本件はどう考えても数日間で容疑者特定可能な犯罪である。加害者は場当たり的で知能の低い人間のようだ。菅野さんを殺害して自身に容疑がかかると思わないなら、バカ・アホとかでは言い足りないが、本人が言うように「腹の立つことを言われた」でキレたのか、金目当てかどっちなのか?数か所で120万もの預金を引き出す同僚を、「すごいな、そんなに貯めてるんか?」
と言うだろう。相手から、「お前みたいにクルマや洋服やブランドに金をかけて、貯まらないだろうな?少しは考えたみたら?」くらい言われても不思議はない。そんな言葉に、「むっ」と来てキレる男もいるだろう。(人が褒めてやってるのに、なんだ、その言い方は?)と思ったとしても、それで消化器でガツンはやり過ぎである。殺す目的でなかったといえ消火器だろ?
手で殴り、足で蹴るでも怒りは表明できるが、消火器ともなれば死ぬ可能性は大。本人は、「殺すつもりはなかった」といいい、実際そうであるなら、想像力が希薄ということになる。頭に血が上って見境なく消化器というなら、そういう人間はを、「危ない人間」と言うしかない。加減を知らないという意味で危険すぎる類であり、思考が回らぬというのもバカの一種であろう。
街中でちょっとしたことでキレ、諍いを起こすのはこういう人間だ。人ごみで肩がぶつかった、クルマで追い越しされた、電車が遅れているのに駅員が謝らない、店員の口の利き方が生意気だったなど、些細なことで激しく怒り、暴力沙汰に発展することも珍しくない。昨今はこの手のキレる人間が職場で仕事中に多発するという。少し遡って「キレる」子どもを思考してみる。
小学生まではそれほどでもないが、中学に入るとキレる子どもは、高校になっても爆発感情を内在し、社会人になっても引き継ぐのは当然であろう。どこかの時期で治るというものではなく、もし治るということなら何らかの契機を境に、本人が治す努力をしたのだろう。したがって「治る」は自らの意志で「治した」と考える。それなくば子どもの負債は大人に引き継がれる。
学校でキレる奴は職場でもキレる。仕事が思い通りにいかない、同僚と意見がちょっとくい違った、上司に注意されてもキレるなど、自分にとって気に入らないことがあるとヒステリーを起こしたり、暴言を吐く。他人の言動に対して過剰に反応し、物に当たり散らしたり、大声で怒鳴るなどを繰り返す――。真っ当な社会人にあらず彼らは、社会教育を家庭でされていない。
「キレる中学生」が社会問題になったのは1990年代の後半だった。識者は「学校性ストレス」をあげたが、確かに子どもの大部分は学校が日常であって、学校での人間関係が大きくかかわっていたようだ。が、「キレる中学生」の問題は、家庭におけるストレスも大きく起因する。「勉強、勉強」と口うるさい親への苛立ちである。「キレる中学生」は、当時社会問題となった。
少年のナイフを使った凶悪事件の続発に対し、国は何かをすべき対策に追い立てられた。文部省(当時)はその一環として、学校が所持品検査を行うことを容認する姿勢を打ち出した。しかし、教育現場では反対も多く、「本来は家庭が管理すべき問題」、所持品検査は生徒と教師の不信感を生む」などの戸惑いもあった事で、実施に踏み切る、実施しないの二つに分かれた。
中学生の段階では、理性と感情が一致しない生徒もいるし、一方的な所持品検査はまさに検閲であって、不信感を抱く生徒もいるだろう。人間に不信感を抱かせるなどはあってはならない教育権の放棄であり、教育そのものの敗北である。自分は多感時期に母親に様々な不信感を抱き、決して信頼を得れることにはならなかったが、子ども心にそういう親はダメな親だと感じていた。
自分にどういう影響があったか以前に、「ダメな親」と見下したことで実害は受けなかったろう。ダメな親=ダメ教育である。ダメをダメと認識できたことが幸いしたのであり、ダメをダメと思わぬ子どもが被害者となる。教育者として知られる灰谷健次郎の『兎の眼』に触発されて教師になったという友人がいた。彼は子どもに恵まれてないが、多くの犬を自宅で飼っている。
すべて捨て犬、譲り受けた行き場のない犬である。灰谷の『兎の眼』は部落解放同盟より糾弾を受けた。前作の短編『笑いの影』でも灰谷は解放同盟より糾弾をうけたていたが、当時は解放同盟の行き過ぎた言葉狩りが横行した。『兎の眼』の問題になった箇所は、登場人物「鉄ツン」の愛犬キチが、野犬狩りに遭ったのを子どもたちの知恵で奪い返すくだりにおける以下の台詞である。
「落ちつけ鉄ツン。おまえひとりで犬とりのところへいったって、どうするんや。相手は小谷先生とちゃうねんぞ。かみついたって泣いてくれる相手とちゃうねんぞ。お前の方がぶんなぐられて、キチといっしょにと殺場行きじゃ」。これのどこがいけないであるが、「『屠場は怖い』という差別意識を利用したもの」という解放同盟の考えで、増刷版からは削除となる。
『兎の眼』は何を意味するかについて、小説の文中に以下の一文がある。「あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。人の眼というより、兎の眼だった。それは祈りをこめたように、もの思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった」。善財童子とは、奈良県桜井市にある安倍文殊院に置かれている、国宝「渡海文殊」の善財童子像のことを述べている。
所持品検査は、「承諾を得て」というが、生徒は「自分たちが拒否すれば教師は何もできない」という事を習得することになる。これはあらゆる教育活動に支障が出ようし、「見せろ」、「見せない」などの押し問答から、教師と生徒、保護者を交えた喧嘩の種にもなりかねない。「承諾」する生徒に違反がないのは分かり切ったことで、「承諾」しない生徒を教師はどう見るか?
