りまさんが13年の短い命を閉じて、今日でちょうど60日となる。「人の噂も75日」というように、命を賭して訴えたいじめであったが、りまさんのいた中学校でも忘れ去られようとしているのだろうか?われわれは現場のことはわからないが、りまさんの日常に関わっていた教師や生徒、手踊りの指導者や保護者たちが、彼女の死をどれほどに受け止めたかもわからない。想像するしかない。
「教育とは何か?」を追い続けた林竹二がこんな言葉を残している。「学問というのは、カタルシスであり、吟味を必要とする」。子どもが変わるのは、吟味し真の否定が行なわれた時である。学べることは無限にある。その中で何を学ぶか?それが「吟味」である。吟味とは、何かを教えることではなく、問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業である。
学ぶことは、生きものが自身を更新し、生きようとする力に動機づけられている。りまさんの死を悼み、多くの人がそれを契機に新しい何かに向けて再生を始めなければならない。「真の否定が行われる」という言葉、その視点が重要であろう。「いじめ」について真の否定が行われるために教師も保護者も汗をかかねばならない。「学んだことの唯一の証しは、なにかが変わること」だ。
物事がそんなに簡単に変えられないのは分かる。人の意識なんか急激に変えられるものではない。「いじめ」が良くないことをどうしたら分からせられるか?あれこれ考えてみたが、一人や二人の人間なら相手の性格をよく理解し、そこにぐいぐいと入り込めばいいと思うが、教師一人に30人の性格も育ちも環境も違う子どもに、能書き垂れて現実的に何を変えることができる?
一人、二人ならば…、というならやはり親である。「いっとくけどな、人をいじめるような卑怯者は大嫌いだし、絶対に許さんからその気でいろよ」と熱く、強く、オヤジが取り組む。勉強重視もいい、そういう青白い勉強向きの子どもなら…。元気が良くてエネルギーが充満した子どもには、生活や思考の乱れを気にすべきである。親ならそれくらい分かろう?我が子が勉強向きか否か。
もっと簡単な方法は、幼少時期から、「人をいじめて喜ぶ奴はバカだ、アホだ、マヌケだ、クソだ、クズだ!そんな人間いる価値ナシ!」と、事あるごとに家庭で唱和する。それくらいに真剣でいて何も悪いことはない。「いじめはオモシロイ」、「人の不幸は蜜の味」そういう人間の根源的本能を助長しないように、親が率先したらいいよ。親自身がそうあるべきなのは言うまでもない。
自分は人をいじめる奴はクソ野郎だと思う。が、正直いうと女は分からない。女の世界で生きたことがないから、男に感じるものとはずいぶん違う。女がいじめの好きになる理由は、家庭教育というより資質かなと、分からないから多少偏見も入っている。それくらいにおんなの世界で耳にすることは、男では理解できない。口でいって分かるとも正直思っていない。できたら母親に委ねたい。
残念だが、分からないものにアレコレ言う自信がないのだ。以下はクラスの生徒らが書き綴った葛西りまさんへのいじめの報告であるが、何でそんなことができるのか?どうしてこういう事をしたいのか?思いつくのか?悪く言えばゲスの極みというのか、こういう時には理性的に見て、女がとてつもなくバカに見えてしまう。バカの発想が常人に分かるはずがなかろう。
◎いじめリーダー C・K (葛西りまさんに自殺を決意させた張本人)
・りまさんを自殺に追い込んだいじめグループのリーダー格。女子バスケ部の部長を務める女子生徒ですが、一番初めに葛西りまさんをいじめると宣言し、「お前を見ると目が腐る」など口汚く罵ってりなさんに自殺を決意させる暴言を放った張本人です。姉が一人いるそうですが、そちらも他の人間をいじめている根っからのいじめっ子なんだそう。
◎いじめ副リーダー S・A
・同じくいじめグループの副リーダー的存在。女子陸上部部長を務めていますが性悪な生徒だとしてグループ以外の人間には嫌われており、母親からもネグレクト気味なのだそう。LINEなどで嫌がらせを受ける葛西りまさんを見て大喜びしていました。
・同じくいじめグループの副リーダー的存在。女子陸上部部長を務めていますが性悪な生徒だとしてグループ以外の人間には嫌われており、母親からもネグレクト気味なのだそう。LINEなどで嫌がらせを受ける葛西りまさんを見て大喜びしていました。
◎M・U(テレビで再現されたいじめの実行犯)
・C・Kと同じくバスケ部所属。りまさんの机を蹴り上げたり、LINEで積極的に「オカメ、見捨てられて当然、目が腐る、嫌なら早く死ね」と罵るなどテレビで再現されたいじめは彼女の仕業だそう。このLINEをM・Uは、C・Kと、S・Aに見せ、こんな事を書いてやったと大いに自慢していたとか。画像の一番右(C・K 以外の3人のどれかだと推察されています。
◎暴行犯 R・Y(ネット以外の直接攻撃が多数)
・りまさんと同じバレー部所属。りまさんを1年生の頃からいじめており、トイレ内の暴行などネットでの攻撃以外の直接攻撃をダントツに多く行っていたそう。普段から人の悪口ばかりであり、S・Aと同じくグループの人間以外からは嫌われていたんだとか。
