「それって皮肉ですか?」
と言われてマズ驚く。皮肉なんて頭の隅にもないし、ズバっというのは思ったことそのまんまだが、なぜ相手には皮肉と映るのだろう。「皮肉じゃないよ」と答えるのもバカバカしい。なぜなら言い訳にとられるとかえって逆効果。「男は皮肉なんか言わないと思った方がいいよ。皮肉をいう男はつまらん男だよ」と返したことがあるが、どう相手に伝わったか?
少なくとも、「皮肉じゃない」よりは、根本否定になっている気はするが、相手がどう感じたかは次の言葉で判断するしかない。皮肉とか嫌味とか、どういう時に出され、またどういう気分で口にするのか、「皮肉」に縁のない自分にはわからないが、皮肉でないにかかわらず他人にそう受け取られるのは、受け取る相手が皮肉を言う人間だから、自分はそう受け取る。
皮肉を言わない自分は、相手の言葉を皮肉と受け取ることはないが、それでも発した言葉がいかにも皮肉に満ち足り、明らかに嫌味という言い方であれば、さすがにバカでも分かる。「男のくせに女の腐ったような言い方するんじゃないよ」などと言ってやりたいほどに、つまらん人間だよ。皮肉なんか言ってないで、なんでハッキリ自己主張しないのか?
そのように思うが、皮肉や嫌味という人間は、ハッキリと直接的に物が言えない人間の心の弱さがもたらす攻撃的心理ではないかと考える。強く言えないゆえのあたりさわりのない言い方で相手を批判するから攻撃的になる。批判を悪と考えるからではないか?それプラス陰険な性格も皮肉すきになるのかも知れん。批判を悪と捉えなければ、皮肉より堂々批判をする。
批判は攻撃ではないが、ただ、相手によれば攻撃と取る人もいる。そういう人は批判=否定=攻撃という三段論法的解釈をするのではないか?いうまでもない、曲解であるが、人が事を曲解する責任はこちらにはない。さらには自分を攻撃してくる人と仲良くしたいと思う人はいないし、円滑な人間関係の多くは言葉の誤解や曲解から生まれ出るのだろう。
嫌味や皮肉が人間関係を悪くすることがあるが、嫌味や皮肉でなくても悪くなってしまうだろう。本当に伝えたいことを伝えることができるようになり、また伝え方も相手の心を害しようなどがないなら、当然にして言い方に配慮がなされるはずだ。若いことならそういった配慮は身につかないにしろ、感じたことを率直にいう訓練から身につくものだと思う。
「訓練」としたが、やはり思うことを率直に述べるのは訓練であろう。なぜなら、「思ったことを直接的に述べるのはよくないこと」というまことしやかな考えが、「和を以て尊しとなす」の日本人社会の底流に存在するからであろう。だから差し障りのない表現や、奥歯に物がつっかえたような、本音を抑えた回りくどい表現が日本人の文化になったのか。
批判は悪ではない。異論・反論も悪ではないが好まぬ人がいる。人間関係の基本を融和と考える人は、異論・反論を嫌がるようだ。よって異論や反論に免疫がなく、驚き、怖気づいてしまう。それによって委縮し、批判する相手を攻撃的な人とし、自分には合わないと避ける。こういう状況をどれだけ経験したことか。経験を通して身につけることは人を選ぶことしかない。
避けられる、厭われるのは、相手の都合だから受け入れるしかないが、問題はそういう風に相手を追い込むことにある。真っ当な批判でさえも攻撃と感じる人は、その人がこれまでの平穏無事な生き方に反することだろうし、他人の平穏無事な人生を荒らすのは罪なことである。「なに事・かに事」に問題意識を抱く人間は、口を開けば他人を攻撃している。
物事を相手の目線において思考すると、そういう事が見えてくる。それならどうするかであるが、相手から吹っ掛けられない限り問題提起しないことに行き着いた。いかなることにさえ問題提起し、語ることを厭わない自分ゆえに、されど自己中心主義は理解されない。ソクラテスが道行く人にあれこれ問いかけたのは、彼が人間を卑下しなかったからだ。
だから誰に対しても臆面なく話しかけられる。ソクラテスを真似るわけではないが、人を卑下しない対等さを旨とする人間は、純粋にソクラテスのようになり得る。決して彼は奇人でもなく、才人ぶりをひけらかしていたわけではない。生涯にわたって真実を愛し求めた彼は、どんな時でも真実を基準に行動するという人間愛に燃えていた人である。
人間が自由の境地に向かおうとするなら、他人には誠実となり、策略や計略は「おろか、嫌味や皮肉を言って誰かを攻撃しなくてすむようになるし、良い人間関係を構築ないし改善していくことができる。自由は素朴な美の愛に通じているからであろう。それはさらに知の愛へと昇華していく。人間は富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らないで済む。
身の貧しさを認めて何の恥であろうかとなる。さらに人間が社会的動物である以上、公私いずれの活動に関与しないことを、"閑暇を楽しむ"というのは間違いで、それは無益な人であろう。無知な時には腕を奮い、勇を奮うけれども、いざ理詰めにあうと勇気を失う人間がいる。「徳」とは人から受けるものではなく、むしろ人に施すものであろう。
