さて、本日もムダ話をしよう。「ケツがいてぇ」。丁寧にいえば、「尻がいたい」。上品にいうと、「お尻がいたい」。おデキではない。子どものころ、近所に変なおばさんがいて、上品な言葉づかいを周囲は茶化していた。例えばこんな風に…。「何でも"お"をつけりゃいいってもんじゃないだろう、あのおばはん、バケツを"おバケツ"っていってるんだよ。おバケツって変だよな~」
てな感じで、ついたあだ名は、「東京弁かぶれ」だった。まさかそのおばはんは、「ケツがいてぇ」を、「お尻がいたいでございますわ。おほほほ」というのだろうか?「おほほほ」は余計にしても、「ケツがいたいわ」の方がどこか人間的な気がする。人間的の意味は、しょせん人間は屁もかませば、糞もたれるという意味で、女性が屁をおならというのは上品でいい。
「わたしはおならなんかしません」という顔をするのもいい。ある意味女性のたしなみかもしれんし、男には分からないところが女性にはままある。ある女性が、「男と女は別の生き物です」といったが、確かに差異はあってもTOTAL的にどうなのだろう?たとえばライオンに代表される雄雌がまるで違う動物はいる。確かに性質も違うようだ。飼って確かめてはいないが…。
犬や猫は飼ってみたが、さほどオスとメスに差があるようには見えない。顔も体型もまるで一緒で、違いはアレのあるなし。が、達人は分かるという。人間の男女差は、その根幹となる脳の働きがまるで違うから、基本的な部分で違うのだろう。理解し得ない代わりに、愛し合える能力を与えられている。違いを認め合って仲良くやっていく知恵も有している。ならば同類であろう。
そんなに違いを主張するなら、一人として性質の同じ人間がいるのか?何を持って違うといい、何をもって同じというのか、定義が難しい。「何で彼は私のことを分かってくれないの?」、「何で彼はあんなことが面白いの?」。これらはよく耳にするが、「何で外にでたら人の洋服やバッグばかりみてる?」、「何でこんなことが分からないのか?」。男がみりゃ女はこうだ。
男と女がいろいろ違っても、違わなくても、同じ人間ということであまり深くは考えない。分からないなら分からせる、あるいは黙らせる。そういう方法を考える方がよいだろう。時にどうにもならないバカなことを言う場合もある。例えば、「私のどこが好き?」だの、「仕事と私どっちが大事?」などと言われて困る男はいるんじゃないか?自分は困ったことがない。
どんなことを問われても瞬時に答えを出すクセをつけている。国会答弁のようにだ。が、答えが相手にどう思われる、こう思われると、いらんことを考えるから困るのだろう。自分は問いに対して誠実に自身の考えをいうから困らない。つまり、自分の考えこそが自分であって、それを他者がどう思おうが、どう受け取ろうが、真の自分を受け取ればいい、というスタンスである。
答えに不満を述べる女にはこんな風に言っていた。「お前は真実より、嘘でもお世辞を言ってもらいたいのか?」などと問うと、「見え透いたお世辞は嫌だけど…」と、こんな風に返す。「見え透かないお世辞ってないんだよ。お世辞をいう時って、半分腹で笑ってる自分をごまかすのが大変だけどね。だから言いたくないんだよ」と、このようにいっても、女は求める答えを期待してる。
ということは、これを彼に問えば自分の望み通りの答えを期待してるってことだ。そんなことを期待して言うんじゃないよ。まるで一人芝居じゃないか?と若いころは思ったりした。このように、女性の問いというのは、純粋な問いというより、あらかじめ自分が望む答えを言ってほしい、言わせたいところがある。村上春樹の『ノルウェーの森』での会話を再掲する。
「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやかせて言った。
「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」
「冷たいのね」
「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ…」
女というのは、「相手からいただく愛情と、同量の愛を相手に与えればいい」としたもので、その辺りは男とはまるで違っておぞましい。「ねえ、私のことどう思ってる?」などと聞く女は多いが、聞いて量りにかけているのだろう。相手がどうであれ、自分が絶対的な愛を築き、与えればいいと思うが…、それは単純な男の考えでしかない。しかし、たま~に誠実な女もいる。
性分として考えれば、打算的な女を非難しても仕方ないが、ゆえに正直な心を持った女は価値が高い。反面、男に利用されやすいが、誠実な男に巡り合ったらまことに幸せなカップルになろう。なにより、自分の心を正直に提示できるというのがいい。人を信頼できる最大の要素である。「腹に一物」とは、隠してはいるが企みを持った人間のことをいう。
