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Channel: 死ぬまで生きよう!
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「少し」分かりかけたこと

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「人はどう生きるべきか?」についての正しい答えはない。ならば、「自分はどう生きるべきか?」について選択が必要だが、正しい選択というのも難しい。その選択が正しいと思っても結果は無常という場合もある。「正しい」選択はどうすれば可能か?行為の前に「正しい」、「正しくない」を見分けることはできるのか?残念だがその答えは「無理」。

予知能力があれば可能だが、それは小説、漫画の話。「正しい」を見つけることはできないが、「正しい」と信じることは可能である。信じて正しくなかった場合にどうするか?これはもはや結果を受け入れるしかない。結果は起こった事実であるから、否定はできない。喜べない結果なら、落ち込んだり、ガッカリすればいいんだし、それも人間の常であろう。

上手くいかなかった時、ガッカリや、落ち込んだりが決して悪いことと思わない。普通に生じる感情である。正しいと信じた選択そのものが間違いということもあるが、上手くいかなかったからといって、選択そのものは間違ってなかった場合もある。また、選択は正しく、行為や手順を間違うこともある。その辺りを分析・検証し、見極めるのも大事かも。

どこに問題があったかを探り、選択が正しいなら新たな手順で再度トライもできる。失敗は行為の常、いつまでもくよくよしていいことは何もない。「Don't Think Twice, It's All Right」は好きな曲である。ボブ・ディランによる1963年の作品で、直訳すると「考えすぎるな、大丈夫」であり、これを邦題は「くよくよするな」とした。この曲は以下多くのカバーがある。

1960年代
ボビー・ダーリン、ザ・シーカーズ、ジャッキー・デシャノン、ジョーン・バエズ、ブライアン・ハイランド、トリニ・ロペス、ジョニー・キャッシュ、シェール、ウェイロン・ジェニングス、オデッタ、フォー・シーズンズ、ホセ・フェリシアーノ、チャド&ジェレミー、ボビー・ゴールズボロ、ランブリン・ジャック・エリオット、ビリー・ポールなど。

1970年代
ブルック・ベントン、ヒューゴ・モンテネグロ、ジェリー・リード、エルヴィス・プレスリー、ピート・シーガー、アーロ・ガスリー、メラニー、ニック・ドレイク、チェット・アトキンス、エルビス・プレスリーなど。

1980年代以降
エリック・クラプトン、ジョン・メイヤー、スーザン・テデスキ、ブライアン・フェリー、ドリー・パートン、ロリー・ギャラガー、ザ・ブロークン・サークル・ブレイクダウン、マール・ハガード&ウィリー・ネルソン、ミルキー・チャンス、ランディ・トラヴィス、高橋幸宏など。

トリニ・ロペスやジョニー・キャッシュ、ピーター、ポール&マリーなら、なるほどにして分からなくもないが、クラプトンやメイヤー、ロリー・ギャラガーにまで取り上げられるほどの名曲である。本曲はP・P・Mのカバー聴いたのが最初で、来日の際にテレビ(「ミュージックフェア」)で視聴したの覚えている。また、P・P・Mとアンディ・ウィリアムスの共演も楽しい。

人間は考える動物であるがゆえに、ついつい考えすぎてしまいがちで、頭が真っ白で何も考えられないこともあるし、考え過ぎて苦しむのも人間だ。自殺に行き着くのは、「考えない」、「考えすぎる」のどちらだろう?後先考えたら死ねない気もするし、考えたら死ぬしか道はないと追い込むように思うし、死ぬ直前は何も考えない飛んだ状態であるように思える。

後悔・悲痛・呵責・自責など、そうした人間の一切の精神的苦悩は、思考がもたらすものだが、妄想も思考から生まれ、脳に映し出される映像である幻影も、思考からもたらされる。「何でなんだろう?」、「なぜだ?」と自らに問いかけ、そんな自分を追い詰めることなく、励まそうとするのが、「Don’t Think Twice, It’s All Right」の歌詞の内容である。

 It ain't no use to sit and wonder why, babe
 It don't matter, anyhow
 An' it ain't no use to sit and wonder why, babe
 If you don't know by now
 When your rooster crows at the break of dawn
 Look out your window and I'll be gone
 You're the reason I'm trav'lin' on
 Don't think twice, it's all right

 「なんでだろう?」と考え込んでも仕方ないよ
 そんなの意味ないよ、とにかくね
 そう、じっと考え込んでも、何の意味もないんだ
 たとえ今は分からないとしても
 夜が明けて目が覚めたら
 窓の外を見てごらん もう僕はいないだろう
 僕は旅を続けるよ 全部きみのせいさ
 考えすぎなくていい、大丈夫

長い歌詞なので全文は省略するが恋愛の歌。最後は、「僕は歩いていくよ長くて孤独な道のりを。行き先なんてわからない。でも「さよなら」って言葉はベタだから、「元気でいてよ」とだけ言っておく。きみが優しくなかったとは言わない、もっと優しくはできただろうけど、もういいんだ。貴重な時間をむだにしてしまったかな。でもいいんだ、くよくよせずいこう」

