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りまさんをいじめたバカども

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東京で開催された手踊りコンクール会場の舞台袖には、出場しなかった葛西りまさんの扇子や傘、衣装が飾られていたという。「娘は手踊りが好きで、仲間と幸せな時間を過ごしてきた。写真のような笑顔が本来の表情です。かわいそうなだけの子どもではない」と父親。さらに、「いじめをなくしたいという訴えの力になると信じている」と、写真と氏名を公表した理由を語った。

父親は、「いじめた生徒は大変なことをしたということを深く反省してほしい」と、学校側にいじめの有無を調査要請している。りまさんは、「もう、二度といじめたりしないでください」。と書き残しているが、いじめられた辛さを他の人たちに味わせたくないのか、自らの命を犠牲にしていじめ抑止を願い出ているような文言がある。いつも思う不思議なことがある。

いじめを受けて自殺をする子は、いじめた奴らの名を挙げても、恨みつらみの気持ちがいじめっ子らに向けられてるのを見たことがない。なぜ言葉で仇を討とうとしないのか?以下は一例だが、「このままで済むと思うなよ。お前らの人生を粉々にしてやる。背後からじっと見ている。寝床にも毎日現れてやる。安眠できると思うな、最後は呪い殺してやる」くらい書いたっていい。

これくらい書けば、どんなバカでも恐怖感を抱くのではないだろうか?自殺して、「ざま~見ろ」とせせら笑うバカどもには、効き目のある罰を与えないかぎりいじめを止めないだろう。怖い目に遭遇してみてやっと何かを理解したという人間を見ても、それはそれで効果があったということだが、自殺する子は復讐のために死ぬのではないようだ。いろいろ思考し考えもまとまってきた。

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いじめ自殺者は、「これでもう苦しみから解放される」という至福感を先取りして頭に描くのではないか?つまり、それくらいに苦しいということだ。別の心理としては、やはり自分が死ぬことによっていじめっ子のハナを明かしてやりたい、おそらく少しは悔いいるのではないか?そういう気持ちを抱くかも知れない。どちらも自殺者の独善的な論理であるが、解決策として選ばれる。

悲しく、辛く、苦しいとき、人はどうするのだろう。どうすべきだろう。10代の時の自分の苦しみは母から受けたもので、いじめの苦しみとは違う。りまさんは中学入学後にいじめを受け、ストレス性起立障害で登校できないとき、「なにズル休みしてんだよ」と言われる。それがまたいやで、呼び戻されるように学校に行けば、ズル休みと罵られる。前にも進めず後にも引けない無間地獄状態だ。

いじめには加害者が存在するが、担任教師の他人事感覚が被害者の希望を奪う。今回のように当該者の人数が多く、クラスを超えて部活にまたがったりすると、教師間同士の確認や話し合いも必要だ。いじめは社会でもまれた経験のないお利口教師が引き受けられる問題ではなく、いじめをきちんと解決に向けられる教師は、教育カリキュラムという学問よりも原体験がものをいうだろ。

人間関係の込み入った問題における問題解決能力を教師が持っているハズがない。学問能力が長けていても、一流大学をでていても、屁のツッパリにもなるまい。クラスにいじめがある、誰かがいじめを受けて苦しんでいる、そうした想像力を発揮し、子どもの苦しみを解決し、害悪を及ぼす人間の更生に取り組むのが教育であって、そんなことを自負する教師がどこにいるかである。

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いじめにあうのは、本人の資質に問題ありと放置する。そこに手を入れようとしないなら、そういう性格の子はなすすべがない。いじめを受けても死なない子がいるように、いじめ自殺する子には、育ってくる過程のなかで、深く傷ついた何かがあるのかもしれない。強く逞しい親に育てられるのがいいに決まっているが、傷ついた親に育てられた子どもは死を選びやすい。

なぜか?死への傾きを暗黙に親から授かるのではないか?逞しい親は逞しい子どもの性格に寄与するが、病的で脆弱な親は病的な子をつくり出す可能性はある。性格の弱さが歯向かう勇気を与えない子どもは、いじめに対抗できず、耐えるか死ぬしかないのだろうか?逃げる(転校)という方策をもっと前向きに考えるべきと思うが、本人の都合で転校できない理由があったりするようだ。 

いじめが問題なのは、いじめに刑事罰は科せられず、よっていじめは刑事犯罪とならない。いじめによる自殺は間接的な他殺と言われるが、自殺をさせるためにいじめてるわけでもないし、だから厄介なのだ。当事者が自殺後の調査するとなるが、「いじめはあった」で収束する。こんな当たり前のことを、発表しようがすまいが、形式的な準拠以外のなにものでない。

男子による傷害を含むいじめは、暴力事件として扱われるが、心に傷を負わせる陰湿ないじめを罰しようがない。よって、そんなカスな人間にならぬよう細心の注意をして取り組む教育的課題だ。親が身を乗り出し、強い口調で、「いじめなんか絶対にゆるさん!人をいじめる卑怯者は家からたたき出す!」など、そういう親の日々態度が、人をいじめる不健康な子どもを作らない。

