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上沼恵美子 「ブタの言葉」②

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イメージ 1上沼の発言に対して、元宮城県知事の浅野史郎氏は「言い過ぎだ」と反論。「お母さんというだけでこんなに厳しくしていいのか」と続け、逮捕後、共演した芸能関係者から「あいさつできない奴」、「芸能界の仕事が減るぞと言った」など、裕太容疑者への批判が相次いでいる現状についても、「親の責任だけでなく、周りの責任というのもあるのではないか」とした。

「強姦致傷」が軽いとはいわぬが、殺人事件というわけではない。捜査段階で自白し、全面的に罪を認めたといっても、加害者の供述は明らかになっていないし、弁護士に依頼すれば、可能性のある一切のケースを考えるであろう。芸能人でもひときわ有名である高畑敦子を母に持つ祐太というのは分かっており、被害者は本気で抵抗するより、損害賠償を狙ったのか?

もし、被害者にそういう目論見があったなら、それを暴いていくのが有能な弁護士の仕事である。強姦の経験もないから想像するしかないが、強姦熟達者に言わせれば(もちろん犯罪者だが)、強姦をこちらの思い通りに遂行する場合、まずは相手の頬を一発ぶつなりで、恐怖心を与えて抵抗の意思を奪うことだという。女性の抵抗というのは、それほどに厄介らしい。

もっとも、ナイフや銃などの凶器で脅すのが手っ取り早いが、頬を強くひっぱたくのも抵抗心を削ぐ。弁護というのは被害者を悪者にするのではなく、加害者の利益に立った場合に、被害者=善、加害者=悪という単純な論理だけで真実の解明はできないし、弁護士業務は成り立たない。犯罪は加害者が起こすが、被害者が犯罪を誘発するケースは少なからず存在する。

ホテルの従業員を部屋に呼びつけ、殴る蹴るの暴行もなく、ナイフなどの凶器もちらつかせることなく、強姦を果たせたというなら、そんなに簡単にできるものなのか?いかなる手段を講じても、阻止するという気概が被害者にあったのか?という情景は、弁護士でなくとも、男なら想像できよう。本気で抵抗すると仮定した場合、暴力なしに強姦する自信はとてもじゃないがない。

致傷は、どういう経緯でできた傷なのかにおいても、明らかにされていない段階であれ、とりあえず事件にするのは警察の仕事だが、犯罪というのは様々なケースがある。「強制わいせつ罪」は、合意であれば犯罪とならない。強姦や強制わいせつは、込み入った複雑な事件であって、様々な判例が示している。和歌山地裁で2006年6月に判決となった強制わいせつ事件がある。

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 強姦が減ったのは、女性が抵抗しなかった昔に比べて、近年の女性の強い抵抗が強姦を阻止?


《被告人は、地面に仰向けに押し倒した被害者の両足の間に体を入れ、両手で同女の両足を持ち上げて膝を立てたような形にした状態で、同女に「俺が一方的にやったら犯罪になるので、お前が入れろ」と命じた、被告人の陰茎を手にした同女が、これを自分の陰部に容易に挿入できなかったため、いら立って「早くしろ」など言って挿入をせかしたところ、とにかく早く射精したいとの思いでその場で立ち上がって同女に口淫させたことが優に認められる》

口淫のあとに続きがある。《被告人は、その後、泣き出した被害者に対し、謝罪しつつも警察に通報しないよう懇願し、泣き止んだ同女が立ち去ろうとした際には再び性欲を募らせたことから、自己が射精するまで帰らせない旨告げて、同女に自己の陰茎を手淫させ、あるいは同女の乳房を舐めるなど猥褻行為を繰り返し、結局射精し、自己の性的欲望を充足させるに至っている》

この被害者は16歳の少女であり、これが強姦でなく未遂というのだから、いたたまれない。事件後、被害者は一人で外を歩けなくなってしまった。この事件の判決文の重要箇所を以下記す。《被害者が幸いにして姦淫されるまでに至っていない》とし、懲役5年の求刑に対し、懲役2年半で結審。強姦は性器挿入が判断基準で、挿入なき場合は強制わいせつ罪となる。

女性の肉体もしくは精神の強迫的拘束なくして、女性の陰部に挿入できるものなのか?男なら分かるがあれはじっとしているから可能であり、挿入をさせじと右に左に腰を動かせばそう簡単ではあるまい。となると祐太容疑者の被害者は強姦未遂ではなく、強姦致傷(警察発表)だから、強姦は完遂している。抵抗すれば難しい性器挿入ゆえ、抵抗はなかったと推認される。

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       抵抗すれば強姦は強制わいせつとなるが、本件はなぜ強姦?素朴な疑問が沸く


それは何故か?それとも被害者が執拗に拒否をし、腰を振って抵抗したが祐太容疑者は挿入できたのか?裁判で状況が説明されるだろう。《強姦罪》は性器挿入の前に、《暴行または脅迫を用いて》という但し書きがつく。被害者が13歳未満なら、たとえ合意であっても《強姦罪》は成立する。あと、会社の上司が何らかの職権で部下と性行為に及んだ場合も《強姦罪》は成立する。

もう一つ、専門家以外はあまり知られてないが、「抗拒不能」という用語がある。「抗拒」抵抗の「抗」に、拒否の「拒」であるから意味は想像できよう。抵抗したり拒んだりできない状況にさせてだから、手足を縛る、アルコールや睡眠薬など薬物を用いたケースは「暴行または脅迫を用いて」に補足しきれない。ゆえに「抗拒不能」というケースが必要となる。