銀行の財務省監査が事前連絡があるように、抜き打ちでなければ何も出ては来ない。文部省は「毅然とした対応も必要」としたが、現場の教師との乖離は大きく、これまで所持品検査は教育上よくないとされてきたのに、いきなり「やっていい」というのでは一貫性がない。確かに学校の安全性からいえば所持品検査は必要だろうが、カバンでなくてもナイフは衣服に隠せるもの。
そうなると身体検査の必要性も出てくる。以前と比べて甘い親に育てられた子どもは、自己中・短絡的になりやすく、指導の仕方によっては反発を招いてしまう。何でも子どもの言いなり、子どもからすれば何でも自分の思い通りになるという体験をしてきた子どもだから、少しでも認められないと感情的に走る。したがって、キレる子どもは無責任な親の態度の産物であろう。
そういう親は子どもに遠慮して叱ることもできず、すべてを学校に押し付ける。学校に躾け一切を期待しない親こそ、自己責任感の強い親であろう。そもそも、子どもと寝食を共にするからこそできる躾であって、学校に委ねる方がどうかしている。国も学校も受け皿になるのではなく、家庭教育や親の責任を強く求めて行くべきではないか。古い話ではない、今でもそうあるべき。
何事も責任を取らない、責任逃れをするのが好きな日本人体質は、これほど醜いことはない。石原前都知事などは、「判を押せといわれたら、押しますよそりゃ」こんな都知事ならバカでもできるじゃないか。押せと言われた判を押さない長こそが頭のいい、有能な長ではないのか?よくもあんな恥知らずなことが言えたものだ。人のことを厚化粧という己こそが厚顔無恥である。
イイことはみんな自分の手柄、悪いことはみんな部下の責任、こんな上司(長)をサイテー人間と呼ぶくらいの知識や素養はあるんだろうが、今回の小池都知事の神をも畏れぬ対応に、戦々恐々するバカ男には甚だうんざりである。男同士なら分かりあえる部分もあろうから、して男を追い詰めるのは異性が相応しいのだろう。ならば女を追い詰めるのは男が相応しい?
男は女に甘いから、女に厳しいのは実は女かもしれない。何かにつけて今回は男の甘さ、バカさが露呈したことで、小池知事という前に、男に物怖じしない女性の強さはこういうものだと思いを新たにさせられた。男の甘ちゃんというのは、まさにヘタレではないか。東京五輪における利権においても、森喜朗はぷんぷん臭いまくる。叩けば埃どころか、札束が出てきそうだ。
マツダ社員寮殺人事件に話を戻す。戻すといっても、捜査的に難しい事件でもないし、容疑者はその日のうちに特定される無防備な犯罪である。バレないように犯罪を行いたいとの知能もなく、奪った携帯を川に捨てるというのが容疑者なりの隠匿だったのだろう。まあ、バカだけが犯罪を起こすのではないし、利口な人間も法を犯すが、捕まった時点においてはどちらもバカである。
キレる人間の脳の科学的分析からして、「大脳前頭前野が未発達であること」と語る聖路加国際病院精神腫瘍科部長の保坂隆氏。同じく脳科学コメンテーターの黒川伊保子氏も、「前頭前野が不活性であること、最悪は未発達の状態にある」のが原因だと指摘する。未発達を分かり易くいうと、成長していない。さらには、大人になり切れていない、子どものままであるといえる。
大脳前頭前野は物事全体を把握し、欲望や感情を抑える働きをする。腹が立つことがあっても、大人の対応をしようなどの判断を下す部分で、食欲や睡眠欲など動物的な本能を司る大脳辺縁系などが先に発達するのに比べ、前頭前野は脳の中でも最後に成長し、十代の終わりまで発達し続ける。「大人気ない行為」というのは、実際問題、大人になり切れていない人間である。