いつ頃から決めたはともかく、「忙しい」、「めんどう」、「疲れた」の3つを禁句にしてるのはここに書いた。「忙しい=無能」、「めんどう=横着」、「疲れた=弱音」と自覚し、自己暗示的に戒めたことでもあるし、これらの言葉は人から聞くのも煩わしかった。「忙しい、忙しい、ああ忙しい」などという奴は、「無能だ、無能、自分は無能なんだ」と言ってるように聞こえた。
「めんどうくさい」が口癖の奴もいた。口には出さないが、なんという横着なやつと批判した。「疲れた~」の言葉を、「暑いね~」、「寒いね~」などと同じように無意識加減にいう人間に罪はないが、意識的に口に出し、人に同情してもらいたいかの如くいう奴には無視して反応しないようにする。「そうか、疲れたんか?」と言ってどうなるものでもない。
それもコミュニケーションなら否定はしないが、批判に迎合するより無視した方が罪がない。頻繁にいう周囲に嫌気もあってか、「自分は死んでも言わんぞ!」と批判を強めた。批判が自分を作ると考えれば、批判を怖れることはない。いわんや、「罪を憎んで人を憎まず」で、自分の嫌いな言葉を発する人間が憎いのではない。彼らは自分に甘え、人にも甘えて癒しを求めている。
ニーチェの、「友人には堅いベッドでいるべきだ」の言葉に共感する自分であり、親密度によっては、「弱音を吐くなよ」ということもあるが、大概は聞き流す。大事なことは批判が自分を作ることである。最近の芸能人は、例えば有吉や坂上やマツコや、批判に重きをおいた毒舌キャラが受けているようだが、日本人の毒舌は、悪口と同等の低次元でしかない。
では、毒舌と悪口はどう違うのか?個々で違うし定義はないが、自分はこう考える。毒舌とは、直接相手に向けて辛辣に物を言うこと。悪口は本人に遠慮したり、聞かれたくないとか、だから陰でこそこそ言ったりする。私情を挟む(場合もあるが)よりも、事象について躊躇わず批判する毒舌は、上記した、「罪を憎んで人を憎まず」というキャパが必要となる。
どうも日本人は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」感が強いようだ。まあ、自称毒舌家といっても、権力者に媚びた保身家もいたりするし、利害関係が表立つようでは似非毒舌家であろう。自称俳優と犬好きの坂上なんてのは、子役の子どもと犬にだけ偉そうに語っておけばいいんだよ。と、これは悪口に聞こえるが、本人の前でも躊躇わずいえる毒言葉である。
もっとも、有吉、マツコの番組を観ない自分は、最近は坂上も加えている。まあ、彼は昼の番組ご用達なのでついつい見かけるが、他の人間の発言の邪魔をするなと思いながら観てはいる。ジャンルが狭いのに、広げすぎだろう。こんにち毒舌の代表といえば橋下徹らしいが、自分はそうは思わない。彼は毒舌というより、自己責任で是々非々に語っている。
ワイドショーなどに出演して、紋切り型の発言をするタイプではないし、大阪府知事になる前はたかじん委員会などにもでていたが、首長経験などで一層知識と素養を高めて以降、かれはワイドショー番組の端の方に座るべきでない。社会人としての真っ当な知識量が希薄で、ただただ五月蠅いだけの悪口芸能人と橋下では、まあ人間の質がまるで違うよ。
また毒舌は、好き嫌いのレッテルを外し、あるいは観点を変えれば、本当のことだと思わせる内容であるべきだろう。例えば、ボブ・ディランのノーベル賞批判についてで、「私もディランは好きだが、彼のどこに(文学)作品がある?」とか、「耄碌してわめくヒッピーらの悪臭を放つ前立腺が捻り出した検討不足で懐古趣味」などの辛辣な批判は毒舌要素を孕んでいる。
これだけのことを言える芸能人の茶の間コメンテータはいないだろう。ディランの受賞についての自分の考えだが、ノーベル文学賞の選考基準としてこれまで言われてきたことと大きくかけ離れているのは事実で、例えば小説家であっても、ドキュメンタリー作品も選考には不可欠とされた。ゆえにか、村上春樹の『アンダー・グラウンド』も賞を意識といわれた。
ディランの文学賞受賞は、その意味で今後の文学賞の幅を広げるものであり、真に優れたもの、普遍的なもの、社会に与えた影響力などを考慮すれば、何の問題もなかろう。さらにもっとも価値のある点は、多くの作家がノーベル賞を意識、もしくは目標に作品を書くというなら、ディランの場合はそれがまったくない。予期せぬ評価をいただいたということ。
「初めに賞ありき」ではなく、後からついてくるものとするなら、ディランの文学賞は一石を投じたことになる。もちろん、池に小石を投じればその波紋はどんどん広がっていくのは当然だ。同じ意味で頭に浮かんだのが、ピアニストの内田光子の言葉である。「ピアノを買って子どもの尻をひっぱたく前に、まず初めにその子の心に音楽ありきでしょう?」
