AがBに〇〇した。AはBが喜んでると思っていたが、Bは喜ぶどころか、迷惑に感じていた。が、Aにそのような素振りを見せなかった。これではAはBの自分に対する真意を理解できない。Aの性格を理解できる人間も、Bを理解できる人間もいるが、AとBを照らし合わせて客観的に眺め、どうするのがいいかなどを考えるのが人格向上に寄与する。
一言で向上心といっても、人によって目指すものは違う。何をやるにしても、現在の状態に満足せず、より優れたもの、より高いものを目ざして努力する心であろう。上に示した例でいえば、Aはどうするのが良いのか、良かったのか、BはAに対してどういう態度をとるべきか、あるいは発言すべきかを、それぞれAの立場、Bの立場で思考し、答えを模索する。
Aは自分の行動が人にとって良かれと信じているが、それは独善ではないかと疑ってみる。もう少し相手の気持ちになって思考する必要がある。今度はBについて思考する。AはBが喜ぶと思っているようだが、Aの勘違いを正してやるのはAのためであり、また自分(B)のためでもある。これら思考で導かれた結論が、正しいと思うなら行動を起こすこと。
考えて答えは出たにも関わらず、行動しないことはままあるが、思考と行動はセットと強く自分に言い聞かせる。「知行合一」の陽明学は、『知識を行動に結びつけよ』となる。せっかくテストの問題を解いたのに、答案用紙に答えを書かなければダメなように、書くと言うのが行動である。まずは考え、出た答えを行為に移す。それも「向上心」だろう。
芸能人とエッチをしたことを、自慢話の一つにしている女性がいた。好きなグループやアイドルの追っかけをやるティーンエイジャーなどは、彼らが宿泊のホテルの部屋どころか、トイレに連れ込まれただけでもドキドキ、舞い上がってしまう。強引にキスをされよう、が抱きしめられようが、パンツを脱がされようが、それはもう喜び以上に自慢になる。
そこでレイプなどは起こらない。普通ならレイプまがいの行為でも、合意は犯罪とならない。高校時代にあるグループのメンバーに、部屋に連れ込まれた女性の話を聞いた。それが処女をなくした相手だといい、それを彼女はずっと誇りに思っていた。追っかけは少女は抱かれたいのではなく、1mでも50cmでも近づきたい一心のようだ。が、男にとってはカモである。
ファンは何をされても喜ぶのを知っている。危険だし、やるせない話だが、それがファンの思いなのだ。グループやアイドルにとって、ファンは有り難い存在だが、時にそれは事件に発展する。また、事件性の行為があったとしても、ファン心情からして被害届を出すことはない。そんなことをしようものなら、同じファンの間から総スカンを食らうだろう。
以前はそんな話はどこにでもあったが、現在は表沙汰になれば致命傷なので、自制するようマネージャーが目を光らせている。そうかと思えば逆にファン側が、アイドルを襲ったとの例もしばしば発生する。古くは1957年の国際劇場で、美空ひばりが顔に塩酸をかけられ、3週間の火傷をおった。犯人はファン女性で、「大好きだから憎い」と屈折感情を述べた。
これは、無理心中に近い心情と考えられる。1963年、当時18歳だった吉永小百合の自宅に、銃を持った男が押し入り、駆けつけた警察官を撃って重傷を負わせた。小百合と家族は逃げて無事だった。岡田奈々も自宅に暴漢が入り、彼女の手足を縛って5時間も部屋に居座った。2016年6月10日、クリスティーナ・グリミーがライブ会場でサインに応じていた際、ファンに銃撃され死亡した。
1980年12月8日、ジョンレノン暗殺事件も記憶に消せない。また本年5月芸能活動をしていた大学生の冨田真由がファンの男にナイフで首や胸など20カ所以上刺される事件が発生した。幸い命はとりとめたが再起不能となる。ざっと羅列したが、繰り返される悲劇である。ファンがストーカー化する理由には執着型、妄想型がある。あまりの熱狂が高じて自他の境界が見えなくなる。
人間には、「自分は自分、他人は他人」という「自己」の自立性が大事で、子どもを持った母親に自立性欠如が多い。自分で産んだという分身の名残か、母子同一性というのは、男からすれば奇妙でしかない。高畑問題において、マスコミがしきりに問題するのが母親の祐太に対する依存性だ。あることないこと、ないことあることを書いて、雑誌を売る。視聴率を稼ぐ。それはそれだ。
他人の口車に乗るのもいいが、基本は自分で考えるべきであり、芸能人だか有名人だかでも、おかしいものはおかしいと批判はすべきである。「善意の隣人」ほど困り者はいないが、芸能人なんてのはテレビを観なければそれで済む。確かに日本人には善意の隣人が多く、いろいろ関わろうとするほどにウザイ。に、比べて悪意の隣人は楽である。いくらでも無視できるからだろう。
のっけに書いたのは、善意の隣人をいかにして除去するか。この方策を講じずして、文句や愚痴をいっても埒はあかない。自己防衛のためにも、キチンとものを言える人間になるべきである。そのことに関連して想像するのが、高畑祐太の一連の事件である。事件とは言えないようだが、当初から事件でない可能性はあったが、祐太の供述が事件性を否定しないなら事件となろう。