サークル仲間と女子大生に卑劣な行為をしたことで、強制わいせつと暴行の罪に問われている東大4年生、松見謙佑被告(22)の公判が5日、東京地裁で開かれ、検察側は懲役2年を求刑し、弁護側が執行猶予付き判決を求め結審した。5日の公判では、松見被告の母親が証人として出廷し、被害者には6度、示談や面会しての謝罪を申し入れたが、全て拒否されたと証言している。

被害者を全裸にした上、胸元に熱いカップラーメンの麺を落としたり背中を強くたたいたほか、他の東大生ら4人と共謀し、女性にまたがりキスをしたなどは、「性欲を充足するための行為とはいえず、悪ふざけ的な暴行やいじめの側面が強い」として弁護側は情状酌量を求めた。が、被害者の見地からすれば到底納得できないし、加害者の母親からの謝罪拒否は当然だ。

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       「遊び」を「女の扱い方」に代えて自分は考える。女を遊びの道具に、ここまでやるのか?

祐太容疑者に強姦された被害者は、あらゆる手立てを講じて拒否したのか、それとも暴行・脅迫を用いられて性行為に及んだのか?あるいは、抗拒不能となる要因があったのか?であるならいかなる要因か?は、当然に湧きでる疑問である。コメンテータ気取りの芸能人がしょぼい想像力をひっさげ、単純に被害者と加害者に二極化してなんやかんやと、まさに娯楽番組である。

またその方が視聴者受けするのだろう。現時点で加害者=悪、被害者=善の看板を立てかけれ、アレコレいうのは付和雷同で問題ナシということか、日替わりでこの問題で参戦する人間が目立つ。上沼恵美子のブタ発言に対し、口の多い坂上忍が「お見事」と賛辞を贈ったとかどうとか、こんなことを報道する意味があるのか?坂上はこのようにブタ発言を評価している。

「上沼さんの意見は、いろんな意見が出ている中で最上級に厳しい意見」とし、「ここまで厳しい意見言ってくれる人ってほぼいない。上沼さんの意見があるから浅野さんの意見も出て新たなお題が出る」、続いて、「当たり障りのない意見を言っている人よりも、母として、芸能人として、自分の言葉でおっしゃっている。お見事」。坂上は上沼の提灯持ちか?でなければバカ過ぎだ。

「これだけきついこと言ってくれる人っていないんだよ」と芸能界の自己保身さを言ってるのだろうが、大阪人だけに向けていうなら、「よう言うた!」の関西ローカル上沼発言であろう。名古屋ローカルが現段階で「中日優勝」と言ってもエールがくるというものだ。他人の不幸は蜜の味というのか、甘くて美味しいのだろう。視点も広く頭の良さを感じさせるフィフィの意見。

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         よく言えば坂上に理性があるが、この言い方からして坂上は上沼のように言いたい?


「そもそもなんで母親が(謝罪会見を)するの?犯罪を犯したのは母親じゃないし、(息子は)成人している。事務所が謝るならまだしも、お母さんが出てくるのは不自然」というように、自分も会見は見る気も起きなかった。フィフィは、東国原英夫の「会見やってもやらなくても叩かれる」という意見にも、「会見で自己保身するより、叩かれるなら、叩かれればいい」とした。

上沼、坂上らと一枚違うフィフィだが、ブタ発言代表者上沼らの芸人は、もっと考えて理性的な発言をすることだ。「過保護が服着てしゃべっている」などは、関西では受けたとしても批判を超えた誹謗・中傷以外のなにものでもない。フィフィは別段考えなくて、普通の日常言葉そのものが明晰だ。聞くに堪えない芸人と、一聴に値する彼女の言葉の本質的な差は知性であろう。

人についての判断基準として、「知性と教養」の有る無しといった見方をするが、知性とは、物事を考え、判断する能力のこと。したがって、考えたとは思えない、感情的、恣意的発言に知性はない。他方、教養とは、散歩中や通勤途中などの、ちょっとした体験を他人に話すとき、そのことをどれだけ客観的に、興味深く語ることができるか、そういう物語力であろう。

その出来事や体験が、どの程度のダメージを、あるいは、メリットを自分にもたらしたか、話す相手の好奇心をどれだけ満足させることができたか、を推し測る。これを仮説力といってもいい。「教養をひけらかす」などの言い方は、クイズ的知識のことで、それも教養の範疇なら、ないよりあった方がいい。が、ひけらかすかどうかは、個人の教養観の問題である。

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              彼女は物事を正しく、誠実に思考し、判断しようとしている

教養のある人は、普通にしゃべって教養があるが、教養なき人は、普通にしゃべるとバカを言う。であるなら、教養なき人が教養を身につける手段として、リラックスして普通にしゃべる時でさえ、少し考えてしゃべることだ。感情に歯止めをかけ、理性を加味し、にじみ出る持論は置いておき、何が正しいかを一呼吸おいて考えた上で話すのが、多少は教養人たる資質といえよう。

「バカは黙っとれ!」という言葉は結構正しい。自分も若いときに結構言われた。確かに若さというのは、物の見え方がまるでダメだった。その時は自分で分からないが、周囲の大人は分かったのだろう。言われないように、知識を積み重ねるしかないと思ったのを覚えている。今は逆の立場だ。とんでもないことを言い出す人間には、ついこの言葉を口にしたくなる。

「バカは黙っとれ!」、言われて発奮する人間ならいいが、しょげたり、ふてくされたり、反発したりの人間には逆効果。強圧的で見下す言葉ではなく、いっちょ前のことが言える人間になれと受け取るべし。この言葉には大人の若者へのそういう思いがあったのだろう。ただ若者を見下すことで自尊心を満たすという、ゲスな大人ではなく、明晰であった。


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