◎R・Yと共にいじめ H・Y (父親は陸上自衛隊幹部)
・りまさんと同じバレー部所属。校内ではR・Yの腰巾着と言われており、共に暴力行為を行っていた。H・Y の父親は陸上自衛隊の幹部であり、いじめ自殺の説明会の際、この父親は自分の娘の実名が加害者として書かれている事も知らずに、「遺書の内容を公開しろ!」と強く主張していた。正義感が強そうな父親であるだけに娘の所業を知った時の衝撃は計り知れないものだったろう。
・りまさんと同じバレー部所属。校内ではR・Yの腰巾着と言われており、共に暴力行為を行っていた。H・Y の父親は陸上自衛隊の幹部であり、いじめ自殺の説明会の際、この父親は自分の娘の実名が加害者として書かれている事も知らずに、「遺書の内容を公開しろ!」と強く主張していた。正義感が強そうな父親であるだけに娘の所業を知った時の衝撃は計り知れないものだったろう。
◎嘘の噂を流した M・Y (自殺後爆笑)
・女子バレー部の部長。自分の元彼が葛西りまさんと付き合い始めたのが気に食わず、『葛西りまは浮気者・ビッチ』などLINEに嘘の噂を流し始めた張本人なんだとか。りまさんが自殺した後も友人たちと、「あんなんで死ぬんだ~」と大笑いをしながら死者を罵り続けていたそうです。
◎親友なのにいじめに参加 R・N(自殺後は無関係をアピール)
・陸上部所属の女子生徒。元々りまさんとは幼馴染で親友だったそうですが、相談に乗るフリをしていじめに参加していたんだそうです。りまさんが自殺後は無関係アピールをし自己保身に走ったそうですが、外から見ていた生徒にはバレバレで名前と顔写真をリークされました。右はC・K。
・陸上部所属の女子生徒。元々りまさんとは幼馴染で親友だったそうですが、相談に乗るフリをしていじめに参加していたんだそうです。りまさんが自殺後は無関係アピールをし自己保身に走ったそうですが、外から見ていた生徒にはバレバレで名前と顔写真をリークされました。右はC・K。
経験のないこと、情報のみに頼ることは、「おそらく…」という前提で言うしかないが、自殺で死んだ子の親は、子どもに裏切られたという気持ちを持つのだろうか?「何で親に相談してくれなかったのか」、「何も告げずに死んでしまったのか」という思いに苛まれるはずだ。それは親にとって悔いであるが、子どもへの思いが強い親であればあるほど、「裏切られた」感を抱く。
彼氏に尽くしたのに裏切られた、彼女に尽くしたのに裏切られた。そういう思いに人間が至るのは、尽くしてると思うこと自体が、実は独善的な自己満足感であったりするからだ。「尽くす」は実は、「依存」であったり、あるいは、「利用」であったりだが、自分の中にはそれはなく、「尽くす」となる。自分の、「思う」は正しい認識とは限らない。単に、「思う」だけだったりする。
自分は誰が好きで、誰が嫌いか、こんなことは良く分かっている。と、思うだろうが、実際はこれすらも難しい問題である。多くの悩みを抱えている人にとっては、実はそれさえも正しく理解し得ていない。好きだと思っている相手を、実際は嫌悪していたりするが、そうであるのに、好きだと思い込もうとする。嫌いな相手をなぜそうするか、そこには「依存」という問題が絡むからだ。
依存の対象が好意の相手とは限らないし、だから屈折した心理が生まれる。亭主をボロカスにいう専業主婦が、夫を愛してると思い込もうとするのも、他に変わりがいないからということもあり、愛していない、好意も抱いてない相手に依存する自分は何なのだという心理もあれば、自分はそれほどまでの悪女ではない、といった様々な自己正当化や事情に人には反映されている。
つまり、自分の気持ちと直面するのが怖い、もしくは嫌だという屈折した心理が人には働いている。自分が感じているように感じる人は心の強い人だが、心の弱い人には難しい。だから自分を偽ったりする。心の強い人は、そんな必要がまったくない。したがって、正直に生きる人はバカか強い心の持ち主かどちらかである。バカが強いのはそういうことだと考えると理解にいたる。
心の強い人はある面、他人からみたらバカに思えたりする。これは自分ができないことをやってのける人を認めたくない心理。正直のあまり他人を傷つけたという失敗は多く、いろいろ分かってくると正直も使い分けるようになる。正直を善とするなら、人は経年でズルくなって行くべきかも知れない。なぜなら、人を傷つけてまで正直であるのがいいのか、ということになるからだ。
自分はかつて、「自分が正直で人が勝手に傷つくのは仕方ない」と思っていた。正直でいる方が自分にとっては楽だったこともあるが、嘘をついてまで相手に好かれたいというのがなかった。むしろ、「正直な自分を評価してくれ」る人を望んでいたフシがある。しかし、経年で得たことは、正直でいるよりも、「黙る」方がいいということ。「沈黙は金」の意味を理解したようだ。
「沈黙は金」という慣用句を、どう理解したかといえば、「黙る」度合を広げたこと。つまらぬ主張をするより、相手を立てて自分は押し黙る。然したる問題でない場合に反論を持ち出さない。いちいち自分と違う意見に絡んでいても、どちらにも得にならないし、どうしても譲れないという若さゆえのバカさがなくなったし、押し黙ることも正直であることに変わりない。