今回の釈放が一時的な保釈でなく全面釈放であるなら、当初警察発表による「強姦致傷」とは何だったのか?強姦が和姦に覆ることは、裁判でも珍しくはないが、致傷は刑事犯罪であり、これさえも示談で不起訴処分にて終わらせたことに驚いている。さらには、高畑側の弁護士はこのように述べた。「今回のことは合意の上での行為だった、起訴されていたら無罪主張してた」。
男なら分かるであろう行為の仔細について、なぜに高畑は警察で、「彼女は抵抗もなかったです」と、言わなかったのか?担当弁護士はこう述べている。「知り得た事実関係を照らせば、高畑裕太さんは合意があるものと思っていた可能性が高く、少なくとも逮捕時、報道にいわれる『歯ブラシを持って来て』と呼びつけいきなり引きずりこんだなどという事実は無かったと考えております。
つまり先ほど述べたような悪質な事件では無く、仮に起訴されて裁判になっていれば無罪主張をしたと思われた事件であります。以上のこともあり不起訴に至りました」とコメントを発表した。これならすべてのつじつまが合う。あのような場所で、いかに高畑が"歩く陰茎"といわれるような男とはいえここまでやるか?そのことに懸念も抱かず、悪者にするばかりのテレビ報道。
絶対にない、あり得ないとはいえない。が、強姦なら強姦に至る状況が一切出てこないままで、どうして強姦だと思えるのか?強姦を拒否する相手に、強姦するのがいかに大変であるか、強姦経験がなくても男なら想像で分かりそうなものだ。中高生なら、「蛇に睨まれた蛙」という状況も考えられるが、相手は50歳に近いおばちゃんである。坂上は上沼のブタ発言を最大に持ち上げた。
「そこまで言える上沼さんは、お見事」が、事件性のない「和姦」という事実であっても、向き合う素養はない。本人も認め、警察も発表してるんだから、「強姦だろうし、信じた俺らはな~んも悪くない」とでもいうのだろう。警察がどうであれ、本人がどうであれ、自分の頭で考えたら疑義は山とあった。誰かが、「強姦は疑わしいと思う」といえてこそ「お見事」では?
誰もが高畑を「強姦魔」に仕立てている場で、「被害者の行為がオカシイ」とは口が裂けても言えないのは、芸能人が人気稼業であるからで、だから、彼らを責める気はないが、責めない代わりにバカな意見は耳に蓋をする。芸能人を集めてバカを言わせる番組ばかりか、専門家をほとんどみない。「強姦に疑義あり」と勇気ある発言のタレントはいない。
無罪を争う案件でありながら、高畑が警察で「強姦致傷」を了承したのは、頑張りが効かなかったのか。いきなり部屋に警官が立ち入り、寝ぼけ眼で連行されれば、頭はふやけるだろう。さらには、「強姦の被害届が出ている」などと言われば、合意の行為であれ、パニックになる。警察への連行は、それほど高畑にとって先制攻撃であったはずだ。
警察は犯罪を作るところだから、弱者(女)の言い分を真とし、強者(男)の言い分を言い逃れて見る。人間だから先入観は当然だ。よって、正しい捜査というのは先入観を排除といわれている。「女性は強姦されたと言ってるんだ。弁解などはいいから、どういう状況でやったのか、ちゃんと言えよ」。こういう状況が、無いことを有ったかの如く作られて行く。
取調室における孤独感とはそういうものだ。だから、外国のように「弁護士を呼んでくれ。それまでは何もしゃべらん」というのが、最大の防御である。容疑者は、容疑をかぶせられたら、それを刎ねつけるにはあまりに孤独である。では、なぜ被害者は「強姦」などといったのか?もっともらしい傷なら事後につけられる。第一報したのが、友人とあるが弁護士であるという。
いろいろな想像がつくが、まあ、強姦の方が何かと都合がよいのは分かる。和姦で何が問題かといえば、業務中に客と性行為をしていた従業員なんか、クビもいいところだ。ホテルの従業員はマッサージ師ではないんだし、友人弁護士の入れ知恵もあったろうが、この件について下種の勘ぐりは止める。濡れ衣は裁判で晴らすべきだが、それをしないのも高畑敦子の存在ではないか?
「損をして得を取れ」という慣用句も浮かぶようで、事を荒立てて彼らに何の得はない。やってないものをやったと言われても、抗えない弱い性格であるようだし、被害者(一応)のことをアレコレ言ったところで、「金持ち喧嘩せず」が利口だろう。どこぞの誰が、「業務中に客とやる従業員がいるビジネスホテル」と、揶揄もしようし、経費けちらず一人態勢は止めることだ。
高畑敦子という母の存在が、取り調べの祐太を殊勝な人間にしてしまった可能性がある。言いたいことはあったろうが、ひと暴れして事を複雑にせず、黙して司直という権力にも抗わず、順応することが、世間から母を傷つけない、また、笑いものにされないと感じたのではないか?いや、元々そうした心の弱い子だったのか。貧乏人の自分は、「何だ!ひで~女。許さん!と争うが…