男と女が別れる多くの場合は悲恋となるが、双方の貴重な時間を無駄にしたことになるのか?そんな風に思うものか?上手くいったものだけが価値があり、そうでないものは無価値なのか?そうは思わない。人間の体験の一切は価値があり、無駄なものなどない。言い方を変えるなら、無駄も大事である。若いときの無駄というのは、すべての肥やしになる。

曲中の、「I give her my heart but she wanted my soul」というのが、気になるところで、ここにお別れの理由が見える。「僕は彼女に心を捧げたが、彼女は僕の魂まで欲しがった」と訳される。心を捧げたのに、魂までも欲しがられては、男もやってられん。赤名リカと永尾カンチの、『東京ラブストーリー』を思い出す。世間はリカを「重い愛」と責めた。

天真爛漫でありながらも一途な性格のリカという女は、自分は好きなタイプだったが、カンチは彼女の愛を受け止めるだけのキャパがなかった。無論それも若さであり、それが若さである。リカは、「わたしだけを見てて、わたしはカンチだけを見てる」としきりにいった。おそらく本心であろう。が、男にとっては束縛となる。これを「重い愛」というのか。

ディランの詞の内容が事実か否かは分からないが、やはり、「わたしと音楽のどちらを取るの?」みたいなことを言われたのかも知れない。詞の感じ方は様々だろうが、「Don't think twice, it's all right」というのは、自らに言い聞かせる言葉である。女の重い愛を振り切って、自身の女々しさにケリをつけて前に進もう、そんな旅立つ男を歌ったものだ。

財津和夫のチューリップ時代の作品『青春の影』は、「Don't think twice, it's all right」のアンサーソングと言えなくもない。「自分の大きな夢を追うことが、今までの僕の仕事だったけれど、君を幸せにすることがこれからの僕の生きるしるし」で終わっている。あくまでも想像だが、財津の歌詞は、「Don't think twice, it's all right」がヒントになったのかも知れない。

20代のころに、いなせな先輩がこう教えてくれた。「男のカッコよさってのは、すがる女を振り切って去ることだ。女の美しさとは、去りゆく男の後ろ姿をひざまづいて追うところ」。印象的な言葉だった。男の美学は、「去る者は追わずというより、追うものを振り切って去る」。当時、日活映画の風来坊小林旭が、いつも浅丘ルリ子を置いて去っていく。

先輩の言葉はまさに映画そのものである。股旅風来坊「木枯らし紋次郎」は、日活映画の江戸時代版である。「風来坊」とは現代においては完璧なる死語、耳にすることもない。先輩の蘊蓄に感化された約10年後、浅田彰の『逃走論』を読んだ。副題は、「スキゾキッズの冒険」である。当時はスキゾとパラノという言葉がしきりに言われていた時代である。

「人間はスキゾとパラノに分類でき、パラノ型の行動といえば、《住む》ってこと。一家を構え、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財を蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子供の尻を叩いて一家の発展をめざす。このゲームは途中で降りると負け。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になる」と浅田はいう。

パラノに代わるのがスキゾ型。「コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。

たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね」(『逃走論』より)。当時は丸ごと意味を理解できなかったが、今ならわかる。二つに分けるといっても、自分はどちらにも当てはまらない。どちらも兼ね備えているが、多少スキゾ傾向である。まあ、使い分けも必要だろう。

偏執的パラノはやめて分裂的スキゾになろうよっていう話。彼の気持ちは男の本来的性質であるがゆえわからなくもない。1983年時点で浅田はそのように言ったが、2010年代の現在でスキゾ型の人が増えたかというとどうなのか?一つだけいえるのは、その場限り的な犯罪が多発している。自身の後先を考えたら、到底行えないような犯罪、がである。

スキゾ・キッズはその場その場でルールを決めるから、既存のルールに縛らない。その場その場でルールを決めるというのは、言葉を変えると確たるルールがないということだ。確たるルールの代表は「法」である。近年は、あまりに法を無視、軽視するような凶悪事件が多い。殺人はいうまでもない凶悪事件である。これが浅田が望んだ社会なのか?

今回、ボブ・ディランのノーベル文学賞に多くの人が驚いた。彼の才能に驚いたのではない、ミュージシャンの詞がノーベル賞に選考されたことに驚いた。ノーベル賞はガチガチのお堅い賞ではないということに驚いた。ボブ・ディランの本名はロバート・アレン・ジマーマン。英ウェールズ出身の詩人ディラン・トーマスに傾倒、自らディランと名乗った。

そうはいってもノーベル賞は権威の象徴である。文壇界は、驚きを「衝撃」に置き換え批判が噴出した。フランスの小説家ピエール・アスリーヌ氏は、「ディラン氏の名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた」と、選考委員会への憤りの言葉を述べた。「今回の決定は、作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだ。

だが(文学)作品はどこにある? スウェーデン・アカデミーは自分たちに恥をかかせたと思う」。スコットランドの小説家アービン・ウェルシュ氏も、ディラン氏の選出を酷評。「私はディランのファンだが、これは耄碌してわめくヒッピーらの悪臭を放つ前立腺が捻り出した検討不足で懐古趣味な賞だ」とツイッターに投稿した。文句を言いたい奴は、好きに喚いてよろしい。


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