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5日でブログ10年なっていた

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昨日のコメント来訪者、期待に反して再コメはなかった。この手の人間は、他人の意見に文句をつけて自身の気分を晴らすということだろうし、それに対して気分を害するようなことを返すのはよくない。まあ、結論はそういうことだが、ちょっと言葉で遊んでみたということだ。しつこく言い合いを続けるブログもあるが、ひと年とったならエネルギーの無駄な浪費は避けるがよい。

あしらうというより、文句をいいたい心理を上記のように理解すればいいこと。ならば、「お前の方がもっとくだらない」みたいな言葉を吐かれて癇に障ることもない。来訪者の素性はわからないが、文章から年齢その他何がしかの推察はできるようになる。まさに、「文は人なり」といったものだが、他人の書き込みに文句をいって、ストレスを発散するネット社会ならではだ。

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羽生氏は勝負師。松尾氏は音楽家。と、書き手の意図は想像に及ぶ。自分の考えを強調するためであろうが、自分の考えを強めるための一元論は説得力がない。たとえば、羽生を勝負師と限定して、寝癖など関係ないだろうといってみても、彼は社会人でもあるわけだ。松尾を音楽家と言いたいのも同様、音楽家には一流もいれば三流、五流もいるわけだ。

周到さのない独善論は言い返す余地が多く、簡単に論駁されるであろう。それに立腹し、意固地になり、後は屁理屈合戦となるを、バカげていると思わない当事者ども、バカげてると思う自分はやらない。議論は相手の意をくみ取り、真摯に冷静にやるものだが、熱くなるのが若さである。若さはバカさと自身を顧みて、つくづくそうである。が、誰にも若さがあって仕方がないことだ。

自我は大切といっても、何事も自我を中心に据えていては、「生」の意味が表層的になり過ぎる。そもそもそれでは、「死」ということの位置づけができなくなる。自我は死によって消滅しまうものであるなら、生きていることにどれだけ価値があるのか?となり兼ねない。新聞や報道などから、我々は様々な、「事件」に触れるが、事件は「体験」ではない。

事件には自我の関与はなく、所詮は他人事でしかない。が、自分に関係のない事件であれど、それを自我と魂間の葛藤として思考し、人間の存在全体を揺さぶるものとなるとき、その事件はその人にとって、「体験」となるであろう。「どうでもいい」とか、「他人事」とかの言葉を自分が嫌う理由は、他人の深みについて思考することで、他人を体験したいからである。

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人間が生きている間に体験することなど微々たるもの。したがって、文学や演劇、映画などでする疑似体験に感情移入すれば、まさに自分のこととして考えられる。事件も同様にして深く考察して体験に至れば、自身の体験は一つ増えることになる。他人の体験の収拾を知恵をだして図れば、己に降りかかるとも知れぬ同じ事件を、予習体験したことになる。

あれだけ言われているのに、「振込め詐欺」がなくならないのも、所詮は他人事として深く思考しないからであろう。人は自分を生きるが、また同時に他人を生きなければならない。傷害事件も殺人事件も、男女の不倫や離婚も、災害や交通事故も、政治家や芸能人の失言についても、それらを自分なりに思考するのを、他人からどうのこうの言われることではない。

ところが、他人も自己中心であるから、気に食わない論や発言に文句をつけたがる。得てしてこういう人間は、他人のことの前に自分が考え、行動することはいくらでもあるはずなのに、それをしないのだろう。他人に文句を言って自分がどう良くなるだろうか?何かにつけて他人にチャチ入れるだけの人は、もっともっと自分について考え、自分にチャチをいれるべきかと。

それを差し置いて、他人の些細なことに言及するなど、自分に言わせると、「バカ丸出し」である。大きなテーマを掲げて他人を思考するのは、自分のことと同等に大事である。孔子は、「四十にして惑わず」といった。そうはいえど、孔子時代の四十は現代の七十歳くらいかと考える。人生50年の時代の四十歳と、80年超の時代とでは四十歳の意味がまるで違うはずだ。

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年齢はともかく中年も老齢に差し掛かると、あらためて自分という存在に目をむけることになる。一体、自分とは何なのか?何であったのか?も含めてである。それだけ過去の年数が多くなるから、「何だったのか?」との過去形になる。が、「何だったのか?」は、結論を求めているようだ。ということは、今後はさしたる変化はないと読み切っているのか?

「もう棺桶に片足突っ込んでる年齢だから…」などの言い方をするが、どの年齢でそうなるのかは人にもよろう。もちろん、若いときに、「自分とは何だ?」というのは誰にでもある。自分を大切に思い、自分を生かしていきたいと誰もが思っている。やりたい仕事、結婚したい相手、そうした中で自分を確立して行くことになるが、老齢に手がかかるとどうなる?

