自由ブログに定義はない。日常のことや、趣味のこと、育児日記や世相談、政治経済や世界情勢など、あまたのブログがにぎわっている。いずれも「書く」という表現行為を楽しんでいるのだろう。最初のころ、「ブログが怖いんですよ」という人が何人かいた。それがブログを止めた原因といい、しばらくして復活した人もいた。ほとぼりが冷めれば嫌なことも忘れるのだろう。
嫌なこととは、声を荒げるような無神経な暴言コメントである。むかつくコメント、気に障るコメントも見せてもらった。他人のことは他人には分からないし、何月何日の〇〇のコメントにイラっとしたとかで、自分がそれを読むと、「こんなんで?」と思うものもあったが、他人には他人の思いがある。人が何に立腹し、何に気分を悪くするなどは案外分からないものだ。
明らかなる誹謗・中傷は別として…。自分も駆け出しのころはよく他人のブログにおじゃました。ある人からそれがブログで、ブログは交流するためのものとの教えを乞うたことによる。確かに交流するための適格条件は、リアル世界に比べて淡泊である。互いの事情や日常を秘匿できるし、先入観なしに純粋な人間と人間の交流が可能で、だからいいという部分はある。
文字世界交流においては、異性・同性・年齢・居住地くらい以外は、必要ない気もするが、既婚・独身・バツイチくらいまで膨らませる人もいる。さらには趣味・道楽の域にまで広げることもあるが、大事なことは節度であろう。何が節度かも人によって違うわけで、自分の節度は分かっているが、むしろ相手が節度とするものは何か?を知ることが節度を生かすことにもなる。
自分自身の道徳概念もあれば、相手の道徳基準もあるように、自分の節度と相手の節度を照らし合わせながら交流することだ。自分などは無節度、非道徳を自負していたので、相手は自分に合わせるものだという傲慢さがあった。なぜなら、すべての基準は自分に立脚していたからだ。「俺はお前に合わさん、お前が合わせよ」というのは、傲慢だったとつくづく思う。
「相手に合わさん」というのは、合わすことができない、自分の生き方なり、信念なりは変えられない、あるいは変えてはいけないと思っていたフシがある。今に思うと、若さというもの、若者の代表のような柔軟性の無さである。今の自分からみて当時の自分は大嫌いな人間の類で、多くの人に言動で嫌な思いをさせたと自戒もあるような、抜き差しならない人間だった。
何より嫌いだったのは、「きまり」である。「規則」ともいい、大きなものは、「法」という。「法」を守れるかは社会人の基本である。社会人とは社会で生きて行くことだから、当然に規制があるが、子どもに対しも横断歩道の赤信号は守らんでよしの父親だった。遠足の菓子類の規制や水筒には水というきまりも、「ジュースを入れろ」、「もっともって行け」の煽る。
小学生中学年になると、夏休みの宿題の定番である朝顔の観察はしない、ラジオ体操には行かない、そういうきまりが胡散臭いと感じていた。夏休みだからといって、規律正しい生活をさせるために、そんなことをさせるんだと、子どもながらに感じていた。家の台所に、「食い合わせ一覧表」というのがあって、何と何がダメというのは見ているだけで自然に頭に入った。
頭に入った、といっても食い合わせを気をつけるためではなく、食い合わせを試そうとの気持ちが強かった。食い合わせでハッキリ覚えているのは、「スイカと天ぷら」、「ウナギと梅干」で、「ウナギと梅干」はまず無理(ウナギなど見たことも食ったこともなかった)だから、「スイカと天ぷら」を試したが、ヒドイ目に合ったのを覚えている。それはもう凄まじい下痢と嘔吐だった。
その他は何ともなかったが、「スイカと天ぷら」はトラウマになった。大人になって、「ウナギと梅干」をやろうと思ったことはない。そんなガキの好奇心はどこかに飛び去った。経年で好奇心がだんだん癒えていくのは、スッカタナカんべ~。ブログが怖いというのは、結局コメントが怖いだろうから、居ついてもらわないように、さりげなく去ってもらうようにすればいい。
無視(返信しない)だと、執拗に言ってくる相手もいるから、「何バカなこと書いてんだ?」とか言われた。さてどうするかだが、基本ブログは自己主張だと思えばいいのでは?わざわざ他人の発言に文句をつけて、自己主張したい人間もいるけど、自分のブログでいくらでも自己主張できるだろうに?交流がメインなら、互いが自己主張しあう対話ブログなどもいいね。
相手の意見は聞いても、批判や賛同より自分の意見を返すだけでも交流はできる。互いの意見が違っても、どっちが正しいなどに拘らず、指摘もしない。自分にとっての正しい、正しくないは、相手が自分で見つけるものだ。他人の人生に干渉しないのがいいかも。長く続いて親しくなれば、相手から意見を求められることもあろうが、基本は自分のことを話せばいいんだし。
