「〇〇をどう思いますか?」などのアンケートは頻繁にテレビでもやるが、「アンケート (enquête) 」なる言葉はフランス語である。英語では、「サーベイ (survey) 」もしくは、「クエッショネア (questionnaire) 」という。複数の人に対して、同じ質問をすることによって比較できる意見を集める。さらに回答も定型化することで、意見を明確化するという目的がある。
アンケートは誰でも簡単にできる反面、集計した数字の解釈を正しく理解するためには、世論調査や統計学などの知識が必要になる場合も多いが、マーケティングのプロに言わせると、雑多な人からアンケートで平均値をNPSでとって、それをどのように分析し、反映させるかというのは実は大変なことであり、ただ、取るだけのアンケートに何の意味もないという。
よって、アンケート調査は、手抜きの調査方法と言えなくもない。手抜きの中身は、①予算がない、②時間がない、③他の調査は手間がかかるし面倒。だから手っ取り早いアンケートに頼るというのが、マーケットリサーチャーのマスターの見方である。近年はお手軽・安価なネットアンケートが普及したこともあって、猫も杓子もアンケート。素人でさえそんな気がする。
アンケート結果を一般大衆が鵜呑みにしてしまうのは、まあ、一般大衆だからいいとして、以前女性誌などで定番だったのが、「夫婦のSEXは週何回?」というやつで、主婦の井戸端会議の恰好の話題となった。少ないサンプリング、もしくは作為的に作られた嘘のアンケート結果に、色めき立つ主婦に罪はないが、理解すべきは、個々の能力は人によって異なるということ。
あるいは、環境や趣向などの背景もあって、単に人と人との行為の数字だけではないということだ。民主主義と同じく、一夫一婦制は妥協から生まれた制度である。そもそも人間というのは、さまざまな矛盾を抱えた動物であるが、しかし人間は、自分が納得できる価値が社会に存在してるうちは、そうしたものを抑圧できる。それを人間性ともいえるだろう。
もし、変革期のような価値が混乱していたり、あるいは価値が不在の時代において、人間は矛盾を抑圧できない。なぜなら、価値が不在であるのに、抑圧だけに慣れてしまった人々は、自分が一体何を望み、何を求めているのかが分からなくなってしまうだろう。やさしさというのは、実は自分の欲求を激しくもっている人間に有される情感である。
分かり易くいうと、自分の欲求を激しく持たない現代人にあっては、やさしさが欠如する。つまり、人間のやさしさの本質とは、その人が激しく抱いた欲求が満足されないとき、もしくは、その欲求を断念しなければならないときに出てくるものだとしたら、人間のやさしさというのは、決して美しく評価されるものではないはずだ。掘り下げて考えるとやさしさとはその程度のものであったりする。
「ああ、人生とはこんなにも淋しいものなのか…」、「人間とはこんなにも悲しいものなのか…」。そうであることを自覚し、納得したときに、その人にはどことなく優しさが漂っている。物事を美化するのを好まぬ自分である。「美化」の裏には、「欺瞞」が働いているからだが、人間がどうしようもない生き物である以上、美化や欺瞞が必要なのは承知している。
分かってはいるが、それらを差っ引いてなお欺瞞は心に引っかかり、羞恥を抱かせる。それが自分の童心というもの。「あなたはやさしいですか?」、「とんもない!」。「あなたは頭がいいですか?」、「とんでもない!」。「人間として立派ですか?」、「とんでもない!」。肯定はできないが目指すものである。しっかり物を考え、それに近づきたいし、そうなりたいと努力する。
努力という言葉を使ったが、目的に対する必然的行為である。「努力」が自分を強いる行為なら、努力しない程度に物事を推し進めたい派である。横着というなかれ、実際これまで努力を強いて、続いたためしがない。ただ、努力を楽しさに変換する技術というのか、そういうものは努力嫌いの人間であるからこそ、見つけてきた。さて、上の話の続きである。
「人生は儚く淋しい」、「人間は斯くも悲しいもの」というのを、若い人の自殺の度に感じることがある。なぜにそんなに死に急ぐのか?また、若くして不治の病に罹患し、死を強制される人たちにも生の虚しさを感じたりするが、もし自分が同じ境遇にあったなら、何をどう思うか想像もできない。自分が健常者であるがゆえ、他人の不条理に共感する。果たしてそれがいいことか?
「他人事」という言葉は好きではない。他人とは本人にとっては自身。自身のことを他人から見て他人事というが、本人からすれば「自分事」である。他人への想像力は欲求であろう。他人の悲しさや儚さを味わうためには、淋しさ、苦しさを生み出す激しい想像力が必要となるが、現代人は欲求を失い、風俗、伝統などの歴史的拘束力に縛られて生きている。
あるいは、自身にとっても他人にとっても差し障りのない「観念世界」に逃避する人もいる。現実的思考の対極である観念的思考は、薬になれど毒にはならないし、毒に踏み込まんとする勇気がないからか?観念思考もいいが、なぜに現実を思考する欲求をもたないのか?自分自身に嘘をついている、もしくは社会や観念世界に飼いならされているからか?
