涼しそうな切れ長の目、年齢不相応な色っぽい口が印象的な少女。これで13歳なら将来有望、いい女になるのはマチガイないが、残念なことに彼女は死んでしまった。なぜ?わずか13歳の命って短かすぎない?13歳で死んでたらとっくに自分はいない。13歳で死んだ人は、13歳まで生きたと思うのだろうか?彼女は、「13年間ありがとう」の言葉を置いている。
その5倍も生きた自分からすれば、「13歳まで」などとと思えない。彼女は13年間の命と引き換えに、何を得たのか?真っ赤に開いた傘を背に、笑顔はじける津軽手踊りの少女――。今夏の黒石よされ写真コンテストで、最高賞の黒石市長賞に内定していた作品で、撮影された10日後に自殺した青森市の浪岡中学校2年の女子生徒(13)と、審査後に判明したものの名は不詳だった。
ところが、主催した黒石よされ実行委員会が一転、内定を取り消していた。が、遺族は17日、撮影者から提供を受けていた作品を本紙に公開した。葛西りまと氏名も公表した。写真は8月15日、黒石市の日本三大流し踊り・黒石よされで、青森市の男性が偶然撮影したもので、男性は、「表情の明るさ、漂う熱気、精いっぱい楽しむ姿に魅かれた」という。
りまさんは幼少期から手踊りをたしなみ、小学6年で仲間と日本一に。だが、今年の全国大会が近づいていた同25日、命を絶った。遺書があった。彼女の記した一句一句は読むものにとって切実である。遺書が切実なのは、遺書に切実な想いが込められてるからだろう。遺書を書いたことはないが、遺書がどういう気持ちで書かれたのかを洞察できるだろうか?
これから死ぬと決めた人間が、辞世にどんな言葉を残すのか?おそらく経験することはなかろう遺書について考える。遺書とは自死に限られ、これを経験するためには死ななければならないが、遺書を書いてみたいがために死ぬことはできない。死に臨んで人は何を望み、何を伝えるのか?人間は自分の死を経験できないゆえに、遺書の反響を知ることはできない。
人間にとっての「死」体験とは己の死ではない。死後の反響さえもわからないそれが人の死だ。悲しむであろう肉親や友人を思いを浮かべながら死ぬのだろうか?自死とはカタルシスなのか?人生では誰もがまったく思いがけないことにぶち当たる経験をする。りまさんの自殺は遺族にとって、悲しい死の体験であるが、りまさんは体験ではなく、ただ世から消えた。
「8月25日に青森県南津軽郡藤崎町のJR奥羽線・北常盤駅で起きた人身事故で、死亡した女性が青森市の浪岡中学校2年生の女子生徒であるのが27日分かった。それがりまさんだった。自殺の可能性が高いという。事故前日の24日は2学期の始業式。りまさんの周辺から、いじめに遭っていたことを示唆する記述が見つかり、学校側はいじめについて調査を始めた。
遺書のない自殺も多く、だからといって突発的ということでもない。遺書を置いて死ぬもの、何も告げずに死ぬもの、それぞれの死の選択である。りまさんは遺書をスマホのメモアプリに残していた。いじめた生徒の実名も書かれ、「もう生きていけそうにない」、「耐えられません」など悲痛な訴えがつづられており、父親は遺書の一部を公開した。
遺書
突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。●が弱いのは自分自身でも分かってるし、●が悪い所もあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください。●も頑張ってね。
学校生活も散々だし、それでストレスたまって起立性なったのに、仮病とかいう人が沢山いて、説明しても、あまり信じてくれなかった。1、2年の時で●の噂流したりそれを信じたりいじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう、二度といじめたりしないでください。(中略) 家族へ。先立つ不幸を許してください。もう無理です。特別虐待があったわけでもない(中略)
文章めちゃくちゃでごめんなさい。みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないくらい生きる価値本当にないし、綺麗な死に方すらできないけど、楽しい時もありました。本当に13年間ありがとうございました。いつか、来世ででも●が幸せな生活をおくれる人になれるまで、さようなら。 また、会おうね。
2016年8月25日木曜日
2016年8月25日木曜日
りまさんは事故前日の24日、東京で開催される伝統芸能の全国大会に向けて、夜9時ごろまで「津軽手踊り」の練習をした。三味線を担当するりまさんの祖父が、「頑張れよ」と声をかけると、「うん」と返事をした。翌25日朝、「具合が悪い」と訴え、両親が出勤後も1人自宅に残った。そして、当日午前10時過ぎ、JR奥羽線北常盤駅で電車にはねられた。
りまさんの父親と祖父は、昨年6月ごろ、りまさんが他の生徒から、「LINE」で中傷を受けていることを知り、「その年頃の女子に対して使う言葉としてはキツイ」と、父親が担任に相談していた。父親はいじめの生徒や親に、「もう関わらないようにしてください」と声をかけたという。クラス替えの配慮がなされたことで、りまさんは、「大丈夫」と話すようになった。