行為と目的のズレを指摘した言葉。勉強嫌いが学歴欲しさに大学に行くのも同じことだ。ノーベル賞を学者や研究者が目的として励みにしてもかまわないし、かまわないけれども、やはり後からついてくるものというのが、賞の純粋性に思える。賞が純粋でなくなるこんにち社会において、金で買った、選考委員を買収した、などのいかがわしい噂もついて回る。
結論をいうなら、ディランのノーベル文学賞は予期せぬものであっただけに価値があったと、そういう別の観点から自分は評価したい。研究が研究者自身を、作品が文学者個人の評価になるように、ディランの詞はディランの評価となる。ミュージシャンとしてのディランを、アカデミーがジャンルを超えて評価したことも、時代の流れ、時代の変化であろう。
ディランには、『時代は変わる』という作品があるが、ミュージシャンの彼がアカデミーで評価されるなど、ディラン自身も予測もしていなかったことであろう。ミュージシャンを評価するグラミー賞も名誉なことだが、ノーベルアカデミーが、「音楽」という垣根を超えて、一ミュージシャンに視点を宛てたそのことこそ、「The Times They Are a-Changin'」である。
幸いにして我々は時代の変節の目撃者となったが、時に時代の変化は、四季の移り変わりのように感じられるものではないし、様々なものを眺めたり、受け入れたりしながらじっと目を凝らし、耳をそばだてて時代の音を聞けば、変わろうとする時代に気づくものとの認識だ。四季の境には移行期のようなものを感じるように、時代の境目にもそうしたものがある。
フォークの旗手と言われたディランが、ある日突然フェンダーのストラトキャスターに持ち替えた時、ファンの怒りは収まらなかった。ファンはディランの『時代は変わる』を口ずさんでも、ディランが変わることを認めようとしなかった。そんなファンにディランは辟易した。「おれはファンのためのディランじゃない」。その強烈な自我が、ディランを成長させていく。
ファンはディランのためファンであるべきだろう。注意しなくても季節の変わり目はわかるが、時代の節目は分りにくい。ふと気づいたとき、フォークとロックを融合した新しいフォーク・ロックというジャンルが確立されていた。遠く海を隔てた自分も、『ライク・ア・ローリング・ストーン』を初めて耳にしたとき、ディランはバカでないかと思った。こんなのがディランであるはずなかろう。彼はバカだと…
高校生の正直な感想である。「プロテストソングばっか、やってられるか!」、おそらくディランはぶっきらぼうに言い放ったであろう。優れた曲を書き、文学的な歌詞も高く評価されるディランだが、決して美声とは言えず、歌い方にしても、「ほんまにまじめにやっとんか!」、「やる気あるんか!」と思わせるほどに、ぶっきらぼうに聞こえる。が、それがディランである。
それがディランらしい音楽表現である。音楽をきれいに、美しく飾るということをしない、そのことがディランの音楽への畏敬であろう。ディランを聴いていると、音楽は美しくなければいけないのか?そんな疑問を奮起させられる。「音楽が美しいものといえるだろうか?」これはシューベルトの言葉である。チャイコフスキーも、ある自作曲を以下のように批判した。
「この曲にはこしらえ物の不誠実さがある」。音楽が作り物でないなら、何だというのか?長年疑問に思ったことだが、「綺麗」、「汚い」の二元論で音楽を語ることこそ虚妄であろう。我々は音楽を、「美しい調べ」などと表現するが、天才の目に音楽はそのようなものではないのだろう。「音楽とは何か?」。音楽とは音であり、聴き手は音そのものを聴いている。
したがって、音楽とは自分の耳が聴いているものに気付けばよいということになる。が、感じるという点においては人それぞれだ。確かに音楽は音を聴くという簡単なことだが、そこに感性が絡むと音楽は一層深みを増す。さらに音楽とは、作り手にとっては別次元のものであろう。再現すれば音の高低・振動であるが、作っているときは精神の挌闘ではないか?
よって、音楽や文学などの表現行為は、人間個々の精神活動である。聞き手がそれを感じ取る高みにあるかどうかは分からない。ディランはノーベル賞受賞のコメントを発していない。もし、これが元ビートルズのポールであったなら、即座に律儀なコメントを発表するし、それがポールである。ディランの思いは想像するしかないが、とりあえずそれがディランと言っておこう。