「どうすれば続けられます?」と問われたこともあるが、相手の性格に合った方法は、他人に見つけられない。自分で見つけるしかない。「ブログ始めました」と宣言した、それ1回だけというのも結構ある。確かに始めるのは簡単だが、続けるのは大変なんだろう。10年続けてる自分には大変でも何でもないが、なぜ続かないのか分からない。が、一つだけ言えることがある。
「続かない」のは、「続けない」から、というのが持論だが、「続けたいんだけど、続かない」と言われたことがある。それに対し、「続ける意志がないから、続かないんだよ」と執拗にいうのもくどいし、「続けるためのハードルを下げたらどうだ?」と言ってみた。「ハードル」が何かはさまざまあるが、とりあえず、「ツイッター」で超短文をやってみるのも方法だ。
ブログに比べハードルは低い。ブログのハードルを高いと感じない自分はツイッターはやらない。「よく続けられるね?」と言われるが、自分は自分を怠情な性格と思っている。横着で、怠け者で、飽きっぽいの三拍子そろっているし、そんな横着で怠け者で飽きっぽい自分が好きではない。自分でいたくない。その気持ちを常に念頭に置くから続いているだけの事。
これが自分のやり方だ。怠情と知っているからこそ、意志力だけで何かを続けられるなど、夢にも思っていない。意志力で続けられる人間を怠情と言わないだろう。したがって、そういった自分の性質と環境を利用して、「続けざるを得ない仕組み」を作るようにする。それが効率的、しかも楽だ。例えば禁煙しようとする。意志の強い人はスパッと止められる。
「意志が弱いからできない」なら誰でも言える。そうではなく、意志が弱いなら、意志に頼らない何か仕組みをつくればいい。誰か、賛同してくれる人をみつけ、「もし止められたら5万円くれるか?その代り陰でこっそり吸っているとか、見つけたら10万円出す」。これらは意志に関係ない仕組みである。「努力」という言葉を使い、生かすなら、現状に満足しないこと。
現状に満足する人間は、本質的に努力しようがないし、する必要はない。つまり煙草を止めたいなら、煙草を吸う自分に満足しないこと。自分流は、徹底して嫌うようにする。自分を嫌えば、嫌われたくない自分は努力をするよ。「いいんだ自分は、どうせこんなだから」は、努力をしない人間の常套句。所詮は自分のことだし、そういう自分と付き合えばいい。
禁煙する上手い方法や仕組みを見つけることだ。無理はしない方がいい。無理は破綻をするし、無理はまたストレスの要因となる。自分は何かをするとき、それを継続するとき、絶対に無理はしない。健康のために良いとされる運動であっても、無理をしてストレスを溜めればかえって不健康ではないか。そういった様々なこと、あるいは自分について知ることは大事である。
自分を知らずして成長はできない。「自分を知る」とは、何かを変えようと思う時に大事な視点だろう。自分を怠情だと知っている、三日坊主だと知っている、だから継続のための方策を考え、編み出すことができる。飽きっぽい性格の自分に妥協して変わることはない。妥協する人間は、変える気がないといった方がいい。厳しい言い方をするなら、それを「甘え」という。
自分に甘えて生きるのはそれも自分の人生なら構わないが、自分の何かを変えたい、変えようとするときに「甘え」は無用だ。そういったいくつかのポイントを知っておけば、いろいろな方策に結びつく。自分を変えたいのは向上心だから、せっかく向上心があるなら行動につなげるようにしたい。ブログは自己主張と、自己対話である。対話なら自己と自己の主張が必要。
が、何でも自己主張すればよいということでもない。大事なことは、「自分が書いたことに責任を持つ」であろう。責任もいろいろあるが、例えば、自分の文に寄せられた批判に対して謙虚ということでもある。批判に論理もへちまもない「バカ」、「死ね」的な批判もあるから、それらに律儀に反応する必要はないが、なるたけ真摯に耳を傾け、間違いの指摘に納得すれば礼をいう。
いろいろなコメントがあった。あまり記憶にないが、将棋の羽生が寝癖を直さずに和服を着るのが、身だしなみとしてどうか?学者バカと言われる人が、そのことしか興味がなく乞食同然の身なりであるなら、羽生は将棋のこと以外に神経が行き届かぬ将棋バカである。それに対するコメントは、「あなたは羽生さんより将棋が強いのですか?」と、こういうバカを言う。
そんなことしか羽生を擁護する言葉がないのか?であり、そんなことしか言えないなら言わぬ方が利口だろうが、立腹からか、見境なく言ってしまう。ファンとか信者というのはそういうものかと。将棋も強いし、社会人としても立派な人ならそれがいい。「たかだか寝癖くらい放置したっていいだろ?」というなら、「たかだか寝癖を直すのに何分かかる?」ということになる。
始めた頃のコメントには、誤字・脱字の指摘があった。親切半分、茶化し半分か、自分は一切しなかった。「親切半分・茶化し半分」の数式は、1-1=0となり、ゼロなことはしない。が、親切と受け入れた。行為の責任、しない責任、どちらもある。親が子にする行為の責任、何もしない責任。いずれも反省が不可欠。我々バカ人間は、反省するから成長するのだろう。