ところが、昨秋ごろから朝起きられなくなり、「起立性低血圧」と診断された。原因はストレスによるものだった。いじめはおさまったかに見えたが、おそらく親にチクったことでより陰湿になって行ったのだろう。女の女に対する陰険さはいろいろ聞いたが、よくもこれほど露骨にといえるほどに凄まじい。ハラワタが腐っているのかと見まがう陰湿さである。
男なら、「お前のその陰険な性格何とかならんのか?」と、逆に攻め倒すこともできるが、受け身の女性にとってはたまらない。キャパを超えた非情さを受けきれるものではなく、教師に相談していじめっ子に注意をしたり、叱ってもらってもいじめは解決しない。親に話せば、「よくぞ言ってくれた」とばかりに、いじめ相手やその親に通告しても、いじめは簡単には止めない。
教師や親にいうことをチクるといい、大人が叱りつけたり、諭したりの仲裁に出てきたところで、子どもの傷は深まるばかりである。いじめられっ子は心に傷を負った子が多いが、いじめっ子も心が傷ついた子どもが多い。育ってくる過程のなかにあって、無意識の苦しみがあるから人をいじめる。強がってはいるが、それでも心の中は辛く重い物を背負う。
子ども同士の問題に大人が出てくればそれが心が傷つける。だから大人が出てくるのをいじめ側は許さない。親・教師が対応したときは解決したように見えても、いじめ側の恨みは以前にもまして増幅するのだろう。したがって、いじめを増幅させないための基本的なことは、子どもにとっての、「目上の人」は干渉せず、子ども同士で解決するのがいい。
しかし、子ども同士でいじめっ子にいじめを止めさせる、あるいは自然に止むようにできるのか?いじめっ子はいじめられる側が何もしないのをいいことにいじめるわけだから、突然怒りを表し、向かっていくなりのアクションを起こすのがいじめを止めさせる特効薬となる。刃向かう勇気はいるが、親と意思の疎通があれば、そのあたりは子に伝授できよう。
何もしてこないからカモにされるわけで、突如襲ってきたらいじめる側も恐れ戦く。弱い者いじめをする人間の本質は臆病者と相場は決まっている。そうした事実、本質を子どもに諭すのが親の力量であり、保護者の任務であろう。突如、刃向かってくる恐怖にいじめっ子も、「こういう事はするもんじゃないな」を学ぶ。また、親の過保護がいじめられる子を作る要素はある。
なぜなら、過保護は逞しさを考慮に入れない。女の子であっても、物事の道理として、「逞しさ」とは何かについて語り合いはできる。逞しさ=強さとは限らない。いじめは自殺をともなう場合もあるが、どんなにいじめられても死なない子はいる。いじめで死ぬ子と死なない子の区別は近視眼の親には見えてこないし、自殺を弱さと見るのは違うだろう。
耐えれば強く、耐えねば弱いというのは安易な論理で、優秀な人間が自分の能力がさがったことで自殺をする例は少なくない。いじめ回避には4つの方法がある。先にあげた対抗するが最善だが、②耐える、③自殺する、④逃げる(転校)など。どんなに知識や教養があり、しっかりした人物、温厚な人間でも、孤立した状況で追い詰められると異常な行動をとる。
殺し合いか、自殺か、発狂したり精神を病む。自殺は精神を病んでいる状態で、そうそう命を投げ出せるものではない。上の4つに加えるなら、どこか脱出口を見つけるのも方法だ。脱出口とは何か?昔いじめられた人がこのように言っていた。いじめを癒してくれるのは銭湯だった。あるいは近所の神社のお祭りだった。どちらも華やかな空間である。
そういう中に身を置きながら、誰とも口を利かずともいい。「自分は群衆の中の孤独が好きだった。そこに安心という逃避を求めていたのかも知れない」。脱出口を見つけるべきだ。脱出口は未来につながっている。りまさんの祭りのショットが、なぜにこれほど魅かれるか、彼女の刹那な人生の最後を写し出していることもあるが、それは幾分先入観もある。
撮った人には伺い知れぬことで、「表情の明るさ、漂う熱気、精いっぱい楽しむ姿に魅かれた」と撮影者は述べている。まさにその通りで、彼女のあの笑顔の裏に潜む苦痛や哀しみなどは感じられない。が、そのことを思うとあの一枚はいたたまれない。数日後に命を絶つ苦しみが、あの笑顔に隠されていると思うと…、こんなに苦しむ少女がいるのかと思うと…
りまさんは、「他校の男子とやりまくっている」など、事実でないことを言いふらされたりした。こういう嘘には甚だ怒りを覚える。人を苦しめ、窮地に追い込むような子どもを育てた親に無性に腹が立つ。そんな子育てをして欲しい。自分の満足や幸福が他人の不幸の上に乗っかるというのは、存在する資格のない人間である。腹立たしさが先行して情緒的な文が書けなかった。
りまさんの写真をめぐる体制側の判断はオカシイ。「自殺した少女が祭りにふさわしくない」と、そんな論理がどこにある?写真コンテストに試写体云々など関係ないはずだが、こういう大人がいじめに加担している。どの面下げて、言い訳を考え、発するのか?子どものいじめがなくならないのは、心無い形式主義の大人たちが社会を牛耳っているからで、こちらにも腹が立つ!