ネット内では様々なトラブルがある。自分も経験したから分かるし、別にネットに限らずとも人間関係の基本的なトラブルは言葉によるものが多い。言葉のない動物のトラブルは行動のみで派生するが、そこの点において人間は複雑である。確かに行為における誤解もあるが、言葉における誤解は行為の比ではない。まして内面に怒りを感じてもそれが表出しない場合が多い。
「あいつはすぐに顔にでるよね」などと言われる人間ともいれば、喜怒哀楽を表情に出さない人間がいる。それでも注意深く表情をみれば、あるいは口数が少なくなるなどの変異は読み取れる。リアルと違ってネットは全員が顔に表情を現さないと同じ。ビギナーのころは顔や表情が見えない部分やりにくさを感じたが、慣れてしまえばどうということはない。
が、ネットやメールの文字交流は、顔文字を巧みに使って心情を表現するという。顔文字など邪魔でしかない自分は、最初から興味もなく使うこともなく、よって顔文字が現す意味など考えたこともない。文字は言葉であり、言葉が文字なら、心も感情も文字で現したい。言葉で伝えられないものを顔文字で表現するなど、リアル会話にはない。よって自分にも顔文字は無用。
まあ、顔文字で心情表現をする楽しさを感じるなら使えばいいし、利用者への批判はない。自分は、(笑)、(汗)、(爆)なども用いない。文字会話創世期の頃、こういうやり取りを多く交わした。「(笑)をつけてはぐらかそうなんてセコくないか?」、「(笑)をつければいいってもんじゃないだろう?」確かに、(笑)をつけることは、語彙を強めないという効用はある。
が、本来男同士の会話というのは率直であり、それで長年やって来た。したがって、相手も自分も率直を受け止めなければ会話はできない。いちいち、「その言い方キツイね~」とか、「そんな風に言うのか?」などの言葉で、行き過ぎた言葉をけん制した。だからか男は女性に対しても男同様、率直に物をいうところがあり、それでよく女性にイロイロ言われたりもした。
が、文句を言う同世代女性はそれほどいなかった。どのくらいの年齢差か分からない、男のキツイ言い方へのクレームは、ある世代から急激に増えた感がある。さらに若い世代女性が会話の最中に、「傷ついた」と言われてビックリしたことがある。言いすぎて多少相手の雲行きが変わったという体験はいくらでもあるが、それを「傷ついた」と言葉に出す女性を初体験したときは正直驚いた。
つまり、"傷つく"という情緒は、本来は隠すもの、悟られぬようにするものだったからだ。みなが傷ついても顔に出さず、情緒を立て直そうと頑張っていたはずが、平気で「傷ついた」と言える世代が出現したのだから、カルチャーショックである。「そんな言葉を出していいのか?」と、「よくそんな言葉を言えるよな?」というのが交差した感じであった。
裏返せば、「そんな言葉を出してはダメだろ?」という事だろう。そういう言葉が口に出せるようになった背景には、傷ついた自分を自浄努力で解決するのではなく、相手に促しているのは明白だ。促す理由は、責任をハッキリ明言しているということか?「その言葉、傷ついた」と言われれば、言った相手は「ごめん」などの謝罪をいう事になる。いや、言わなければならない。
それを求めているのだろう。確かに「傷ついた」という言葉はなかったが、「そんな言い方ないだろう?」、「そこまでいうか?」などは、変わる言葉であろう。だからと言って「傷ついた」と弱音を吐いてはいない。相手の言い方に苦情を突き付けても「傷ついた」とまでは言わないし、実際傷ついていても隠そうとする。それをあっさり、「その言葉に傷ついた」である。
人間(自分)は弱いけれど、それでも頑張ろうということか?弱音を吐く、弱気を悟られるのが恥だった世代かも知れない。同じか同かはともかく、女性は生理中であることを悟られぬようにするのが、たしなみであった。母親から「絶対に気づかれないようにね」などと躾けられたというのもあった。子どものころに生理用品のCMだけは、何のことかさっぱり分からなかった。
6年生のある日、女子だけが作法室に集合するようマイク放送があった。男たちは「何だよ、一体…?」とざわめいたが、自分は幼馴染で家が隣のNに聞けば分かる、と思っていた。早速家に帰ってNに聞いた。「何の話だった?」、その時にNが話したことはさっぱり意味がわからなかった。「ゲッケー?」、「赤ちゃんのできる準備?」なことが分かるハズがない。
それで、「家庭の医学」を開き、ゲッケーを辞書でも調べた。その時に書かれてあった文字は今でも全文覚えている。「卵巣から分泌される女性ホルモンの働きによって、子宮の粘膜に出血が起こるもの」である。それが自分の調べた「月経」であった。卵巣も子宮も粘膜も女性ホルモンも、まったく意味は分からずだが、上のセンテンスは別段覚えようとしないのに暗記している。
もし今、「月経」を説明するなら何というだろうか?「月に一度の排卵が精子と遭遇して受精卵となった場合、子宮内で着床すべく粘膜を柔らかくしておくが、受精しない卵子は子宮の内膜と一緒に剥がれて排出される」ということか。排卵⇒受精⇒着床=妊娠という何とも不思議な生命発生のメカニズムに畏敬する。人間は神が造ったというのはあまりに神秘的である。
