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Channel: 死ぬまで生きよう!
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もっと気楽に…

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             「こうするのが絶対にいい!」と、思っていても、実はそうでなかったりする。それが思考から


10月に入り2度のウォーキングを行った。足の調子を見ながらだが、歩行記録アプリ入り携帯を持参しかなかった。理由は、「気楽に…」である。歩数、距離数を記録しないことで得たものは?問われれば、思いの通りに、「お気楽さ」であった。数値は結果で、結果は認識としての楽しみであった。決して目的ではなく、あくまでもフランクな結果把握である。

無理を強いてやるウォーキングではなく、主体性をもってやっていた。家に帰って今日の結果を見る楽しみもあって、数値はモチベーションに寄与していたと思うが、携帯を持参すまいと思ったのは、足を負傷したことも大きかった。足を気づかい、配慮しなければならない現状にあって、自分の意図するような結果も得られず、ならば数値の意味はないと感じた。

ならばいっそ、数値なしで気楽にやるべしの思いにいたった。携帯を持参しないで歩いてみて感じたことは、どのような理由であれ、自分が数値に依存していたのがよく分かったし、分かったことで新たな考えに至る。数値を決して目的とするのではなく、単に行為の結果と思っていたが、数値を放棄して感じたのは、思った以上に気楽に歩けたことである。

数値は無意識に自分を縛っていたのだろう。数値を解き放ってこれほど自由な気持ちに至れることが、どうにも不思議な感慨である。自由に生きることは「依存」からの解放であり、そのことは知っていた。人間はあらゆる依存から解放されることはできないが、できるだけ多くの、可能なかぎりの、不要な依存から解放される生き方をすべきとの考えでいた。

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      これはもはや対策である。このようになるであろうことを予測して、対処しておくのが教育だ。


「不要な依存」というのは可笑しな言葉だ。不要でないから依存するが、これは都合のいい思い込みである。必要が真に必要かの疑問を呈し不要を是正する。つまり、価値の序列を変える。こういう話がある。会社の中枢にいたインテリが精神を病み、精神病院に入院した。治りかけの頃に母親が見舞いにいくと、彼は雑巾片手に部屋中雑巾がけをしていた。

雑巾がけがエリートの仕事であるはずがない。パートの掃除おばちゃんの仕事である。が、彼は医師にもいい、母にもいった。「雑巾がけが楽しいんです」。彼の気持ちを主治医は理解したが、あまりの惨めさに母親は、「可哀想で見ていられない」と言って泣いた。そして先生に、「お願いだからやめさせてください」と頼んだという。誰より息子を理解すべき母親がである。

母親は息子の心など理解するどころか、虚飾の世界を息子に強いていたのである。なぜか?親の見栄がそうさせた。息子は母親の求めに呼応し、それが自我を破綻させた。母親よりも精神科医の方が、息子の心を正しく捉えているなら、息子は病院にいた方が良いということになる。つまり、そういう母の元で一緒に暮らすことが、息子によくないということになる。

「病院より家がいいに決まってる」ではない現実を、この話から知るべきだ。もっとも、母親には永遠に分かるまい。彼女には息子の心より大事にしたい見栄や欲がある。確かに、本音として職業に貴賤があるからこそ、「職業に貴賤なし」と言うのだろう。医師や弁護士が社会的地位が高いのを誰もが知っている。会社で平社員より役職者が偉いのは誰もが知っている。

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         オッカちゃんのためなら、「エ~んやこら!」、もひとつおまけに、「エ~んやこら!」


そうであるなら我々は、自分が本当にやりたい仕事、つまり、生きがいを感じる職業を選択する他に、社会的評価としての仕事を考えるであろう。つまりこれは職業によって自我を支えるということ。自分の職業を明かすのがつらい人、率先して明かす人、とりわけ普通に明かす人がいる。自分は対人関係で職業を聞くことをしないが、自主的に言う人はいる。

言いたくても言いたくなくても、聞かないのが自分のスタンスである。打ち解けていろいろなことが分かるまでは、根ほり葉ほりプライベートは聞かないのは、礼儀というより、先入観を捨てて人と接したいからだ。「聞いても変わらない」と言葉に出すが、自身の無意識の深層は分からない、だから聞かない。人が好きな仕事に従事しているとは限らない。

好きなことだから上手くいくとは限らないのが仕事で、かつてある楽器店の経営者が言った。「自分は音楽に興味ないし、何一つ楽器も弾けない。この仕事は親がやっていたからで、趣味や仕事で楽器を必要とする人のサポートをできればいいと思っている」。この言葉をビックリして聞いたのが10代の後半で、若輩の自分はこのことを理解できなかった。

音楽好きの自分は、楽器店やレコード店経営は、毎日音楽に囲まれて幸せ気分に思えた。「美」に強い興味を抱く美人の同級生が、銀行勤務を止めてノエビアを始めたときに、彼女は成功するという予感はあった。彼女の美貌がなにより説得力になるだろうと。資生堂やカネボウなど、大手化粧品を扱う商店と比べて、対面販売のノウハウで彼女は成功した。

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         ノエビアで随分儲けてカネを貯めたらしいとは周囲の評。儲かるらしい、確かに…


