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塵も積もってゴミ屋敷

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“ゴミ屋敷”や“汚部屋”。その単語を聞いたことはあっても、実際、中を見たことがある人は少ないのではないだろうか。また、その住人がどんな人か、想像したことはあるだろうか。「ゴミ屋敷、汚部屋の住人に外で会ったとしても気づきません。彼らの外での顔は、ごくごく普通なんです」そう語るのは、数々の汚部屋に潜入取材したライターの村田らむさん。

村田さんによると、汚部屋の住人は女性が多く、そのほとんどはごく普通の生活を送っているという。きちんとしたメイクと身なりで、仕事も有能。そんな女性が、実はゴミだめのような部屋で、腐った生ゴミや得体の知れない虫の中で暮らしている。われわれの想像を絶する“汚部屋オンナ”たち。その人物像に迫った。「汚部屋」と聞くとアナタはどんな部屋を想像するだろう? 

おそらくニュースなどで取り上げられるゴミ屋敷などは、お茶の間に流れても許されるレベルのものだ。本当の汚部屋・ゴミ屋敷とはそんな生半可なレベルではない。片づけ専門の清掃業者に潜入し、実際にいくつもの現場に足を踏み入れた村田さんに話を聞いた。「僕が実際に働いたのは約2年間。雑誌の企画として持ち込み、ゴミ屋敷取材のために清掃業者に同行取材をお願いしたのが始まり。

その後はスタッフ登録をして、数々の現場を見ることになりました。汚部屋の住人は女性が多いと言われていますが、僕の感覚値でも6:4くらいの割合で女性が多め。看護師さん率が高いですね。実際に清掃業者を頼むのは安くない。彼女たちは高給取りのうえ、多忙。なので、そうなりがちなのかもしれませんね。汚部屋の傾向として、女の人の場合は“強烈に汚い”人が多い。

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食べ物を腐らせたり、使用ずみの生理用品をそこここに貼ったりしたりね。男性の場合は本などを集めてしまう“コレクター系”が多い。汚部屋、ゴミ屋敷になるきっかけはいろいろあると思いますが、女の人だとゴミ出しをしたときに、分別について近所から怒られたりして、それからゴミが出せなくなって…という話も聞きます。どちらかというと内向的でナイーブな方も多い。

孤独だったり、病的に片づけが苦手だったり…。確かにだらしない人も多いのですが、誰かが叱ってあげたり、寄り添っていたら汚部屋にならなかったケースもあるかな、と感じます。また高齢化が進んで、認知症の老人が自宅をゴミ屋敷にしてしまうケースも増えています。汚部屋を片づけていると、最初は暗かった住人も次第に明るい表情になっていくんですよ。それが一番うれしいですね。

部屋が片づけられないことは欠点だけど、片づけられないことで人格すべてが否定されるわけではないのです。これを読んでいる人の中にも、実は部屋がスゴイことになっている人もいるのでは? すでに自分でなんとかできない人は、業者に頼ってみてもいいと思いますよ!」と、まあ片づけ専門の清掃業者に潜入したライターのレポートであるが、現象を実体験するのもいいけれど。

こんな人がいるということよりも、自分の場合、「なぜ、そんな人間になるのか?」と、こちらの方に思考が行ってしまう。例えば、「性善説」、「性悪説」なる言葉がまことしやかに流布されている。「性善説」は孟子、「性悪説」は荀子が唱えた思想である。思想は人の考えであって、正しいという根拠はない。その場でその人が考えたことが、受け継がれているに過ぎない。

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思想と哲学は根本が違う。思想はその人の考えだけで完結させてそれで良いが、哲学はそうはいかない。今までいろいろな人がいて、その人たちがいろいろ考えたことがあって、その流れを受けての、その人の考えたことまで全部であり、背景も含めた一切を知らないとダメなのが哲学。つまり哲学は学問であり、学問とは体系である。体系は以下のように説明される。

①個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体。② 個々の部分が相互に連関して全体としてまとまった機能を果たす組織体。さて、人の本性は善であり人を信じるべきだという性善説、人の本性は悪であり人は疑ってかかるべきだという性悪説。というのが一般的な考えのようだが、孟子や荀子はそんな程度のことを言ったのか?

正しい理解のために辞書を引く。「人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、 悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こる。正統的儒学の人間観」の性善説に対し、「人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能」とする性悪説。要約すれば、「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」という性善説。

 「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というのが性悪説。これなら正しい理解となるが、どちらの見解においても、「人は善行も悪行も行いうる」となり、人を信じるかどうかは関係のない話。以下の例はどうであろうか?「今まで君を信じていたのに見損なったよ」などの言い方を人はする。これはオカシイ。信じるに値する人間か否かに関係なく相手を信じた。

イメージ 2よって、信じた側の勝手な言い分である。AはBを勝手に信じただけなのに、BがAの思いに相応しくない言動をしたことが、なぜBに責任がある?このように考えると、AがBに、「君を見損なった」というのは、まことに身勝手であり、羞恥の言葉である。なのにこのような言い方をする人間は、相手に責任を転嫁し、自らを慰めているにすぎない。なんともズルく見苦しい限りではないか。

