というのもあって、ちょっと覗いてみたが、ネット乞食か労働意欲のないバカなのか、書いてあることがバカバカしくて取り上げる気にもならない。それにしても、見知らぬ他人に、「おカネください」ってよくも言えたものだが、別に藁をも掴む気持ちで言ってるのではなく、恥ずかしい気もなく、普通に、当たり前にいう人間のようだ。一体どのような生育をしたのか?
そっちの方に興味が行く。「おカネください掲示板」と表題にしたが、「おカネください掲示板」のことなど書く気は毛頭ない。表題と記事の中身が違うのは得意とするところだから気にはしないが、「さて、何を書くべ」という気負いもないままにいつもの如く"脳からでまかせ"を書くことにする。そういえば「口からでまかせ」という言葉の"でまかせ"という語は何だ?
分からないから調べてみると、①「口から出るにまかせて、いいかげんなことを言うこと。また、その言葉。出放題。「口から―を言う」② 出るままにしておくこと。などであった。なるほど。確かに「出るにまかせる」から「でまかせ」というのはそのまんまである。ちょっと考えたが「出るにまかせる」はまったく思考の外だった。ならば、"脳からでまかせ"はいいのか?
今の今、即興で作った造語だが、イイもワルいもなかろう。文字(文章)はしゃべらない、よって口が脳に代わってもいいではないか。ただし、いい加減なことを書くというのは躊躇われるが、いい加減であってもでたらめではない。いい加減とでたらめは同じ意味のようであって、多少違うようだ。多少がどの程度か知らぬが、「多少」という加減を言葉でいうのは難しい。
お料理番組で「お塩少々…」の少々も同じく人によって違う。同じように、「たくさん」や「ちょっと」も同様だ。以前にも書いたが、「適当」や「いい加減」が悪い意味に使われるようになったのは、それなりの理由がある。「適当」とは「適した」ものに「当たる」と書く。犬も歩けば棒に当たる。宝くじが当たる。など、「当たる」には運・不運の要素が含まれる。
「あいつは幸運ばかりに頼っている。適当なやつだな~」などと悪い意味になってしまう。したがって良い意味に使いたいなら「適切」がよかろう。次に「いい加減」は、①仕事を最後までやり遂げずに途中で投げ出すさま。投げやり。おざなり。無責任。などの意味があり、したがって言葉の用法としては、 相当な程度に達しているので、ほどほどのところで終わってほしいさま。[副]かなり。相当。
[連語] 程よい程度。手ごろ。 「適当な湯加減」、「これを入れる適当な大きさの箱はないか」など使い、良い悪いどちらにもとれる。良い例なら「お風呂がいい加減」だ。悪い例なら、「お前は俺を舐めてるんか?いい加減にしろよ」などという。「適当」にも良い意味、悪い意味があり、良い意味は、「ある状態・目的・要求などにぴったり合っているこ と、ふさわしいこと、また、そのさま、相当」と言う意味で使われる。
一方悪い意味と しては、「その場を何とかつくろう程度であること、いい加減なこと、また、そのさ ま」として使われる。それにしても日本語はややこしい、難しい、日本人でよかったよ。「いい加減の湯だった」、「いい加減な対応だった」などなど、モロに違いが分かる。これを「適当な湯加減だった」、「適当な対応だった」だとどうだ?同じじゃないかという人もいれば、いや、確かにニュアンスが違うという人もいる。
「適当なことをいうコメンテータだな」に対し、「いい加減なことをいうコメンテータだな」は、「適当」が柔らかく、「いい加減」がややきつくないか?自分は後者である。まあ、微妙だし大した差はないけれども…。日本人の脳はデリケートで情緒的と言われるが、日本人の内向的性格とデリケートな脳には深い関係があり、日本文学の鍵概念でもある「もののあはれ」もまた、デリケート脳なしに生まれることはない。
アメリカ人が、「日本の夏は大変にウルサイ」と蝉の声を指して言う。ウルサイにはウルサイが、幼児期から夏の蝉の声、慣れかもしれない。日本人的情緒だと言われるとそうだろう。芭蕉は岩にしみ入るほどの蝉の声を、「閑かさや」と謳った。どちらかといえばアングロ・サクソンは危機に瀕してなおユーモアを忘れない精神が美意識にあり、「もののあはれ」は皆無である。
さて、自分は日本人であり、である以上日本的な考えに収まっているはずだ。デリケートであるもののあはれ的な情緒を携えているであろう。「花鳥風月」、「草木虫魚」の自然観を体内に宿せば、そこに、日本人特有の「細部に対する繊細な目配り」もできるであろう。実際、できるか、できているのかについての実態は分からないにしても、微細な領域に分け入ろうとする精神性、小動物を愛しむ精神性は有する。