どういう理由か知らない、経営が下降したのかどうかも分からないが、突然彼女はノエビアを辞め、イタリア料理店の経営を始めた。あまりの突然の変貌と、まったく畑違いの業種転換に誰もが驚いた。誰も「なぜ」を聞かないし、自分も聞かなかった。彼女には当てはまらないが、人は職業的偏見で人を見る。物事の真実は社会的評価に関係なく存在する。

結婚という形式をとらない麗しきカップルがいる。結婚していてながら破綻カップルもいる。突き詰めて考えると社会的評とか、結婚とか、およそ形式というものは、世間的評価を得るものであるが、真実を得られることがなかったことの代償に過ぎない。と、そういう見方も可能である。本当のものに巡り合えない人間の満足感が、「形式」であったりする。

日本人が形式好きであるのは、ホンネよりタテマエを重視するからであろう。これらは結婚式のバカバカしい演出に強く現れる。形式か真実かの択一でいうなら、自分は形式打破を好む。なぜか?人間は真実に触れてはじめて強くなるし、身をもってそのことを実感した。だからか体系としての宗教には何の興味もない。宗教者の良い言葉は是々非々に素直に受け入れる。

強くなるとは一人で生きていけることでもある。言葉を変えるなら、「依存」しないで生きて行く。地位やおカネに依存、親に依存、子に依存、あるいは神に依存…。異論もあろうが、依存が人間をダメにすることはある。「不要な依存」といったが、アレも必要、コレも必要ではキリがない。何が必要で、何を不要とするかの決断は大変というが、執着心なき人は簡単だ。

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          幽霊さんだって、この世の誰かに恨みがある。執着を捨てて成仏いたしましょう!


とあらば、問題は執着心で、これなき人が自由人と言われる所以である。自由とは、何かにとらわれないことが一義である。人は人とし、自らの考えを主体にする人がいる。別に悟っているわけではない。自分と他人を比較してどうのこうの、人との比較で幸せ不幸せもなく、自身の絶対的価値を持つ。持つとは作っていくこと。いい言葉でいえば創造である。

何でもいい、何かを始めたら自分の形を作る。例えば恋愛、例えば夫婦、例えば子育て、例えばブログ、例えばウォーキング…、やるものすべてに既存の価値観を組み込まない。踏襲もしない。自分で考え自分で作って行けば、それが自分のものだ。前にも書いたが、ブログを始めたときに、手取り足取り、「ブログはこうした方がいいよ」と親切な人がいた。

その方は大学の教員だから、人に物を教えるのが沁みついているのだろう。よく言えば教えたがり、悪く言えばおせっかい。助けを求む人には幸便だが、自分には無用の節介だった。折角の教え、折角のアドバイスを一切無視した。彼には彼の、「良い」があるように、自分には自分の、「良い」がある。「コメント」の数や、「ナイス」に依存するって違うだろう?

なにかをやるにおいては、本質を見つけることだと思っている。そういうものがないから依存にぶら下がる。別の言い方をするなら、自分を規定できれば依存は無用となる。ならば、「人は人、自分は自分」の考えは必然的に生まれてくる。創造者は人のマネをしないし、さらに有能なる創造者は人の先導に立つ。自分はそこいらの普通のオッサンなので先導は無理。

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    まさか、ちちを出して扇動したとは思いたくはないが、それなら何でしまわないんだ?
 
素朴に自分のものを定義して生きれたらいい。確かに、自分のものを見つけるのは大変かも知れないが、大変でない者には何でもない。昨日今日、始めたのなら大変かもだが、半世紀も前からやって来たことである。他人と同じ自分を見つけて安心するのではなく、むしろ他人と違う自分を誇りたい。「ワシはワシよ。文句あるか!」声にはしないがそれが自分。

こういう事を声にすると付和雷同人が、「上から目線」と批判する。そんなに金魚のポンポンの居心地がいいのか?自分には理解できない。基本、人が右なら左に行くが、左が危険なら止める。人が〇なら×を挙げたいが、偏屈というより、少数意見に理を見出そうとする。「多勢に無勢」という考えはすきではないが、長谷川豊の考えは持論というより下衆の煽り。

彼をバカと見据えて以降、彼の発言に一切反応しないと決めた。「しない」と言ったらテコでもしないところがある自分。アレ以降もいろいろ耳に障ったが、反応するのは、彼の煽りに踊らされたことになり、その手は桑名の焼ハマグリ。煽りバカの彼はマスコミ人として不適格で、それに踊らされる人間は彼のファンならご自由にだが、そうではない人は批判すべしだ。


ファンとは是々非々であるべきで、信者こそファンとの考えもあるが、羽生名人の寝癖に賛同するファンの怖さを感じた。カープのある選手は言った。「いい時は喝采くれるが、悪いときはひどく野次られる。辛いけれどあれが本当のファンでしょう」。「悪いとき野次を言わないファンが有難い」という選手もいる。ファンもいろいろ、選手もいろいろだ。

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      「ああ、勉強せんといかん!」、「なぬ!勉強するくらいなら外走ってこい」と、誠也の父だった


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