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いじめ好きの馬鹿

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かるたが懐かしい。お正月には家族や親せきが集い、和やかにかるたをしたが、それも晦日に、「紅白歌合戦」を見るのが恒例だった時代の遺物である。昨今はもう「かるたってなに?」という子どもも増えている、そんな時代かもしれない。羽根つきも、凧揚げも、コマ回しもお正月の風物詩ではなくなった。「時代は変わる」のだからそのことはいいとして。

絶滅寸前のこれらの遊びはかるたも同じである。子どものころ、かるたの語句は自然と覚えた。いろはかるたには、「江戸かるた」、「上方かるた」、「尾張かるた」があり、「いろは」の最初の、「い」の語句もそれぞれがちがった。自分がやったのは、「江戸かるた」である。「ちりも積もれば山となる」の意味を親に問い、その言葉を好きになったのを覚えている。

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「江戸かるた」の最初の語句は、「犬も歩けば棒に当たる」であり、犬もあるけば棒に当たるのか?と、言葉どおりに受け取り、言葉の持つ真の意味を知らないでいた。「犬も歩けば棒に当たる」の原義は、「犬がふらふら出歩くと、棒で殴られるような災難に遭ったりする。じっとしていれば良い。余計な行動を起こすべきでない」という戒めとなっている。

また、これは俗用として、「行動を起こすことで、幸運なことでも、災難なことでも、何らかの経験をすることができる。じっとしていると、そのようなことはできないので、積極的に行動すべきである」。という教訓になる。どちらがいいというより好みであろう。こういう好みが、その人の人生観となり、親となったときに、子どもに対する教育観となるのではないか。

人生観は大事、親としての教育観も大事である。そんなことを考えながら、かるたの用語は現実に自分の人生観に寄与し、そんな言葉がいくつもあることに気づいた。かるたはゲームである。しりとりもゲームである。家族がほんのり楽しむゲームであるが、実はその裏には隠された教育的効果が潜んでいる。かるたやしりとりは、子どもに語句を覚えさせるものでもある。

 さらにいうなら、好奇心の強い子なら、言葉の意味を知ろうとする。自分で考えるにしろ、親に聞くにしろ、即ち、「花より団子」という語句にしても、自分の記憶でいっても、子どもにとって不思議な言葉であった。小学校の中~高学年になると語句の不思議さはどんどん増す。子どもの疑問は親の学習に寄与する。親に資格はいらないが、実は資格がいると思う。

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親は子どもと共に成長するというが、まさにその通り。「お父さん、『花より団子』ってどういうこと?」と聞かれたらしめたものだが、「『論より証拠』って聞かれたらこまっちゃう?」、そんな親は多い。難しいことは答えられないが、子どもは親がゴマカスのをちゃ~んとみている。我が家のように、「お父さんに聞きなさい」という母親なら、父親は使命感にご満悦である。

好奇心の強い親であればこそ、感受性の高い子どもの好奇心に向き合える。自分が知りたかったと同じように、この子も知りたいだろうなという気持ちになれる。「親に聞いてもめんどうくさがって教えてくれない」という子どもはおそらくいる。子ども時代を振り返って、「うちの親はそうだった」という大人もいよう。親は子どもに真摯に向き合いたいものだ。

そういう積極的な親の態度が、人をいじめるような子に育てないと言い切るのは決めつけかも知れぬが、情操の欠落した子どもの親には何らかの要因は間違いなく存在するハズだ。今回、葛西りまさんの自殺に触れて、一向に減らぬいじめ問題に腹が立つばかりである。のっけに、「いろはかるた」について述べたのは、表題こそ現代のかるたの語句であると。

それが、「いじめ好きの馬鹿」である。他人の親子の問題を想像するのは至難だが、「これでいいんだ」という親は間違いなく危険である。己を過信するあまり、己の行為を自身で正当化する、そのことが危険であろう。物事を多角的に捉え、善悪の幅を自身の視点と子どもの視点から総合的に判断しない親は傲慢であろう。教育には理想が必要で理念も大事である。

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が、疑問や批判なくして正しいものは見つからない。いじめっ子の親は、間違いなく子どもにストレスを与える親であると考える。たしかにストレスの発散はいろいろあるが、それをいじめに向ける子どももいるからだ。自信たっぷりの人間がしっぺ返しを食らう光景は多く見た。そういう親もしかりである。自信はどう身につける?「そんなの簡単よ」という女性がいた。

「信念でしょう?こうと思ったらやればそれが自信になる」。などと言葉はいかにも便利である。人間は言葉の生き物、美辞麗句に酔う人間は多い。プロ棋士は当然の一手に時間をかけるが、自分の手に酔わぬ疑念と周到さがある。取り返しのつかぬ行為の前なら、さまざまに思考できる。「こうと思ったら」の、「こう」の種類は10も50もあることを知るべきである。

人間は自分の予測どおりにいかない。予測はするが予測の範囲を超えた思考こそ他人の神髄である。分かったことをいう人間は、実は何も分かっていない。子どもを解っているという親はメデタイ親である。洞察し尽くしても他人を理解できない、それが他人の証明である。自信と過信は似ているようで違う。短絡的自信家に遭遇する度、思いを強める昨今だ。