心に隠匿することと、言葉にでてくることのあまりの違いに人間不信に陥ったこともあった。どう解決したかといえば、「なぜ、そういう風になる、なぜなんだ?」などと、しこたま考えた。ある奴から、「お前は脇が甘いのだ」といわれた。脇の下を舐めて甘い女はいたが、自分の脇が甘いのはなぜだろう?簡単に気を許すな、人の言葉を信じるなというふうに理解した。
そうすれば脇は甘くならないのだろうが、おそらく自分にはできない。明らかに嘘だとわかる文言は営業トークなどいくらでもあるが、気を許した人間と人間が、お互い脇を絞めてどうするのか?などと考えたが、気を許した人間と思うことが早いのではないかと気づく。相手の動向を見ながら少しづつ距離感を縮めていくのが、すかされないコツだろう。
やろうとしたことも、やったこともない。自分には無理だとわかっている。互いに尊敬し合える人間がよい友であるのは分かる。どんなことでも気軽に話せ、どんなことでも気軽に行いを共にできる、が、これだけでは真のよき友とはいえない。安心して付き合える相手、自分の心が何のわだかまりもなく清められるような、そういう相手でなければならない。
そのためにはまずは自分が無防備であるのがいい。無防備な自分に相手がどう対処するかをみればいい。足をすくうならすくわれた時に分かる。が、すくわれる前にその判断はできない。武田鉄矢の『贈る言葉』に、「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」という歌詞がある。傷つくのが嫌だから人を信じないという人間がいる。それはその人の生き方だ。
が、それを良いと思わないなら、信じてみるしかない。自分は詐欺商法や騙しの商売には、絶対に引っかからない自信はあるが、理由は最初から構えるからだ。よって、構えない相手から足をすくわれるなどは多かった。しかし、それで困ったことはない。その時点で完全見切っておさらばするし、相手を見誤ったというお土産付きである。事前に人を知るというのは難しい。
最初から騙そうとするビジネスは100%分かるが、世俗の人間関係で、最初から相手を騙す利益がどこにあるんだろう?心を触れ合う以外の目的で近づいてきたのなら、そういうのは分かったりする。自分はまず人に金は貸さない。どんなに上手く擦り寄って来ようが、「金を貸してくれ」の一発で相手の腹の底を見る。キケロの『友情について』の一篇を自分は踏襲する。
「友情においては次の掟を守るべし。恥知らずな事柄を要求せず、また要求されし場合においても、これをせざること」
マルクス・トゥッリウス・キケロ(B.C106年1月3日 - B.C43年12月7日)は、紀元前の政治家、哲学者である。その時代の彼がこんな良いことを言っているわけだ。人間の本性なんてのは2000年たっても同じもの。キケロには次の言葉もある。「知恵とは、求めるべきもの及び、避けるべきものについての知識なり」。「う~ん」、現代に生かして置きたい一人である。
そういえば…、ケツが痛いの理由を書き忘れた。ウォーキング足を痛めたので歩きを自粛しているが、ならば自転車という手がある。自転車で足の裏は痛まない。まして徒歩では行けない遠方場所に行くことができる。ところが終わってみると、「ケツがいてぇ」。何事も挑戦するのは、「自分はまだまだやれる」との意識があるからだ。今回は子どもの頃の夢を実現させてみた。
夢とは、県境に足を延ばすこと。そんなのはクルマで何度も往来したが、それはそれ。歩いて行くことに価値がある。県境いには境界線のようなラインが引いてあるのか?の疑問。それを確かめに自転車で山口県まで行った。さてとこの辺りのはずだが…?周囲をキョロキョロ看板が目に入る。「よう、おいでました。山口へ」。県境にラインはないが、昔でいう塚があった。
子どものころにしたかったことを50年以上かかってできた。ハレー彗星を見るのも夢だった。見えなかったが…。県境に線が引かれてないのも分かった。後は赤道に赤い線が引いてあるのかを確かめたいが、おそらくないであろうとの知識を信じ、実行しないことにする。川の上流の最初の一滴も何度も挫折した。で、沢を登るのがどれだけ至難であるかは理解した。
人は年をとると子どもに戻る。子どもの頃に買えなかった高価な楽器などを購入した人も多い。あの頃、眺めるだけだったメロンもパイナップルも食べてみた。あとはどういう夢があったか?忘れ物も多くなったが、おいおい思い出して可能な限りトライしたい。そういえばこんな長いタイトルの映画があった。『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』。