「忙しい」、「面倒くさい」、「疲れた」この3つを禁句にしていることは何度か書いた。なぜ禁句にしているかの理由はいろいろだが、最大の理由は、この3つの言葉を言いたくないからで、言いたくないなら(他人からも)聞きたくないことになる。夏に「暑いな」、冬に「寒い、寒い」と、思わず口に出ることがある。独り言であっても、これはまあ条件反射だろう。
熱いものや冷たいものに触れて、子どものころ、「熱い!」、「冷たい!」がとっさに出るように、独り言は自然なこと。歩きながらなぜ「暑い」「寒い」を感じるのかなどの科学的思考をするが、前提として知っておくべきことは、人間は発熱体であるということ。人間も動物も、生きていくためにエネルギーは必要で、歩いたり走ったり、動いたり、跳んだり、跳ねたり、食物を摂取し燃焼することで得る。
人間は生ある限り、体から熱を出し続ける。一つ所に人間がたくさん集まっている状態を、「人がむんむん…」などと表現するが、暖房をつけているわけでもないのに、次第に暑さで熱気を帯びてくるのは、みんなが発熱しているからだ。熱はエネルギー源となり、水を熱して沸騰させれば蒸気機関車の原理となる。他にも、運動エネルギー、位置エネルギー、電気エネルギー、化学エネルギーなどがある。
子どものころに見た『鉄腕アトム』のマンガで、エネルギーを尻から注入する場面がある。アトムは最大出力10万馬力であるが、始終10万馬力を出している訳ではなく、ふつうの日常生活をしている分には、人間並のエネルギー消費ですんでいる。これは人間が平時に消費する基礎代謝程度のもので、人間もいざとなればスゴイ力を出したり、速く駆けたり高く跳んだりする。
アトムのエネルギー源は原子力である。原子力の「げ」の字もわからぬ子ども時代だが、アトムの家にはエネルギーの補給装置があり、アトムのお母さんがお尻の部分にホースにノズルがついた(ガソリンスタンドの給油ホースのような)もので、「さあ、エネルギーをつめてあげますよ」などといいながら、食事をするようにエネルギーを補給するシーンがある。
お父さんが怒って、「もう寝なさい。エネルギーはやらん」と言ったりの場面もあるが、これは人間が、「今晩は晩メシ抜きだ!」と言ってるようなものだ。が、アトムに「空腹感」はなく、エネルギー切れはほとんどゼロに近づくまで起こらず、アトムが胸のフタの内側にあるエネルギー計をみて、「しまった!エネルギーを使い過ぎた!」と狼狽する場面もあったりする。
そんな場面からエネルギーというのはガソリンのようなものを注入すると思っていた。正確にいうならクルマのガソリンはエネルギー源であり、それをエンジンの燃焼室で燃やし、爆発させて高い出力を得る。エンジンは内側を燃やすことから内燃機関という。アトムの内部構造を見ながら、訳のわからない機械が詰まっていて、その複雑さがリアルでスゴイと思っていた。
やがて中学生くらいになると、「人間の体は、なんであんなに細かくできているのか?」、また「どうやってあんな形になったのか?」などの疑問が沸くようになり、「生物」や「科学」はそれを知る学問である。つまり、学問は、「それを知りたいと思うか?」が何より基本であって、知りたくもないものを教科書を与えて無理やり押し付けるのは、学を問うより勉を強いる。
学問と勉強の違いだろう。だからと強いて勉めさせねば、1+1=2さえも分からない大人になってしまう。最低中学程度の知識はいるが、以後は必修科目、選択科目に分離する。人間の体は細かくできているが、これは人間に限ったことではなく、すべての生き物が精密で複雑な器官をもっているのは、調べれば調べるほど生物の不思議さ、すごさがわかってくる。
細かいのは生物に限らず、政治や経済、歴史や文化などの社会構造も実に精密。それらを知りたいと思う好奇心こそが、上記した学問の要であろう。文化とは何?と問われても答えに窮すが、文化とは学問的知識を得ない限りは、土着的なものである。つまり、日本人は一般的な日本文化をある程度知るが、欧米などの西洋の文化を知るのは学問以外にない。
その土地に住み着けば知ることになるが、居ながらの学問が手っ取り早い。日本文化と西洋文化の違いをいろいろ知るだけで、個々に生まれ、個々で育つ子どもに大きな違いが出るのは当然のこと。例えば、「自立精神」が強い欧米では、生後数ヶ月の赤ちゃんを別室で一人で寝かせるなど、家族の中にあっても、夫婦は夫婦、子どもは子どもと厳しいラインを引く。
その理由は、少しでも早く子どもを自立した大人にさせたいという親の願望である。自立を促すなら離すというのは、動物界にも見られる当たり前の原則で、日本人は家族揃って、「川の字」で寝る習慣というか、これを文化という。果たして斯くの環境で育つ日本人の子どもは、自立しにくいというが、本当にそうなのか。文化は家庭内にあれば、その元である家屋形態にもある。
