、言われた側は喜んだりするわけだ。「嘘から出た真実」という事もあるし、それはそれでいい。が、アダルトエイジは言葉に責任を持つ世代である。
 
 

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