他人のことは分からないが、たまに自分を戒めることがある。自分が社会に飼いならされているなら、昔の野卑な自分はどこにいったのか?成熟といえば聞こえはいいが、体制に自らを繕っているのではないか?体制に迎合し、心の奥底では納得できない生き方をしていないか?いつも本当の自分を見つめようとしているか?などと自問してみるのである。
差し障りのあり過ぎる自分の記事は、"えぐい"と自ら思っている。が、本当の自分を見つめようとすれば自然とそうなる。自己を見つめ、自己に挑戦的でなければ書けないし、若き自分なら批判を気にして書かない。本当の自分を見つめるのは勇気がいる、よって人は自分の嘘の中で生きる。自分の嘘は他人への嘘となるが、おだやかにいえば服を来て外出するようなもの。
子どもの教育や躾についての主観、夫婦や男女の在り方についての主観、社会の理不尽な事象についての主観は非難を伴う。主観を恐れないのは、内なる己の真実を恐れたくないからだ。自分は本当は、「こう思う」し、このように、「考える」。そうした真の姿を偽ってしまう人には、溌溂としたエネルギー感がない。と、たまに他人のブログを読んで感じる。
自らの勇気を喧伝したいわけではなく、正直に書くのはある意味、「バカ」さ加減である。主観的に書いた、自分の真の思いを相手にぶつけた、それでどうなる?結果は起こってからのこと。妻は夫、夫は妻、親は子ども、子どもは親に己の真の姿をぶつけるのは、激しいぶつかり合いの過程にある。結果、何が生まれるのか?行為から何かが生まれるのは必然だ。
何事も結果の前にはプロセスありきが物事の道理。対立を避けることは対話を避けること。日本人的「和」の精神が充満する場において、「対話」は死んでしまっている。観念的対話を好む人に現実感がないのは、生の実在感が薄いと感じるが、隠すというのも人間の良心である。若い時分には観念論的対話ばかりしていたが、経験を積めば観念論など不要である。
今はそういう事はしたくない。やれば観念論好き論客も舞い込み煩わしい。ロジックの向上に寄与はするが、この年でそこに逃避することもない。人はいろいろだ。ひと年とっても、「自己の楽しみは他人の不愉快に支えられている」という人もいる。隠匿はすれどそんなものは言葉に表される。人をやり込めて満足する人間にやさしさなど微塵もないが、それが楽しいという人なら結構なこと。
話は変わるが、結婚は文化である。性欲は文化ではないが、婚姻が性欲の発露に寄与した点においても結婚は文化である。一夫一婦制も文化である。一夫多婦性に比して男の性欲発露は抑制されるが、社会を平安に導く点において前者は文化、後者にも文化と定義できる利点がある。食欲は文化ではないが、食欲を三度の食事にしたのは文化であろう。
しかるに文化は抑圧的である。その文化を抑圧足らしめているのは平凡礼賛である。平凡は常に日向である。ゆえに加害者でもある。キリスト教はユダヤ教という民族宗教から興ったユダヤ人に背を向けた宗教であり、実はこのことが大切である。なぜキリスト教は大きな影響力をもったか?それはユダヤ教という一民族宗教の自己否定の上に成立したからだ。
自己否定は大切、自己否定が真の自己を造る。キリスト教は初めから人類に恵みを与える宗教ではなかった。なぜなら、ユダヤ教はユダヤ民族の宗教であり、彼らは歴史の終焉に栄光の座にすわるのはユダヤ人というユダヤ教を信じた。どこまで行けど選ばれし民としてのユダヤ人。そのユダヤ人を否定してキリスト教が生まれた。知識の浅い自分にとっては謎。
調べる気もないが、有体にいえば特殊性の否定の上に普遍性が生まれた。そうした普遍性こそが真の普遍性であろう。最初から普遍性を謳う宗教などインチキに決まっている。すべての道は特殊を経て普遍に至るものと考える。科学の大発見も、すべて最初は特殊とみなされたように…。皆と同じであるという平凡も、やはり特殊な自己を通じて到達する。
したがって、己の特殊性という自覚無しに到達する平凡な生活者こそ被害であろう。自分が他人と違うことを怖れる必要はない。付和雷同を嫌う根拠はそこに見出すべきで、自分という存在が、他人と違うのだという特殊性の苦しみに慄くことはない。艱難辛苦を通過した人たちは、そういうプロセスのない平凡な生活者に存在する加害者意識は、決して持たないはずだ。
身障者を特殊と見、そう位置づけるのは事実だから構わない。彼らは自分という存在は他人とは違うという特殊性を感じている。したがって、無用な同情や、過度な庇護はすべきでない。彼ら自身が、斯くの人間に直感的な何かを感じるという。自分という特殊性に苦しんだ人たちこそ許される平凡な生活者である。健常者を歪んだ視点で見ない彼らは加害者とならない。
以前、身障者に供与される駐車禁止免除のカードを持っているにかかわらず、それを使いたくないという女性がいた。なぜ使わないという素朴な疑問だったが、いろいろ聞いてわかったのは、障害を持たぬ他の兄弟とわけ隔てなく育てたいという父親の存在である。彼女は足に障害があるが、まあ普通に歩けている。よって、クルマをどこにおいても許されることにはならない。
と、これは彼女の言い分である。言われてみて初めて気づかされたが、「むやみな利益供与を望むな!」はおそらく父親の信念であろう。与えられた制度は利用であって、悪用ではないが、普通の人と同じでいたいという気持ちの彼女にとっては悪用なのである。「罪の減免」という罪を負いたくないという彼女から、親の教育的態度と、人間の振幅というものを教わることになった。