人の諍いの仲裁をする場合に大事なことは、どちらにも肩入れしない、「善意の第三者」であることが要求される。夫婦に離婚話が持ち上がったときに、娘の親が夫憎しで物をいえば夫はたまらない。夫は男として自分の親を出させないようはからうならなおさらだ。娘可愛さか、妻の親がしゃしゃり出て一方的に娘を庇い、夫を非難ケースを見たことがある。
以下はあまりに娘の父親が介入した離婚事例である。離婚が決まり、届も出し終えたが、家財道具の争奪で民事調停を起こした父親。娘は調停を反対したが、自分の気持ちが収まらない父親の独断行為に娘は怒り、父との仲をたがえて海外に行ってしまった。嫁ぎ先相手を貶し、調停で勝利したと自慢する親をバカな人だと思いながら、娘に同情を寄せた。
離婚で娘が傷ついていることを察することもできず、相手憎しの怒りにかまけた行為は、さらに娘を傷つけることとなった。嫁入り道具の争奪など、今さら娘にとってどれほどくだらないことか、怒り心頭の父親が気づくこともない。女性にとって、せいせいする離婚もあれば、傷つく離婚もある。が、離婚は自立した人間だけが持つ輝きであることを心に刻むべきである。
親や周囲が出てきて混ぜ繰り返して、それが本人のためにならないことが多い。娘可愛さのあまり、相手憎さがつのるのはわかるが、子離れできない親の典型であろう。我が子がいじめにあって、それが原因で自殺をした場合、親はいじめ相手を憎むだろう。管理者たり学校を憎むだろう。保護者としてのいじめ相手の親を憎むであろう。が、親自身の責任は?
いじめ自殺の責任を取れと学校や相手の親に損害賠償を起こすのは、報復手段としてこれ以外にないからだが、裁判所は親の責任をどのように勘案するのだろうか?裁判を起こすのは権利として自由であるが、客観的な親の責任も断罪されるべきである。「自分は子どもを抜かりなく、一生懸命に育てた。なのになぜ死んでしまったのか?」と思うだろう。
が、「一生懸命」と、「正しく」は残念ながら整合性はない。人は自身を客観的に見れないがゆえに、「一生懸命」という言葉を使いたがる。あるアスリートは、「結果の伴わない"一生懸命"とか、"努力したとか"は、言うべきでない」と言ったが、それには同感である。結果のあとにこういうことをいうのは、所詮は慰め言葉であり、高い向上心を抱く者は絶対にいわない。
最近耳にしなくなったが、かつて、「駆け込み寺」という言葉があった。正しくは、「縁切寺」(えんきりでら)というが、女性の側からの離婚が困難であった江戸時代、夫との離縁を達成するために妻が駆け込んだ寺のこと。寺は夫に内済離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合、妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立する。
弱者である女性にとって、どうにもならない救済措置であって、近年は、「駆け込み寺」の意味は広範囲に使われる。自殺を食い止める、「命の電話」もそうで、いじめ被害の当事者が、教師や親に相談するのも広義の駆け込み寺である。が、それを「ちくる」と批判するのは、許しがたき悪の論法である。「お前が解決しろよ!」。それにこしたことはない。
が、社会がそれで収まるなら弁護士も警察も不要である。自らで解決できないことは決して問題ではなく、悪人にとっては迷惑な話に過ぎないだけだ。いじめる側に、「理」はないが、どこに持っていこうが、誰に相談しようが、自らに「理」ありと自信があればどうということはない。「あの野郎、ちくりやがって」と言葉に出すのは、「悪」の可能性が高い行為である。
「駆け込み寺」は絶対に必要で、「ちくり」と非難すべきものではない。行動するのが本人である以上、本人が考える解決策がいいに決まってるが、そういうことができないから困るし、苦しむわけだし、そういう人のために何とか良い解決方法を識者であれ、そこいらのおっさんであれ、おばさんであれ、考えたり、発信したりが、何かに寄与するかもしれない。
これだけ社会問題になっているいじめなら、様々な解決方法を誰かが提起しているはずだろうし、一体どのようなことが述べられているのか?それが本当に現実的に可能であるのか?心の弱い子どもに啓示を与えるものなのか?気になったので検索してみた。検索ワードは、「いじめにあったら」である。最初に目を引いたのが、元いじめられっ子の提言だ。
「元いじめられっ子が教える、いじめに遭う子供を救える真の大人象」という見出しだが、「いじめられっ子」よりも、「いじめっ子」がいじめの回避方法を知るのでは?と考えたが、それに該当する記事はなかった。いじめられっ子だった元ボクシング世界チャンピオンの内藤大助の言葉は耳にしたことはあるが…。では、元いじめられっ子の言葉を聞いてみる。