これも十人十色であろう。まだまだ、自分の力を試してみたいという気持ちも湧いたりする。それで無理をして死んでしまっては何もならないが、何かを始めることは死ぬためではないから、アクシデントであろう。険しい登山も、激しい運動も、死ぬためにやるわけではない。若者は社会からの評価を得たいが、高齢者は自身で自身の評価を得たいものだ。

こういう考えの便利な点は、他と比較することが容易なことである。運動能力や体力測定などの数値は、「この年で自分も大したものだ」、「よくやれていると思う」といった自己評価、自己満足にすぎないが、それらの尺度はどこにも適用できるからして、普遍性を持つ。ところが人間が、「私」について思考するとき、数値に現れる簡単なものではない。

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街が一望できる小高い山のてっぺんに登って、遠く瀬戸の内海を見たり、行きかう船舶を見ながら、それで十分であったりする。そこの場所の空気を吸い、それが自分の体の状況などと渾然一体となり、「私」の感覚を呼び起こし、支えたりもする。人が高い山に登って眺望を好む理由はわかる気がする。大げさに言うと、「神」に近い心境である。

神を知らないから言える言葉であるが…。ある場所で、ある時に、「うん?これが私なのだ」と感じるのは、他との比較を超えた独自の自分である。他者との比較の上での、「私」もあるが、そうした別の観点からの絶対的な、「私」も、老齢に差し掛かる者にとっての、「私」の発見であろう。もはや他人との比較で成り立つ、「私」などは無用であろうと…。

ともすれば老人が頑固になるのは、そこに起因するのかも知れない。善悪は分からないが、絶対的な自分を持つのは必要であるように思う。他者からの評価、他人の尺度からみた、「私」ではなく、自らの尺度で自分を決定するのは、やはり必要である。改めていうまでもないが、「現実」は極めて多層であり、それを知ることで人生が豊かになり、意味深くなる。

若いときのように、「こうだ!」、「ああだ!」、「そうだ!」、「それっきゃない!」という短絡さから、「これもある」、「あれも、それもある」など、思考が柔軟になる。自分を通してだけでなく、他人を通して事物を見る目が養われるからだが、それでも時に、どちらが正しいか?を判断しようとする。自らの内で判断すればいいこともあれば、相手を説得しにかかることもある。

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上記の場合、その必要性がある場合に限ってで、むやみに他人を自分の考えに誘導し、説得する必要もない。人は人を生きたらいいわけだし、己の生き方が正しいなどと喧伝する必要はない。が、問われれば答えるであろう。自身の正しいと思うことについて…。中年が子どもについて背負う課題を多く持ち、悩むのは知っている。子が親の自由にならないのは当然である。

そういう意識に改めることを出発点にしないと、親が苦しむのは当然だ。登校しない。成績があがらない。いじめられる。盗みをする。など多くの問題がある。が、これらの問題の多くは親の生き方、育て方そのものが問題であることが多い。そこに気づかないで、「悪い子」というのだからどうにもならない。が、それを言ったところで物事は解決しない。

心理学者はこの手の相談に、「親が変わらなきゃダメです」と口をそろえるが、親がそうそう簡単に変わるはずがない。『ザ・中学教師』という映画で、母子家庭の母が息子と一緒にお風呂に入ったりする。そうした共依存関係から息子を自立させたいと相談に訪れ、「息子を自立させたいなら、あなたが家出することです」と言われて、本当に家出してしまう。

自分の考えや信念が土台になく、言われたことを鵜呑みにする天然の母らしい行動だろう。多様化の時代といわれつつも、この国では子どもをみる視点が、学業優先という唯一の尺度で評価するのは変わりようがない。個性という尺度で子どもを見る親はなぜか日本人の親に少ない。「苦労をさせずに」と親は思うが、そのことが異種の苦労を生むのである。

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穂積隆信の『積木くずし』、本間洋平の『家族ゲーム』には、過保護と暴力という共通点がある。過保護というのは、三田佳子や高畑敦子などの例もあるように、忙しくて放任しがちな芸能人の子どもに起こりがちで、彼女らの、「過保護」の意味とは、実は愛情不足の代償である。『家族ゲーム』の慎一は、砂場で遊んだことも、女の子に興味を持つこともない。

三十分単位で一週間、一か月の予定を立て、それに従って生きる高校生で、ノルマをこなし、そのノルマの達成を親が喜ぶという家庭である。出来の良い慎一に比べて弟の茂之は勉強が苦手。父親は家庭教師の吉本に、茂之が英語で60点とると5万円、10点上がるごとに2万円の契約を交わす。金で買えないものを子どもに費やす親はいいとされる現代の構図。

別に昨今の親が悪く、昔の親がよかったと言いたいのではなく、昔の親は子どもに金をかけたくとも、金がなかったに過ぎない。吉本のような暴力を用いた強引な家庭教師がもたらせたもの、それが親の描いた構図に寄与したからといっても、目に入るのは表側だけである。サーカスで調教されたライオンや象の芸を見ながら、象の顔は泣いているようだった。

本年8月群馬県のサファリパークで、同園従業員女性が施設内のツキノワグマ(5歳、オス)に襲われ死亡した。今月15日には、長野県では自宅で飼育していたクマに嚙み殺された。動物をあなどってはいけないというが、まこと人間には人を噛み殺す牙も爪もないが、金属バットがある。親の殺害に斧やカマを使った事件も過去にあった。子どももあなどれない。

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