「男はブサイクでいい」。自分が男だから思う部分も確かにある。即ち男から見た男観であって、残念ながら女性から見た男観を述べることは男の自分にできない。が、そこは長年の経験や様々シュチなどから、ある程度女の男観を眺めることは可能である。「見る」は「知る」であり、見ないで知ることはできない。「見る」というのは、「聞く」も含めた現状把握のことだ。
確か24歳のころと記憶する。自分にとって驚いた事件があった。事件といっても警察沙汰になるような、そういう事件ではなく、「事件だ、事件!」などと巷でいうところの事件。つまり人々が関心を引く出来事である。当時付き合っていた女性の同僚で、彼女が急きょ結婚をするということで退職の運びとなった。その女性には長年付き合っていた彼氏がいたのは聞いていた。
ところが、結婚相手は彼女より14~5歳上の中年男であるという。男は大変な資産家でベンツの高級タイプを乗り回してた。現在のような並行輸入やディーラーが整備されたの時代とは異なり、当時ベンツを乗るのは巨人の長嶋や力道山や石原裕次郎、それにヤクザの組長くらいしかいなかった(多分に比喩だが)時代である。点検や車検費用などの維持費もバカにならない。
現在でもBMWの純正オイルで3万円近くかかったという事例もある。彼女はハーフフ系美人(おそらくハーフ)で、顔の皮下脂肪ゼロと言えるくらいに小顔でモデルのような容姿だった。そんな彼女であるだけに資産家に見染められたのだろうが、結婚式に参列した自分の彼女に披露宴の写真を見せてもらって一言、「なんでこんな男なわけ?」と思わず口にでる。
30代半ばにしてこのメタボ、毎日フォアグラ食ってるとしか言いようがない。まあ、当時メタボという言葉はなかったが、まさに百貫デブであった。顔もデブ特有のまんまる顔に、探さなければ分からないような、申し訳程度についている細い目が今でも脳に焼き付いている。「木村さんって、そういう子なんだ」と自分。「そういう子」とは結婚のためなら彼氏を捨てるの意味。
彼女も自分も若かったせいか、「花より団子」の意味も分かり得ず、女が玉の輿婚を夢見る心情など考えてもなかった。あまりの心変わりというか、変質ぶりに二人は呆れ、交わすのは批判の言葉ばかり。「結婚は日常であり、現実的なもの」という言葉を知ることもなく、理解もできない当時の自分であって、彼氏を捨て、お金持ちを選んだ女を大層醜いと感じていた。
ふとテレビでハーフ系タレントを見て彼女のことを思い出したが、彼女似のショートカットの似合うそのタレントの名は知らない。セシルカット、ショートヘアの似合う女性は、髪型の恩恵を受けない部分、地美人系が多い。近年はやたらロングヘヤーが目立ち、確かにロングだとブスも普通に格上げなるが、「シャンプーもドライも大変だろうな?」と、思わずにいられない。
美女があんなブサイクな男でもいいのか?という現実に触れた一件だった。確かに美人とブサ面のカップルは普通に存在するが、「美人はブサ面(変わった顔も含む)を好み、ブスはイケメンを好む」の法則を自分は信じている。理由は心理学的に解析されており、変わった顔の中には、「才能」も含まれており、容姿に恵まれた美人は、才能に惹かれる部分はあるのだろう。
遺伝子レベル解析でいっても、自分に無いものを求めるという点において、ブスのイケメン好きもまったく同様である。昨日は日本ハムが11.5ゲームあった差を逆転して優勝を決めたが、その立役者は何といっても投打に活躍した大谷翔平の功が大きい。恒例のビールかけには社会問題にもなったハンカチ王子こと斎藤佑樹投手が、一軍登録抹消のまま、「ひっそり」と参じていたという。
「ひっそりと」の形容詞が板につくほどの無活躍ぶりのイケメン斎藤と、イケメンというほどではないが、変わった顔の大谷の対比が強く感じられた。斎藤といえば、元楽天のエース田中将大と甲子園時代から比較されたが、月とスッポンとなった昨今においては比較の対象にもならない。同僚だったダルビッシュや大谷と比べても差が開くばかりのハンカチ王子くん。
ハンカチ乞食と揶揄されたほどに、先般高級外車を一ファンから提供されていたことが発覚した。400勝投手の金田正一は、「グラウンドに金が落ちている」といったが、実績も何もない(人気はあるのか)斎藤が、ポルシェで練習場通勤するのを、誰が評価する同僚がいよう。グラウンドで金を拾えない彼の屈折した自尊心が、「おねだり」となる。「腐っても鯛」という慣用句がある。
斎藤は週刊文春の、「ポルシェおねだり」報道以後、報道陣やファンの目を警戒してか、都内の自宅から千葉・鎌ヶ谷の二軍練習場へのポルシェ通勤を止めている。報道陣やファンの目ではなく、同僚に気づかいすべきだろうが、彼の高慢な自尊心がそこに気づかない。同じプロ野球の早大OBも、「野球以外の"おねだり"の記事では大学に泥を塗る」と辛い。
辛いというより当然。早実高で全国制覇、大学時代も1年からエースとして活躍、早稲田を日本一に導いた。OBは、「持ってる選手」と評したこともあったが、今となっては遠い昔話。2010年のドラフトで一位指名を受けた早大三羽烏の一人、広島の福井優也投手は27勝。斎藤は1年目こそ6勝で計14勝。どんどん下降し今期は0勝。そんな彼にポルシェは、"Bull shit"