欧米の寝台文化に比べ、日本の伝統的な寝室の風景といえば、押し入れから布団を出して敷いて眠り、朝起きたら布団をしまって生活をするというものだった。今は西洋文化が押されてベッド利用者が多いが、本来日本人社会は布団文化である。布団を使った眠り方の良い点は、生活空間を無駄なく使える点にあり、狭く少ない部屋数でも十分な生活ができるということ。
広い部屋を使うことが当たり前の西洋人にとって、布団を使った眠り方は相当珍しいものだった。部屋数の多い西洋では、食べる場所である「ダイニング」、眠るための「寝室」、団欒のための「リビング」となるが、狭い日本型長屋家屋では、それらが一緒の空間となる。布団文化のお陰で、日本人は狭い部屋で暮らす生活にそれほど抵抗がないのかもしれない。
近年は、ワンルームマンションという独居生活方式は多く、布団を上げ下げして床で寝るということは若い人を中心にあまり好まれず、6畳程度の広さのマンションでもあえて部屋の半分の面積を占めるベッドを置く。これは畳がフローリングに代わったこともあろうが、畳式であっても上に全面カーペットを敷いてベッドを置く生活様式は、日本的布団文化の潮流にない。
布団文化が衰退すれば、当然ながら部屋の使い方に対する意識の変化する。若い人はベッドを椅子代わりに腰かけたりする。昔は部屋に彼女が来て、「抱くまでと、抱かれる前の無駄話」という川柳ではないが、早く布団を敷きたいのに、そのタイミングが図りずらい経験は誰にもあった。が、二人がベッドに腰かけて話すなら、いつでもそのまま倒れ込むことができる。
このベッドという家具の便利さ、有用性は、押し入れから布団出して敷くなどという、シラけた間を要しない。そういう便利さからベッドが発案されたのではないか?と下世話な想像を抱かせる。クルマの中でキスをし、体をまさぐりながら、そのまま部屋の玄関から、直行でベッドに倒れ込むという洋画にみる、外国人の性的せっかちさだが、別の言い方で情熱的と言う。
布団時代だったころには、行為を一時中断し、押し入れから布団を出すというしぐさが、なんというか、表現しがたい「間」であったのは事実である。ベッドを購入したときに、いかにもそこにベッドがあるという居室は、男の仕事が早く行えた。部屋に入るなり、女性が「わーい」と言いながらベッドに腰を掛ける、それだけで一種の誘惑であり、女性にとっては口実となる。
布団文化の衰退が望外な利点を生んだが、もう一つ、押し入れがなくなった。日本古来の押し入れは、真ん中に板を挟んだ上下2段に天袋という形状であった。これが、洋風クローゼットに変化したことで特別な変化はないが、布団の入れ場所が洋服になったことで、奥行きが半分で済み、その分部屋が広くなったという、コレも利点である。布団という奴は結構な荷物だった。
思うに親の子に対するもっとも重要な躾というのが、「布団をあげなさい!」ではなかったか?万年床というのは、男やもめ、ズボラの代名詞であり、女の子がせっせと布団をあげることを習慣化させられるのは、多少の偏見もあろうが、女子を女子たらしめた一つではなかったか?布団上げは毎日のことだから習慣になるし、万年床とい戒める女子教育に最適だ。
自分は斯様に考える。男は(万年床で)よくても、女子の万年床は羞恥の極みとされ、蔑まされた時代である。習慣というものは怖ろしい。いかに面倒くさいことでも、習慣なら当たり前と内面化されるのだ。そうであるなら、親は女子にはうるさく言って、決して言い過ぎということはない。なぜなら、男からみて自堕落な女性というのは、下品の極みである。
「清潔」と「整理・整頓」をキチンとできる女性は、やはり親の躾、口うるささの賜物であろう。勉強以外は掃除も片づけも一切させなかった。身の回りのことは大人になってからでもできるが、勉強は今しかできない。との信念で子ども三人を灘高~東大にいれた母がそのように言ったが、自分は危惧する。習慣は怖ろしいもので、いつでもできるなど方便を超えた無知である。
どんなに難しいことがやれても、誰でもできる簡単なことができない現実を知らなさすぎる。東大入試の勉強はやれて、なぜ掃除や片づけのような簡単なことができないかは疑問でもなんでもない。しないでいいと育ったからに尽きる。自分はリンゴの皮をナイフで剥けない。裁縫の最後の糸留めができない。理由は母親が、「男の子はそんなことしなくていい」と、その言葉に感化された。
"そんなものは女がやるからいい"、が染みついた。だからか、リンゴの皮をきれいに剥く女性に強い、「女」を感じさせられた。掃除や片づけなど親がするもの、自分は勉強さえすればいい、という観念に支配された人間が、大人になってできるはずがない。決して難易度の問題ではなく、見下して身についた観念を変えるには、三つ子時代に戻るしかない。
勉強はできるが躾がなってない。教育されていない。親の顔が見たい。と社会人となって言われがちな言葉。親は勉強さえできたら、他はできなくてもいいと思ってるからか?それとも、身の回りのこと、生活習慣は大人になればできると思っているからか?人によるだろうが、勉強できる子に「親の顔が見たい」はないが、それ以外の一切は親の責任だから、「親の顔が見たい」となる。