これらが「もののあはれ」、「わび・さび・いき」という、「どの国とも異なる美意識」の流れを生み出している。老いてなお日本人として、老いてなお人生を楽しむための基本とは何だろうか?巷言われるところの、「あせらない」、「無理しない」はいうまでもないが、若者にも増して劣らぬ「好奇心」を絶やさないこと。若者の好奇心が、「女湯のぞき」であるなら、老人は、「知的好奇心」であらねばならない。
「脳力」という言葉があるなら、それは「知的好奇心」に支えられよう。米国ラッシュ大学医療センターの研究チームは、294人の高齢者を対象に、思考や記憶の活性化に関するテストを行った。 脳に刺激を与える活動は、▽読書をする、▽音楽を聴く、演奏する、▽書き物をする、▽チェスのようなゲームをする、▽劇場や美術館、博物館を訪問する、▽子供と遊ぶなど、さまざまなものがあるという。
調査対象者の死亡年齢は平均89歳、対象者が亡くなるまで調査は続けられ、追跡期間の平均年数は5.8年だった。 対象者の幼児期から現在に至るまで、「脳の訓練」を行う頻度を訊ねた。その結果、脳に刺激を与える活動を行う頻度に比例して、記憶力や思考力の衰えが抑えられることが分かった。 特に人生後半に、「脳の訓練」頻度が高かった人には、普通程度の人に比べて32%記憶力低下が抑えられていた。一方で、ほとんど行わない人は普通程度の人に比べ、記憶力低下の速度は48%速くなっていた。 「生活スタイルの活性化は、身体の健康の視点から重要とみられることが多いのですが、実は脳の健康に対しても重要な意味をもっています。人生の全般において、脳に適度な刺激を送り続けることは、認知能力の低下を防ぐために大切です」と、ラッシュ大学のロバート・ウィルソン氏(神経学)は話している。
アルツハイマー病などの認知症の予防と治療の鍵を握るのは、「アミロイドβ」というタンパク質だ。アミロイドβが脳内で凝集するとともに、アルツハイマー病が進行していく。高齢者の認知能力の低下のおよそ3分の1は、脳卒中などの脳血管障害や、アミロイドβの蓄積によるアルツハイマー病が原因となるようで、ウィルソン氏は以下のアドバイスをしている。
「知的な活動をして、脳に適度な刺激を送り続けることは、年齢がいくつであっても、あなたが誰であっても、一生のあいだに継続できることです。いつまでも活動的であることが、認知能力の低下だけでなく、認知症の予防にもつながります」。ガンや脳卒中も嫌だが、アルツハイマー病に罹患するのは、それ以上に嫌である。アルツになるなら死んだ方がましかも知れん。
と、これはアルツに罹患した患者を愚弄するものではなく、自分自身に照らしてのこと。人がアルツになっていようがどうであれ、自身のアルツの醜態を想像すると寒気がする。最近は「認知症」という言葉をやたら聞くが、「認知症」は病名ではなく、認識したり、記憶したり、判断したりする力が障害を受け、社会生活に支障をきたす状態のことで、さまざまな原因がある。
「アルツハイマー病(アルツハイマー型認知症)」もその一つ。現在日本では認知症を引き起こす原因のうち、もっとも割合の多い疾患で、6割以上がアルツハイマー病と言われている。他の原因疾患には、血管性認知症やレビー小体型認知症、前頭側頭型認知症などがある。アルツハイマー病は脳の神経細胞が減少するが、記憶を司る「海馬」を中心に脳全体が萎縮する。
脳に「老人斑」というシミが広がる、脳の神経細胞に糸くず状の「神経原線維変化」が見つかる、といった変化が現れることが分かっている。脳の中にβアミロイドと呼ばれるタンパク質がたまり出すことが原因の一つとされていて、βアミロイドが脳全体に蓄積することで、健全な神経細胞を変化・脱落させて、脳の働きを低下させ、脳萎縮を進行させると言われている。
認知症者の傾向としては極度のわがままがあげられる。介護を拒否したり、デイサービスに行きたがらなかったり、来宅のホームヘルパーにきつく当たったりはよくある。これらは認知症にかかった本人が、これまで当たり前のようにできていたことができなくなったり、家族や周囲の人から聞かれたごく簡単なことに答えられなかったりするため、大変不安を感じている。
このため、好ましくない状況に自分が立たされていると感じると、自分を守るために強い拒否反応を示す。これらは防衛反応の一つで、介護にあたる者はこうした防衛反応があることを知っておき、認知症の人を安心させるよう努めるのが大事。また、認知症患者に対する介護者や周囲の人の何気ない一言が、防衛反応に結びつくこともあるので注意が必要となる。