と、何でも突っ込み過ぎるから、「表題は一体なんだ?」となろうが、逆に表題などどうでもいい。頭に浮かぶことが表現である。とはいえ、表題に戻る。ブログのコメントに無神経な罵倒や心ない非難が書き込まれた場合に、「こいつバカか?」と思えばいいのだが、思える人と、ショックを受ける人の差はなんだろうか?細かくいっても仕方がないので、一口に性格の違いとする。
怒りや悲しみに代表される感情というのは、人によって違うがそれは文化差というものだろう。「文化」というのは都合のいい言葉である。しかし、人類学的に見れば、「感情の文化差」というのは存在する。ミクロネシアのある部族には、感情語としての、「悲しみ」に相当する語はない。エスキモーのある部族に、「怒り」の感情はほとんど観察されないことが分かっている。
一般論に話を戻すが、こんなことで怒る人、こんな程度で笑える人、あんな目にあっても怒らない人、絶対にオカシイのに笑わぬ人、人から饅頭もらって大喜びする人、100万円入りの菓子折りもらっても喜ばぬ人。これらは感情の文化差であろう。他人の記事に文句を言う人間に対し、「人がどう思い、どう感じようと勝手だろ?お前の気にいるものでなければ遺憾のか?」
と思えばいいわけだ、基本的には。まあ、自分もバカ芸能人がコメンテータ気取りのテレビ発言に文句をいうが、公人としての影響力の大きさと、皆が皆、一つことに寄って集って攻撃する土壌が性格的に許せない。テレビ人間の基本は保身であり、身の安全である。それが根底にあるから、彼らが発言することは、自分がテレビから消されない周到な発言だ。
加害者と被害者を色分けし、加害者を責め、被害者擁護というお決まりの保身術。東野圭吾のように犯罪加害者の苦悩に視点を当てる明晰な思考はない。もっとも東野がテレビにでて加害者擁護をすれば、苦情は来ようが、小説だから論理の一貫性もある。単発言葉で、「〇〇はヒドイ」、「〇〇は可愛そうだ」などのくだらない発言を、寄って集って言う意味があるのか?
女性の痴漢被害が意図的な虚偽であった例は少なくない。強姦されたと言えば男は絶対に強姦した。被害を訴えた女性は間違いなく強姦されたと信じる方がどうかしている。万が一違っていても、「容疑者」という免罪符で逃れられる。加害者には容疑があるが、被害者に(嘘をついたという)容疑はかからない。それが犯罪を嗅ぎ分け、罪人を見つけ出す警察の習性であろう。
痴漢されたと言っただけで女性は被害者。男は痴漢容疑者。なぜ被害容疑者と言わない?強姦されたと言えば男は容疑者。女性は被害者。いずれも容疑段階であるから、違っていても警察は鬩ぎを受けない。それはそれでいい。それで容疑者を行為者と確定に至ることもあるわけだ。問題なのは、バカ芸能人の容疑段階における決めつけだ。皆がそろってこき下ろす。
誰もがこぞって、「自分以外はバカ」と言っているようなもので、だったらそういう彼らを批判する者が必要である。個々の発言は個々の文化度だからいいが、今の段階でそこまでいうのはダメだろ?それくらいの節度はないのか?お前ら何様だ?芸無し口達者のバカ芸人くらいいってもお釣りはくる。彼らは本当に節操がない。無茶苦茶な個人攻撃をやるネットイナゴと同類。
その点、橋下徹というは、自尊心や利害に蹂躙されず、是々非々に物事を考える点で好感を抱く。人間は誰も間違いは犯すし、希少な情報からの先入観で明らかに間違いを犯した時には、素直にできる限りの謝罪をする。それが発言に対する責任の取り方である。そういう時にこそ、人間の責任感が伝わる。小池都知事が豊洲移転に待ったをかけた際、橋下は痛烈に批判をした。
「改革の旗手を謳って当選したからと、パフォーマンスに偏っていると政治家として失敗する」と。小池の正しさが評価される今、橋下がどのような言葉をいうかを見ていたが、彼はこのように自分を責め、小池知事に間接的に謝罪をした。「豊洲問題を公にした小池知事の功績は認めなければならない。都民も圧倒的に支持。今のところ政治家としては大成功。
政治的に失敗すると簡単にコメントした僕は、もう無責任な小金稼ぎのコメンテーターだね」。自分も含めた一億総ブロガー時代にあって、ブログは自己主張でいいが、橋下のような影響力の高い発信者には、決して雑にならず丁寧な発言が必要となる。なぜ丁寧であるべきかは、丁寧というのは責任をとるためで。後で、「あれは深く考えずに適当に言った」などの言い訳を許さない。
坂上忍は高畑が不起訴(事件性が無い)となったことで、以下の言い訳した。「我々だって、最初にこうだと言われたら、それを信じるし、それを元に発言しますもの」。カスだろ男として、こういう言い訳は…。「最初にこうだと言われて鵜呑みにしたのは軽率でした。申し訳ありません」ならまだしも、容疑段階であそこまでいった責任を、彼は謝罪という形でも取らない。
無責任な小遣い稼ぎコメンテータと水道橋博士を罵った橋下が、その言葉を自らに被せたのは必然で、吐いた唾は自ら飲み込むことも言論世界では起こる。それを恐れていて自己主張はできない。間違いを恐れず、間違いには誠心誠意に対応する。少ない情報の中で言論する以上、その姿勢が大事である。「分からないから言えない」より、発言して間違えば謝罪する。