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真綿でじわじわ首を絞めるような陰湿な女子のいじめは、被害者に傷一つ与えない言葉の暴力であろう。いっそ死んだほうがマシと思うほどの酷い苦痛を受けてるのに、親も教師も誰も何もできないのは、相談しても解決できないと子どもが知っているからだ。ましてや、「ちくりのりま」、「ちくるしかできないバカりま」などと、助けを閉ざされる言葉をかけられたりする。

全ての扉は遮断され、それがいじめを継続するために都合がよい。確かにいじめは究極的には自分自身の問題だから、自分が八方塞がり状態からどう光明を見出すかを考えなければならない。考えられる子もいれば、考えられない子もいる。後者のタイプにどういうサポートを用意すべきかは親が考えること。親は保護者であり、その名の通り子どもを保護の役目を負う。

「いい子になりなさい」、「勉強しなさい」というだけでそのようになる子もいるが、それは特段問題のない子で、友達などの弊害で悪の道に入り、いじめの共謀に加担するような子どもでないか、親は時々チェックを入れるべき。常時監視はできないが、チェックは可能である。これらは危機感と周到さを持つ親なら可能だが、のんべんだらりの親は、子どもに何が起こっているか気づかない。

保護の要件とは状況の把握であり、そのために情報を取り、チェックする。親は子どもにとっての心理学者であるべきだし、自分のような問題意識を持った親ばかりではない。「自分のような」は自負というより当たり前のことで、特別な資質ではない。ある目的を達成する場合に、状況の把握は当然のこと。そのために必要なチェック、大切な洞察、子どもの把握こそが親の務め。

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子どもの苦しみを親に相談しやすいような、環境を上手く作ること。悲しみ、辛さ、苦しみを、親に相談できない子どもは間違っているという認識を親は持つこと。世間のいう、「ちくり」は、卑怯者が卑怯行為を継続するための言葉で、そんなことを気にし、怖れたら社会悪と対峙できない。悪の論理に順応するのは悪に利用され潰される。こうした親の価値観を常時子どもに発信することも必要かと。

ある日突然、子どもは強くならない。100日言い続けてやっと踏み出す子もいれば、300日かかる子もいる。とにかく、社会悪に対抗する心を育てるのも親の力量かと。自殺する子の親は傷ついた親かも知れない。ならば、子どもの自殺はそういう親の代理死かも知れない。言い過ぎかもしれぬが、「子は親を映す鏡」という論理になぞらえば、そういう想像は当然に沸く。

子どもを完全孤立状態にした親は責められるべきで、責められるはいうまでもない自分という愚か者に対してである。自殺を遂げた子の親は、そういう気持ちに苛まれるであろう。子は親の宿命であり、親は子にとって宿命である。だから親の責任は大きい。子どもが浮かぬ顔をしているとき、根ほり葉ほり聞くのではなく、心を同化し、子どもの目線に立とうと努める。

うるさく聞かれてもわずらわしく、学校のことは親に関係ないと思うだろうし、だから親は、「お前の日常はいいことも悪いことも親に関係ある。順番でいえば一番だ…」。そういう態度で子どもに接するなら、「親は自分のことなんか考えてない」と、子どもにそっぽを向かれることはないかも知れない。「かも?」、「では?」が多いが、物事は分からないから熱心になれる。

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いじめ自殺した親が、学校を責め、県や市の教委を責め、市や県に損害賠償訴訟を起こしたりするが、自分からみると責任をどこに持っていこうとしているのか?何をしたところでそれぞれの親の自由だが、子どもが死んだ後の真相究明に意味などない。「自分の息子(娘)はなぜ死んだか、真相を知りたい」というが、身近な子どもの口から真相を聞けなかった不甲斐ない親である。

真相を知る子どもと寝食をするのが親であろう。その親が無視されるのは、子どもに頼られていないからで、だから、そういう親の子どもが自殺をするのでは?教育の問題の核心は親と子の問題である。先生や学校や教委や市長や知事や文科相の問題ではない。文科大臣が、「命を大切に」といったところで、我が子にとって何の意味がある?そういう気概が親に欲しい。

イメージ 7「自分の命は自分で守る」。「親は子の命を守る」。人間ならずとも当たり前の生命原則だ。そりゃ~世の中、完璧な教育をする親などいない。だから子どもにも正直にそれを言えばいい。子どもを愛し、正しく導き、苦労はともに共有し、喜びは分かち合う。子どものことを知らずしてできないことだ。「言うんじゃなかった」、「親に言って失敗だった」、これだけは親は避けるべきと。

子どもにそう言おう。真正面から向き合えてこそ親子。親を不在にして苦しむなど、子どもに無能な親と見切りをつけられたも同然という危機感を持つ。そういう親でありたくなかろう?子どもを傷つけずに育てられたか、という問いは常に親に課せられる。でなければ、自分と母のように断絶となる。親が他界しても子どもは育つが、親がいても子は育つ。無力な親は子にとって無用なのだ。


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