相性とは、二人ないし複数の人間が各々持つ性質や性格が合うかどうかのことである。と、これが単純明快な考えであるが、「人間同士の性格の類似や適応を判断する現象」との説明もある。なるほど相性においても「現象」という語句を使うのか?「超常現象」は別にして、一般的に現象とは、「人間の知覚できる、すべてのものごと」と理解していい。
「相性のいい夫婦」、「相性のいい友人」などが一般的な言われ方で、「親子の相性」というように相性は親子にも使われる。ということは親子にだって相性ってあるんだ?血が繋がっているからと言って、相性が合う、相性がいい、とは限らない。4人の子を設けた自分は、子どもに対して相性がどうのなど考えたことがない。贔屓しないよう気を使ったのはあった。
以下はとある相談実例だ。「実の親子でも相性が悪いってあるのでしょうか?3人姉妹ですが、小さい時から私だけ可愛がってもらえなかった。母は、他の姉妹の事は心配したり、話を聞いてあげたりしていましたが、私だけ違いました。父も、私だけ今思えば虐待に近い事されてました。ベルトで叩かれたり、タバコの火を手の甲に押し付けられたりしました。
現在は母と私の家族と同居です。母とは、今でも良く言い合いをします。同居解消したいですが、新しく家を建てているのでムリです。性格が合わないのは、もう諦めるしかないのでしょうか?」。これって相性という現象なのか?親がこの子だけをのけ者にしたのは、単に嫌っていたからなのか?では嫌った原因がその子と親の相性の悪さであるのか?
相性が悪いから嫌うのか、嫌うから相性が悪いというのか、どちらもあり得る気がする。自分の経験でいうと、30代のころ、相性が悪いと感じる同僚がいた。口の利き方がどこかしこ冷徹で人間味がなく、話していて面白くない。面白くないから仕事上の有用な話以外はしないし、避けるし、相手は自分を疎ましく思っていないのか、よく話をしてくる。
同僚は自分と特段相性が悪いと感じてないようだったが、自分は彼との相性の悪さを認識した。思うに口の利き方、物言いにおいての、相性の悪さを実感した事例である。上の親子の相談事例は、他人のことゆえに的確な判断には及ばないが、本人が相性の悪さを認識しつつ、「血の繋がった親子でも相性の良し悪しはあるのか?」と疑問を呈している。
なぜ両姉に比べて自分は親から疎まれていたのかが、判別できないようで、それを相性と結びつけようとしたようだ。現在彼女が同居中の母親を疎ましく思うのは、子どもの頃に虐げられたことが原因でもあるようだし、同居を解消したいくらいに母親を嫌っている。相性の悪さといえばそうとも言えるし、幼児期の体験が要因であるかどうかは他人には分からない。
今となっては相性がどうこうでなく、嫌いな母親ならそれでいい。親を嫌ってはならない法律も法則もないのだから。自分の精神を害する人間を無理に好きになろうとすると、ストレスになり、精神を病むからやめた方がいい。ある女性がこんなことを言った。「私は自分の嫌いな相手でも、なんとか良いところを見つけて、嫌わないように努力します」。
一見、良い子の法則みたいなことをいう彼女に自分はいった。「あなたが彼女を嫌う原因はあなたにないでしょう?彼女にあるとしたら、あなたは彼女の嫌なところを指摘できるんですか?しようと思うんですか?そんなことできないでしょう?だから、自分が耐えて、何とか険悪な関係にならぬよう、嫌いな相手を我慢して好きになろうとしてるんでしょう?