いじめっ子を持つ親は、自分のせいでそうなったとは思ってはいないだろう。なぜなら、親が子にストレスを与えたなどまったく感じていないからだ。ストレスを与えるのが大事という親もいる。それを跳ねのける訓練になるという。論理としては間違いではないが、他人が自分の意図通りにならないことを知るべきである。ストレスを与えていいことなど何もない。

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発散法を間違うと大変な失態になるからで、「いじめなんか愚の骨頂」、「バカの愚行」、「そんな子どもは蹴とばす」との強い思いを抱く親にいじめっ子は育つまい。つまり、危機感が行為の端々に現れる。いい親の定義は難しいが、悪い親はいくつも上がる。まず、ホンネとタテマエをむき出しにする親。子どもは自分の親を案外見抜いているものだ。親が気づいてないだけ。

であるのに「地」を出さないで、決まりきったこと、道徳的、常識的、世間体ばかりいう親は子どもはうんざりである。親の「地」というものは実は育て方(教育)にも大きく影響する。自分なりに考える良い親の定義は、「親が自分の"地"を出せて、それが子どもが見抜いている親の実像と合致したときにこそ、教育が成立し、子どもの生涯に残るものとなる」。

こんな話がある。「小学校のある教師は怠け者で、各科の得意な生徒に、"お前が説明したほうがいい"などと、代わりに授業はさせるし、前日のお酒の匂いはするし、それでも子どもに人気のある教師だった。ある日、全校朝礼で当時流行っていたベーゴマが摘発された。ベーゴマをやり取りする賭けの部分がよろしくないということで、禁止されていた。

何人かの悪ガキが前に呼び出され、全校生徒のまえで吊し上げを食う。息の荒い若い教師が、大声で怒鳴り続けていた。講堂の肋木にもたれていた怠け先生が、「聞こえませ~ん」と突然大声を上げた。満座はシーンとなった。そのときぼくらは分かった。ぼくらがこの怠け先生に親しみを感じていた理由が…。これなんだというのがやっとわかった。

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男の子の多くは、「ベーゴマ如きでなんでそんなに怒鳴られなきゃいけないんだ?」と思っていたから、そのことをぼくらと同じに理解してくれる先生がいたのがうれしかった。ぼくらのそんな疑問に賛同だけでなく、行動で訴える先生であった。こういう教師はテレビドラマなどで出てくるが、職員室で孤立するのは間違いない。が、学校という村社会で信念を通せる逞しさが男らしい。

隠せないという信頼感である。要領のいい人は隠すこともできるが、隠さないでいる人は先ずは自身に正直なのだ。「いい先生」と思われようとしないのが、実はいい先生であったりするように、「いい親」である必要はない。生徒が思う、「いい先生」、子どもが思う、「いい親」と教師や親自身のギャップである。いい教師、いい親の神髄は、「いい人間」かも知れない。

なぜなら、子どもは教師や親の視点でとらえていないからだ。自分たちは子どもであるが、大人を同じ人間としてとらえている。だから、非人間的な言葉や行為に鋭く反発するし、しなやかで人間的な心に同調する。まずは信頼が先で、それなくしての切は彼らの心に沁みて伝わらない。だいたいにおいて親の過ちは、「勉強できればいい子」という短絡である。

今回、一枚の写真がきっかけで、一人の少女の自殺がクローズアップされた。そのことがいじめ問題に寄与してみても、時間とともに忘れられて行く。いじめを風化させないのは、いじめがもとで世を捨てた子どもたちの親であろう。我々は他人事でしかない。被害者に同情しても帰らぬ人だし、被害遺族に同情しても、慰めにもならない。自分はりまさんの遺書を何度も読み返した。

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原因を究明したからではなく、追い詰められた少女の苦しみが、どのようなものかを解ろうとした。が、人の腹痛はこちらが元気な時には分からないものだ。だから、自分が辞世の遺書を書く境地はいかなる場合かを想像すれど、見当もつかなかった。「いじめは止めましょう」、「STOP!THE いじめ」こんな標語は、いじめ側にとっては単なる落書きであろう。

「いじめ好きの馬鹿」というかるたで啓蒙できる時代でもない。いじめをなくすためには、親が子どもの幼少時期から、ストレスを与えぬよう、留意して育てることしか思い浮かばない。「万引きは犯罪です!」の標語が虚しいほどに、万引きはなくならない。いじめに刑事罰はなく、よって刑事犯罪とならない。体に傷を与えれば障害事件だが、心の傷に罰則はない。

ならば、いじめはどんどん陰湿へと下降していく。昨日の記事でいじめ回避手段とした、①対抗する、②耐える、③自殺する、④逃げる(転校)のなか、③は起こった事象であって、回避策として適切でない。正しくもない。したがって、りまさんの取ったいじめ撲滅法は、我々からみれば間違いである。ただし、彼女がなぜそれを選択したかを遺書から探るのだが…


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