「一見すると、周りには助けてくれそうな大人はたくさんいますが、イジメを受けていると告白して大丈夫そうな大人は非常に少ないんです。本当に少ない。よく、気軽に相談なんていう言葉がありますが、いじめ問題は気軽に相談できる内容でもなく、相談者を選ぶ必要があります。そこらの大人が、真剣に助けてくれる感じがするように見えないのです。
救いを求めたところで、解決どころか問題が悪化するかもしれない。イジメっ子の報復に遭うかもしれない。真剣に取り合ってくれないかもしれない。話を聞いても貰えないかもしれない。気のせいでは?と言われたり、心配されるだけで終わるかもしれない。これらの理由から、余程の信頼がなければいじめを受けている子どもから直接相談は少ないでしょう。
親には心配をかけたくないこともあって、もっと相談の機会は減ります。では、どういった大人が適格な相談者であるかを、イジメを受けた当事者の考えでいえば、「イジメられた事が無い」、「イジメられた過去があっても体験を語らない」、「イジメに限らず嫌な思いを人からされたという経験がない」。これらに該当する人は除外すべきと思います。
救いを求めたところで、解決どころか問題が悪化するかもしれない。イジメっ子の報復に遭うかもしれない。真剣に取り合ってくれないかもしれない。話を聞いても貰えないかもしれない。気のせいでは?と言われたり、心配されるだけで終わるかもしれない。これらの理由から、余程の信頼がなければいじめを受けている子どもから直接相談は少ないでしょう。
親には心配をかけたくないこともあって、もっと相談の機会は減ります。では、どういった大人が適格な相談者であるかを、イジメを受けた当事者の考えでいえば、「イジメられた事が無い」、「イジメられた過去があっても体験を語らない」、「イジメに限らず嫌な思いを人からされたという経験がない」。これらに該当する人は除外すべきと思います。
どんな問題にも言える事ですが、相談するなら同じ境遇を体験した人に勝るものはありません」という結論である。抜粋、削除、文章の編集をしているが、「海のことは漁師に聞け」ということのようだ。「蛇の道は蛇」、「餅は餅屋」も同義である。以前、同和教育の聴講で、「結局、差別は差別を受けた者にしか分からないんですね」と言った言葉に腹が立った。
「そんな言い方ってないのでは?だったらなんで我々をここに集めてるんです?そういう事をいうなら、我々はここにいる意味がないし、帰りますよ。そういう言葉は思っていても言ってはダメでしょう?」とマジ切れし、被差別部落出身者の言葉に、逆差別意識を抱いた。上のいじめ被害者の言葉もしかりである。自分はいじめを受けた経験はないが、いじめを行った事がある。
上記いじめ被験者の言葉は、いささか情緒的に感じられる。いじめを受けた者に相談したいのは分かるし、それを否定はしないが、「どうすべきか」という問題をいじめ被験者が解決できるのか?そうは思わない。共感し、同情しあうならそれもいいが、情緒では解決しないだろう。まあ、自分は親からいじめ以上の苦しみを味わったから、弱者の気持ちはよく分かる。
いじめをした時にも、いじめた相手の子の、あの時の顔は今でも心に残っている。いじめがあれほど自分の心を突き刺すものとは、思いもしなかった。今でも申し訳なかったと思っている。つまり、いじめを悪と感じる感受性の問題である。他人を苦しみに突き落とし、それが楽しいなど、子どもを育てた親の問題である。自分は別の問題で父と詫びに行った。
投げた石が頭に当たって大けがをした同級生の宅である。相手の父親から罵倒され、床に額を擦り付けて詫びる父を見ながら、どうして無関係の父がこんな目に合わねばならぬのか?二度と父のこんな姿は見たくないと痛切に感じた。そういう自分の思いや態度を見切ったのか、父はそのことを前も後も、一切口に出さなかった。自分を叱らなかった。
親というのは、細かいことは注意すべきである。なぜならその善悪良否を子どもが分からないから、キチンと教えるのがいい。が、とてつもなく大きな失敗は、あえて言わずとも子ども自身が感じ、反省もしている。それをくどくどいうから、子どもは(そんなこと言われなくても分かってる!)と反発する。言う場合と言わない方がよい場合の吟味は親がすべきである。
上記の事象はいじめというより喧嘩であるが、心を傷つけるいじめというのは、やはり本人の感受性と、赤信号を集団で渡れば悪とならない、そんな付和雷同主義に埋没しない考えを持つことではないか、自分の経験でそう考える。だから、人をいじめて楽しむというのを分かり易くいえば、「バカの道楽」としか言いようがない。して、バカな親がバカを作る。