表題なるものがあるというので覗いてみた。何でもありの昨今といえ、人におカネをあげようなどは嘘に決まってる。見ず知らずの相手におカネをあげるメリットはないし、これが事実なら精神異常者、もしくは釣り行為と考えるのが自然だ、「絶対」という言葉は存在しない。善意な行為と間に受ける人はいるかも知れんが、いるかも知れん=いてもいい、という事ではない。
見ず知らずの人に、「おカネをあげよう」という行為も、見ず知らずの人から、「おカネをもらおう」という人も居るべきでないというのが、自分ならずとも道徳的・常識的な考えだろう。おカネを供与したいなら対象をキチンと選ぶなり、本当に困ってる人を対象とするなら立派である。それを慈善といい寄付という。それにしても、「おカネあげます掲示板」の意図はなにか?
意図は相手のことだから「探る」として、その前に人は見ず知らずの人から、「おカネをあげます」と言われて信じるのだろうか?信じたとして、本当に相手からおカネを渡されて素直に喜ぶものだろうか?額にもよるが、例えば100円、1000円を何の理由もなく道歩く人に呼び止められて、「あげます」と差し出され、「ありがとうございます」と受け取るものなのか?
こんなことは自分で実験してみるといいが、そんなバカなことはドッキリカメラなら許されようし、やる気が起こらない。想像でいえば受け取る人はいるだろう。例えば100円硬貨であるなら、渡し方にもよるが小学生に、「君はイイ子みたいだからこれあげる」と渡せば素直に受け取るのではないか?小学生といえど6歳の開きがあり、さすがに高学年になると受け取らない子もいよう。
アメリカの社会実験映像で、道路端に座るホームレスが前を通る人に声をかけ、「お金をあげます」と申し出る映像が公開されている。「未だかつて与えることで貧しくなった者はいない」と書いたボードを持ち、声をかけるが、多くの人は一瞬、お金を要求されていると勘違いするが、その申し出に、「てめえの金なんかいらねえ、馬鹿野郎!」とお金を投げ返す人。
「俺がお前の金なんか必要としてるように見えるか?消え失せろ!」と言って立ち去る人。ホームレスに悪態の限りをつきながらお金を受け取る人。「俺はCクラスのベンツに乗ってるんだぞ」、「ブラックカードを持っているんだ」という人。ここまで言われるとホームレス役も頭に来、一触即発のモード。逆に「これで朝食を食べなさい」とお金を差し出す人、などなど。
物質的に豊かな人が、決して心の豊かさと一致はしないというのがこの実験から伝わってくる。人は豊かになると驕り高ぶるものだとの傾向もみえるが、あまりのホームレスとの乖離がそのような態度に現れるのは仕方のないことなのだろうか?差別意識が生まれる土壌そのものに罪はないが、「実るほどに頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という言葉がもたがってくる。
子どもは素直で雑念がない。そこに付け込んだ誘拐や監禁、あるいは婦女子を暴行するなどの事件があった。善意な子どもを騙す大人は卑劣というしかないが、善意だから「騙される」という事でもある。したがって、「善」だけしか知らない、「悪」を知らない人間は、「悪」に対する想像力も感受性もなく、だから、「悪」の餌食になる。これを哲学者はどう考えるのか?
人間は善のみであってはならない。悪の素養も大事であると思うが、カントは当然にしてそこは理解している。「人間が"私"という言葉を使って語り始めるその日から、彼はそのいとしい自己を許されさえする限り押し出し、こうしてエゴイズムは前進してとどまることを知らなくなる」。と、このように述べている。どんなに抑圧しても人間のエゴイズムは前進すると定義する。
したがってカントは、「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物」と言う。人はみなエゴイストであるからして、どうすればエゴを緩和できるかについて端的にいえば、「愛」という答えが導かれる。いろいろ付き合ったり見たりで分かることだが、エゴイスティックな人は、それだけで人を遠ざけてしまうようだ。エゴイスティックな人は以下のような場合もある。
何人かが集まって会話したり、それが酒宴の席であっても、冗談っぽく非難したり、茶化したりできないばかりか、誰が自分のことをどのように見ているか、また、どのように言うかなど、全身で身構えているし、だからそういう人のそばでは居心地が悪い。小学生時代のことを茶化したら、「そんな昔のことを持ち出して俺をバカにするんか?」とマジギレしたやつがいた。
「なんで笑い話にできないんだ?」と、言おうとしたが止めた。そんな言葉で納得し、「そういえばそうだな、ガキのころだしな~」という人間とは思えなかった。諭した言葉が余計相手をかたくなにさせることもあるし、人前ならなおさらそうなる。だから言わなかったし、気をつけて物をいえばそれで済むこと。それができないわけじゃないが、和気藹々でなくなる。
和気藹々の中にこんな人間がいるということは、次から呼ばれなくなる。人間はバカであるより、バカになることが大事だろうな。人間がみなエゴイストなら、してエゴイストが良くないとするなら、自身のエゴを戒める方法はたくさんある。例えばバイトでも給与職者でも、与えられた仕事は不平を言わずにキチンとこなす。自分に与えられた仕事になぜ文句をいうのか?