人は嫌いなものを好きになれるほど強い心をもっていないと思うけど…。嫌いを嫌いと言えないからそうしてるんじゃないの?それが人間の弱さだし、あなたのようなガンバリ屋さんは鬱などの精神疾患になりやすい典型だな。嫌な相手に無理に合わせていい子ぶって付き合ったらストレス溜まりまくりだろ?」。聞き終わるや否、彼女はこのようにいった。
顔は半泣きである。「そうなんです。実はわたし、前の会社で精神が壊れました。もう辞めるしかないくらいに追い込まれ、いい会社だったんですが退職して今はパートです。いい人になってはいけないんですね?」。「まあ、そういうことです。あなたのようないい人でありたい人は、自分を追い詰めるから自我が壊れて、だから最後は逃避するしかない」。
自分はこの手の「いい子」の病理をよく理解できる。相手の無神経さや、思慮の無さや、激しい情緒の起伏などの責任を自分が取る必要はないのだし、飲みに行こうと誘われて断って、それで相手が機嫌悪くなる責任を、何でこちらが取らねばならない?そうできない人、責任を感じたり、悪いから嫌でも付き合うということをする人間が心の病にかかる。
男と男の世界は底に対立がある。女性は融和・同調で、そこが男と違うところ。男は嫌なことを嫌といっても、相手は理解しようとするが、同調型の女性は理解よりも怨みとなる。女の付き合いの難しさは話に聞くだけだが、いろいろ聞くに男ならやってられん陰湿さがある。女性と話をしていると、「うん、判る判る」、「それすごく分かる」などと言う。
つまり女性の「分かる」、「判る」というのは、私とあなたとは一緒との意味のようだ。もし、「分かる」ということが、考え方が同じになる、気持ちが同じになるというなら、必ずしもそうではない。一般的には、いろいろと話し合っているうちに相手と同じ考えや同じ気持ちになる事もあるが、そうなれることのみを、「分かる」というのなら、何とも視野の狭さであろう。
学校の授業や講義を受講して、「分かる」というのとは違うし、人間関係における、「分かる」ということ、つまり、人間が誰かを深く理解するということは、その人と交わりを増し、いろいろと話し合う中で、相手と自分は本当に違うということを思い知らされること。それも、「分かる」である。相性が合わない、悪いとゴタゴタいうのではなく、違いを知って、さてどうするかに進む。
自分と相手は同じように考え、感じていると思っていたのに、 一つ一つ具体的に詰めながら時間をかけて話していると、ここの部分は相手もこう考えると思っていたのに、微妙に違うことを知ることになる。それが、「分かる」の大切さであり、それが真の相手理解だと考える。異なる環境で育ち、背景もまるで異なる。そんな相手と自分はこんなに違うものなのかと…
同じものを見てもまるで別の感じ方をし、受け止め方をするものだというのが分かってくる。ならば、それを相性が合わないことだが、だからといって、「二人はダメ」なのか?別々の色が集まり混ざって一つの光になるように、違うもの、別々のものが混ざって一つに価値にすべきである。離婚原因の多くは、「価値観の相違」、「性格の不一致」などの理由が言われている。
おそらくキレイごとに殉じたキレイ言葉だろうが、きれいごとに真の意味はない。二人の喧嘩を収めることができなかった、至らなかった。互いが突っ張りあえば物事は平行線だ。性格は不一致が当たり前だと思うのだが、後は価値観については双方がよくよく話し合って、子育てなり、将来の展望について、現実的な目線で解決することだ。婚姻は夢物語では決してない。
親が子に夢を託すこと、それは親の「性」かも知れぬが、親の身勝手な都合で子どもを親の自己満足の手段にしていいはずがない。子どもの「夢」なら協力すべきだが、子どもにとっての親の夢など何の関係もないし、親の夢の実現のために努力するいわれもない。そのようなことをシビアに語り合って、真に子どものための価値観を発見するのが親の務め。
いかに女が視野が狭くとも、事実に素直に向き合い、「私はこんな時にこんな風に考える癖があるし、思い込みもあるけれど、この考えに沿って何かを実行すると、うまくいかないことが多い。あなたの言うような、もっと別の大事な視点があるのに気づかされました」というようなこともあり得る。ようするに、深く、厳密に、さらに厳正に考えるべきである。
思慮の浅さは、浅い行動に現れる。気 持ちが一緒になるとか、考えが一緒になるというような理解は決して幅の広いものではなく、相手がウルサイ、聞く耳もたぬという判断による妥協の産物は真剣な子育てとは程遠い。子どもの責任を果たして親が取れるのか?失った時間の責任をどのように取るというのか?と、子どもの話になるとつい熱くなってしまう。
また、相性の良さというのは、"合意が簡単にできるこということ"でもない。そんなに簡単な合意などであってはならないはずだ。相性の良さとは、真剣に話し合える時間を持てる同士であることではないか。そこから生まれる結論は意義深く、意味のあるものに違いない。したがって、大事なことは夫婦の真剣な会話で、ああだ、こうだと時間をかけて話しあうことである。
そのことで、他人にとって当たり前のことでも、自分たちにとっては当たり前でないとか、自分たちにとって大したことではないのに、他の人にとっては、「スゴイ」などと言われるとか、自分と周囲の関係性も含めたさまざまなことが分かってくる。これらのことが広い視野で判断したということになる。最後に常々思うのは、親の狭い視点や価値観に育った子は憐れである。
当たり前といえば、人は己の容姿を選んで生まれないことも、親を選べない、環境も選べない、そんなことは当たり前である。「女はブサイクでいい」と書いても、「そんなの慰めよ。いいわけないでしょ?」と承服しない女性もいるだろうが、慰めではない、当たり前のこと。自分の努力でどうなるものでもない容姿なら、どう生きるべきかを提示し、書いている。
当たり前に承服できないなら、好きに生きたらいい。物事がわからぬ人間とは、そういう人間をいう。相性が合う合わないと簡単に言うが、それで物事が解決するか?解決する気がないからいうのだろう。台風・地震などの天災は回避できないが、相性の不適合は人災である。よって、人と人の相性とは、「ある」、「ない」を問題にするより、適合努力すべきだろう。