もし、BがAの思ったようなBでないと分かったとき、とてもじゃない、Aのメガネに適うBでないを知ったとき、Aは自己責任において自ら反省すればいいし、Bに向けていう言葉でない。裏切られた思いで悔しいだろうが、BはAを裏切ったではなく、Aが勝手にBを信頼しただけの事。ダメ亭主であれ、不作女房であれ、自分が選んだのである。よって、「見損なった」は自分の判断ミスである。

「だって、そんなの最初に分かるわけないじゃない?」という言い訳は正しいか?言い訳に正しいもへちまもなく、言い訳は言い訳である。そのように思う自分は、言い訳をした時点で自分が醜いと思ってしまう。だから、言わない。言い訳のように見えるが、相手が誤解していたり、間違った判断をしている場合は、事実を述べるが、それすら相手にとっては言い訳となる。

だから、真意が伝わりそうな人間かどうかを判断して事実を言う、言わないを決める。何を言っても、「言い訳してる~」という奴にはそれ以後、誤解に対する弁解をしない。「勝手に誤解してろ!」でオワリ。言い訳と弁解は根本的に違うし、言い訳は作り事でいいが、弁解は真実でなければダメだ。したがって、「その弁解は言い訳か?」というのはあり得る。

弁解を必要とすべき相手にはしなければならないが、それすら人を見てすべきだろう。嘘の言い訳に整合性はないが、真実である弁解は整合性に満ちている。が、それすら信じてもらえないこともある。有名なのは、「ソクラテスの弁明」であり、彼は一切の詭弁を廃し、「真実のみ」を語る決意だった。「ソクラテスの弁明」の中で語られる、死と哲学についての言葉は必読であろう。

我々は自分に最大の贈り物をするとしたら、それは何であろうか?また、他人にそれをするとしたら、何をするだろうか?今、お前は必ず死ぬのだと宣告されたら何を考えるだろうか?お前には死と交換して惜しくないものがあるか?と聞かれたら何と答えるだろうか?こういう問題は、実際に自分がそういう境遇に置かれないかぎり、正しい答えとならないだろう。

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あらゆる角度から、あらゆる可能性を思考し、想像はするが残念ながら想像の域をでない。ソクラテスはこれらの問いに明確な答えを出している。それを単に言葉で言ったのではなく、自らの行動で示している。「ソクラテスは殺されてしまったではないか?死が答えであったと言われても理解できなければ、納得もできない」と現代人は納得しないだろう。

逃げられるのに逃げなかった、みすみす死刑になった。しかも無罪の罪だというではないか、確かにその通り。しかし、逃げなかったがゆえに殺されたソクラテスの行動に、多くの人は戸惑いながらも魅き付けられた。性善説などは思想といったが、哲学者カントは以下のように述べている。「ところで、人間はうまれつき善であるか、悪であるのか?そのどちらでもない。

なぜなら、人間は生まれつき決して道徳的存在者ではないからである。人間はその理性が義務と法則の概念にまで高められるときだけに、道徳的存在者になる」。幼児は無邪気であるが、無邪気が道徳的であるはずがないとカントは言う。「無邪気であることは素晴らしいことである。ただ、他方において甚だ困ることは、それがよく保護されず、容易に誘惑されることである」。

つまり、三歳児は無邪気であるが、彼らが道徳的でないのは、積極的に悪をなさず、善もなさない。男遊びや淫らな性欲を改めさせるため、あるいは過度の飲酒や喫煙を改めさせるために修道院内に軟禁された少女は、決して欲望の克服したのではない。覚せい剤を止めさせるために病院に隔離しても、それが自律的克服とはいいがたい。再犯率が高いのは、精神の弱さである。

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外形的、物理的に様々な欲望を除去、あるいは遠ざけ、あるいは消去するという方法は、幼児の状態を再現することに他ならず、真の意味での欲望の克服とならない。戸塚ヨットスクールに見られた強制的修練も、感化院(少年院)などの規律正しいプログラムも、見方によっては道徳的とはいえない。どうすれば荒れた精神を自愛に持っていけるかは、本来は隔離であってはならない。

が、しかし、指導者の都合を考えるとそうした方法が手っ取り早いのだろう。のっけに書いたゴミ屋敷の問題も、なぜ自分の部屋がゴミ屋敷になるのか?は、ゴミ屋敷にするからなるのであって、ではなぜゴミ屋敷に平気で住めるのか?ゴミ屋敷に住むのが苦痛でないのか、嫌でないのかの分析をすれば、苦痛でない、嫌でないということになる。だからゴミ屋敷に住めるのだ。

問題はゴミ屋敷の存在ではなく、そういうところに住むことが苦痛である人間を作ることだが、おそらく親自身が部屋を汚くしていたのだろう。そういう環境が子どもの精神を荒んでいったのだ。皆が競って部屋をきれいにし、きれいな部屋に住もう、住みたいということが教育であると思わぬ親が多い。神経質な親ではなく、キレイを遊び心で子どもに植え付ける親がいい。

勉強出来る子、常時100点取れる子なら、部屋など豚小屋でもいいという親の価値基準を悪いとは思わない。その子が豚小屋に平気で居住できる感性になろうと、将来ゴミ屋敷の住人になろうと、一切は親の責任であろう。「塵も積もれば山」というのは、1円玉も100万枚で100万円になるということだが、「塵も積もってゴミ屋敷」の住人は、本人より親の顔が見たい。

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