人は自分にさえ分からぬこと、それを他者から教えてもらうこともできない問題に遭遇する。これを苦悩の生まれ出る時期という。どうすべきであろう。聖人なら答えを出せるだろうが、否、自分はどうしてきたのだろうか?快適な生活を文明の力とし、その施しを受けた人間に比べ、動物は厳寒に立ち、猛暑に耐え、食糧難に彷徨うなど自然の理力で生きている。
人間は苦しみに耐えきれず、自らの命を投げ出すからして脆弱である。苦悩は生命力で持ちこたえるしかあるまい。よって何かを信じることは大したことである。それは宗教においても言える。イスラム教徒のあの、神によって生かされているかのような絶大なる信仰心は、大したことに思える。自分は神と無縁の生を選択し、これは何ら大したことではない。
子どもの頃は神を盲信していたかもしれない。「神様お願い」と手を合わせたこともあった。が、信じたものと自分との間に距離が出来、それについて自身の内面にあって眠っていたものが呼びさまれていった。神託よりも人間力に目覚めていったようだ。「人間力」などと、いつごろ生まれた言葉であろうか?漠然と定義はできるが、Wikiでは以下の説明がなされている。
「人間力」とは、社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力とある。しかるに、「人間力」という語そのものは、通俗的に使われ始めたようだ。ま、自分は人間の力、即ち、人間ならあらゆる場において、その力を発揮せよと捉えている。負けたくない、自分に、自分という人間に押し潰されたくない。
自分が自分をコントロールできずして、何の自分であろう。したがって神託を廃すとの考えに至った。神は人間をコントロールできないのだと。神は強大にして絶対善であり、人間はその過ちや脆弱性において神に適うはずがない。だからといって神に自らを託すなど考えも及ばない。間違えど、苦しめど、人間は人間の力で生きて行くべきであろう。
神の皮肉
人はみな名誉と権力と地位を求め
バベルの塔を天高く積み上げる
ただ天を見上げ上昇しようとする人々
できるだけ上へ上へとのぼりつめようとする
ああしかし、皮肉なことに
神は低きにくだりたもうた
しかも、十字架という底の底まで
上昇しようとする人々
低きにくだりたもう神
ああ、この神の皮肉
さらには皮肉や嫌味の多い人間は、陰湿で陰険という性格の悪さを如実に感じるし、心の健康な人間はそんな言葉は浮かばないと思うのだが…。皮肉・嫌味は相手の心を害す健康的な言葉ではないし、健康的な言葉でないならおそらく精神が健康的でないのだろう。皮肉や嫌味についていろいろ調べたり思考をしてみたが、このような記事が見つかった。
名誉と権力と地位を求める愚か者への神の鉄槌。鉄槌という語句が皮肉と替えられたのは、神の慈悲であろうか。どちらでもよい、我には関係のないことだ。神の皮肉などより、問題にし、思考すべきは人間の生む皮肉や嫌味の存在だ。というところで以下の記事が目に入った。「皮肉」を学者の領域として研究した東フィンランド大学の脳神経学者である。
アンナ・マイヤ・トルパネン博士率いる研究チームが、平均年齢71歳の1449人を対象に、世間や他人に対する皮肉・批判度を測る質問をして、同時に認知症のテストしてみた。質問の内容は、「出世するためにみな嘘をついている」、「人は信用できない」、「人は自分の利益になることにしか積極的に動かない。」などの項目から脳に与える影響である。
その結果、人は利己的な関心だけでしか動かない、誰も信用できない、と強く信じている人は、それほどでもない人に比べて、約3倍も認知症になるリスクが高いことがわかった。この数値は高血圧、高コレステロール、喫煙などの認知症に影響を与えるものを調整した後のものであるが、この結果についてトルパネン博士は、このように述べている。
「皮肉な性格と認知症を結びつける科学的な証拠はまだはっきりしないが、この結果から、個人の性格や世の中の見方が、その人の健康、さらには脳にまで、なんらかの影響を与えているというある程度の証拠を示している」。人間には様々な自己防御本能がある。嫌味や皮肉もそれに該当するが、他人を攻撃しない人間は、情緒が安定しているからであろう。
以下は女性がよく言う言葉である。「私なんて、どうせみんなから嫌われているし、誰も助けてなんてくれないだろし、誰も私のことなんてわかってなんてくれないだろうし…」などは明らかに情緒不安定に見受けられ、そこから派生する卑屈な物言いが嫌味や皮肉を生む。「助けてほしい」、「大切に扱ってほしい」、「判ってほしい」、「認めてほしい」…
これらはまだ素直な段階だが、長期間改善なきままに続くと、人は疲れ、素直さも消滅し、上記の皮肉言葉が顔をだす。卑屈な人間に陥ると、相手からすれば、「助けたい」、「励ましてあげたい」、「力を貸してあげたい」などの善意が後退する。人の力を宛にしたいなら、「誰も何もしてくれない」などの自尊心を捨て、乞食のように素直に道端に座して頭を下げるべき。