彼は高卒の田中、ダルビッシュ、大谷を見下すような発言が取り上げられたことがあったが、「腐っても大卒」といった自負心か。実力社会に学歴などは屁のツッパリにもならないが、自慢するものは学歴しかない斎藤は、懸命に屁をツッパリにしようとする。素晴らしい実績の田中、ダルビッシュ、大谷を決して評価せず、「自分は自分」という強がりが憐れに響く。
同じように感じるのはプロゴルファーの石川遼と松山英樹。こちらの場合は石川の親父の出しゃばりぶりが影響しているかなと自分は感じている。現に松山の親父の顔など見たこともない、知らないという人は多いし、まったく父親の影のない自立心が松山の強い精神力を作っている。今後石川がどのくらい松山に近づくのか、それとも離されるばかりか。
斎藤に対する田中、石川に対する松山、容姿では圧倒的に前者が秀逸だが、色男に金と力がないという言葉通り、実力は圧倒的に後者が勝っている。「美人はブサメンが好きと」いうのは、ブスのイケメン好きに比べてそれほど信憑性はないが、ようするにブサメン男に能力があるならともかく、それ以外にもブサメンがモテる秘密というのか、秘訣がないわけではない。
美人がブサメンに母性愛的同情心を持つことは考えられる。イケメンなんか放っておいても女性が絶えることはないし、その意味でブサメンの方が女にモテない分、安心という保守性思考もあろうか。実際、イケメンの浮気に苦労させられた女性は、イケメン嫌いになることもある。まあ、どんなに泣かされようとも、イケメン好きを止めれない女性もいたりする。
「女が重視するのは男の顔じゃない!」などという言葉は、確かに耳にするが、ホンネを言えば女は大なり小なり男の顔を重視する。これは生物の優勢の法則に照らしてもそうである。鳥や哺乳動物でもオスを選ぶ基準に強さやカッコよさがあるのが分かっている。人間であっても同じ性格でブサイクとイケメンだったら、イケメンをとるのは当たり前だろう。
だれが好んでブサイクをとるだろうか。ただ、"同じ性格であったら"の但し書きがあるように、まったく同じ性格のイケとブサがいるはずがなく、顔よりも性格の好みや相性の良さを重視して、ブサメンを選んだ事情はあろう。女性は男に比べて情緒の不安定な、いわゆるブルーな日が多く、そういう時はオモシロイことを言って、楽しませ、和ませてくれる男はあり難い。
それがブサであっても、笑いに包まれる魅力には屈しがたく、男のそういう性向は十分にモテる要素になり得る。カネはもっていても、いいマンションに住み、いいクルマに乗っていたとしても、癒されない尖った男の性向はブサメン、イケメンに限らずモテない。近年世間を賑わせた、「ヒルズ族」のホリエモンが良い例で、彼は同性からみても楽しい一面はないようだ。
どんだけカネを持っていてもモテる部類には入らない男である。つまり、モテるブサイク男には、ブサイクなりのモテる要素があるということだ。清潔感があるとか、オシャレであるとか、相手を抑えつけない包容力があるとか、多少のわがままが言えそうとか、一面、「かわいい」などの愛嬌も必要かもしれない。それよりも大事な要素は、「女心」がわかるという事だろう。
女心がわかれば、女の扱いに長ける。そんな素養はどこで身につけるのだろう。自分には多少そういった素養がある。洞察力というのか、あえていえば自分を相手に重ねられ、それで相手の立場や気持ちになって考えられる。そういうものが無意識に会話に出れば、女性はそれを優しさと感じる。モテるとは思わないが、相手をいたわる気持ちは常に欠かさない。
スーツの袖から出る白いワイシャツにも気を使い、オシャレとはそういいものである。黒ずんだワイシャツの袖は、同性でもキモチ悪し。さて、文字数的に結論をいうが、カントはこう言っている。「男性の場合、その顔が皮膚の色やあばたのために醜くされ、好ましからぬものになっていても、それが女性の判断においてさえ、おのれの不利になるものではない。」
「男は醜くてもよい」と言い切ったカントだが、西洋人にして157cmの身長、胸部はほとんど曲がり込んでいるくらい甚だしく扁平であり、右の肩甲骨はやや後ろへ張り出していた。これは他人が書いているカントの風袋で、実はカントは自分の容姿をかなり気にしていたようだ。したがって、彼の記述は自身のコンプレックスの裏返しとみていいのではないか。
「うちはデブでブスでキモイよ」と公言する女性がいる。どうせ相手が心で思っているなら、最終的にそのことで破局し、傷つくのなら、最初に提示した方が楽…という心理の女性もいれば、そうしたコンプレックスを克服しようと試みる時には、あえてそれを隠匿せず、好んで語るというポジティヴな心理背景もある。どの女性がどうなのかは、会話で探るしかない。
自分の身体を言葉にするとき、人間は綿密な計算をする。カントは自らの先天的コンプレックスに、学者として拘りを捨てるべく一抹の努力をしたのかもしれない。それが、「男は醜くてもよい」との自己肯定感であり、自らが欠点を発することで、誰にも言わせないようにしていたのだろう。人間は他者からの批判は耐えがたくとも、自己批判なら受け入れられる。