自分で選んで仕事をするわけではないだろうに?秀吉が信長の草鞋取りだった時代、誰にも考えが及ばない素晴らしい草鞋取りであったことが、後の秀吉を生んだ。自分はこの逸話が好きで、誰が考えても秀吉は素晴らしいと感じるはずだ。牛の糞にも段々があるように、その場、その時の仕事をやって、評価を受ければいいわけだから、いきなり高望みは愚の骨頂だろう。
そういう事が分からない人間は、秀吉の素晴らしさも分からないということだ。同じようにすれば同じようになる、出世をするというのではなく、要は秀吉の行為が素晴らしいと思えばいいだけのこと。分からない結果を期待するのではなく、今自分が何をやればいいか、そのことで自分らしさとしての何ができるか、そういう他者との差異を打ち出せば、おのずと目に止まる。
他者より自分の方が秀でている(優れているは他人の見方)という自信で事にあたるよう常に考えているべきだ。それが人間の能力差というもので、不満をいう事のどこが能力差であろう。やりたくない仕事を我慢し、不平を言わずにやるのではなく、不平が沸きあがる原因は何か?を自問し、つまらない不平の原因を解決する。解決というのは、根本を思考すれば見つかる。
自分は子どもであれ、友人であれ、何事においても、「お前(あなた)のためにやってやってる」という言葉を絶対的禁句とした。理由は、人のためと言いながら実は自分の都合や利害が反映されているからで、子どものころから母親に、「お前のため、お前のために」としつこく言われたことを、本当に自分のためにという風にはまったく感じなかったことも、影響している。
そもそも、人が人のために何かをするというのがあり得るのだろうか?カントがいうように、人間はみなエゴイストであるわけで、愛情をもって人のためというならともかく、しかしその愛情もどれほどのものなのか?だったら、他人にする一つの行為にあっては、自分のプラスになると思う方が判りやすく、自己欺瞞を排除することにもなる。親が本当に子どものためか?
ならばこどもの何のためか?将来の幸せだと?それを子どもが望んでいるならいい。自ら目的を持ち、それを達成するために努力するのは、幸せに向かってばく進することになる。親が勝手に子どもの幸せを決め、勝手に子どもを従えさせるのが、どうして子どものためなのか?全否定はしない。親の意図にはまることが幸せだったと感じる子どももいないことはない。
が、それはすべてが親の意図どおり、順調に行った場合であって、そんなことは脱サラの成功率より少ないであろう。本年8月、名古屋で息子の受験勉強にイライラが募った父親が、息子を包丁で刺し殺した事件があった。実はこの父親自身がエリートであったことも一因だ。佐竹憲吾容疑者(48)は、現在はトラック運転手に従事していたが名古屋大工学部卒であった。
名古屋市内の中高一貫校東海学園から名古屋大に進み、卒業後トヨタ自動車に就職したというなら、愛知県では絵に描いたようなエリートであり、表沙汰にはならなかったものの破廉恥事件を起こして会社をクビになり、不本意ながらトラックの運転手で食いつないでいたという想像もなされるが、そんな親の経歴、親の都合よりも、勉強のできるできないも好き好きもあろう。
「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という慣用句が浮かぶが、この子は勉強しないから殺されたというなら、こんな理不尽な「生」はないな。今さら、「バカな親」、「つまらん親」といっても子どもは帰ってはこない。勉強できなくとも、普通の中学~高校に行ったとしても、楽しい人生はあったわけだし、やるせない事件というしかない。
「おカネあげます掲示板」から子どもの子どになると急に変貌するのが当ブログだが、自分は子どもが好きだし、子どもを虐げる親が腹の底から許せない。子どもはどこに生まれ、どのような容姿で生まれ、何に興味を持ち、何に興味をもたなくとも、一切の責任は子どもにない。表題から反れて人間のエゴについて論考したが、「おカネあげます掲示板」の真意・考察は次回。