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上沼恵美子 「ブタの言葉」

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表題は誤解を生むかも知れない。誤解は構わないが、上沼ファンのために少し弁解しておく。もし、上沼と同じ言葉を自分の面前で吐く奴がいたら、「人前でなく鏡に向かって言ってろ!」くらいは言う。彼女の、「過保護が服着てしゃべっている」の言い方は、見えない他人の家庭に立ち入る妄想言葉で、上沼に向かって、「ブタが服着てしゃべってる」と同質の暴言だ。

確かに女同士の悪口は見境のない言葉を聞くが、悪口好き女とはいえ、公共の電波には節度があるはずだ。将棋に「ブタの手」というのがある。共通用語ではないが、ある棋士が、ある棋士の対局を大盤解説する際にテレビで述べた言葉。解説のある棋士とは先崎学九段、対局棋士は先崎の師匠米長邦雄永世棋聖である。米長は2012年12月18日に他界した。享年69歳。

それにしても師匠の指した手を、「ブタの手」と言える先崎のやんちゃぶりがユニークだが、師匠の米長といえば、負けず劣らずのやんちゃ棋士で、そこは師匠譲りとするなら、米長も反論はできまい。おそらく、「ブタの手」なる言葉は、将棋の長い歴史のなかで初めて口にされた言葉であり、あまりの品の無さか、以後踏襲されることもなかったが、「クソ手」というのはある。

「クソ手」は下品というより、「クソ~!」、「クソったれ!」は日常用語だから、さほど下品とのニュアンスはないが、「ブタの手」の意味を想像するなら、「くだらん手」、「笑いもの(ブタを笑いものとする風潮から)の手」の意味であろう。自分はこの場面を放送で観ていたが、発言したのが先崎ということで、「らしい」との印象だった。師匠も許すだろうと。

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先崎のこの発言は、実は師匠に対する恨みつらみがあったといわれている。大山康晴十五世名人の葬儀を欠席した先崎は、羽生に「香典出しておいてくれないか。お前と同額でいい」と頼んだところ、羽生が数十万包んだ件について、「あいつおかしいですよ」と師匠(米長)に言ったところ、「大山先生の葬儀に出られないほどの用とは何なのか」と叱責された。

ばかりか著書で、「こんなつまらない若手がいる」とネタにされてしまった。そのことに対する意趣返しと言われている。「師匠のクソったれめが」は腹に据えかねていたからこそ、思わず出た言葉であろう。先崎のことを周辺から耳にした米長は、先崎のいるスタジオに電話を入れ、「師匠の指し手をブタの手と言っている者がいるらしいが…」と皮肉交じりに言ったという。

対して先崎は、「師匠もヒマだな~」と意に介さず、テレビで発言した。何事も「度」が過ぎれば笑いになることの見本のような師匠と弟子である。さて、「ブタの手」はともかく、上沼恵美子の、「ブタ発言」は、関西ばばぁのどぎつい言葉として、大阪では笑いで済まされようが、「上沼・高田のクギズケ!」は関西・中京と一部日テレ系ネットで首都圏での放送はない。

とはいえ、近年はネットでの拡散が早い。上沼の発言は4日放送の上記番組の中で、高畑敦子の会見を、同じ息子を持つ母親として、8月26日の会見を穴が開くほど見たという。それで、「過保護が服着てしゃべっている感じがしました」、「芝居がかっている」、「息子にホンマに怒ってない」、「被害者が見えてこない」などと厳しい口調で親子ともども猛批判した。

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息子に対する批判は、祐太が芸能界入りのきっかけとして淳子の舞台に感動したことを挙げていることに、「その時点で甘い。どの世界に行っても怠け者で、母親の舞台に感動したというよりも芸能界が、『楽やなあ』と思って入った。母親もバックアップしてくれるし」と、俳優としての意識の低さについて持論を示した。まあ、上沼が女優だったら息子も感動したかもしれんな?

さらに、「朝の連ドラ、そんなとこいくのに何年かかる、普通。それは後ろに高畑淳子が見えるから、プロデューサーも起用したわけで。七光りを全部知って、受けている」、これを「悪賢い」と批判したが、ここまでいうと、悪口より妬みに聞こえる。“西の女帝”と称され、大阪では「見ない日がない」といわれる上沼出演の毒舌番組は、高視聴率を記録している。

「悪口大好き」を公言する上沼であるが、悪口にも節度はあろうし、大阪のおばちゃんの節度は大阪のおばちゃんらが決めることになる。が、大阪以外の人間が上沼の発言をネットなどの記事で見れば、当然に批判があがる。ただし、「私は関西の人間やし、関西人が楽しんでくれたらそれでいい」くらいでないと、上沼のようなハチャメチャ発言はできないだろう。

批判を恐れず、むしろ関西以東の批判は織り込みづみと推察する。関西ローカル局もそういうものだとの認識だろう。多少の偏見はあるが、大阪人は、「人を食って生きている」。といっても食人種ではなく、「人を食ったような発言が、関西人の醍醐味」くらいは自分も分かっている。上沼の発言にも、「大大大大大賛成!私もそう思う!!!」などエールは少なくない。

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それに対する上沼発言への批判は、冷静な言葉が多い。「会った事も無い人の事よくそこまで言えますね。必ずこういうの出てくるね」。「文句言うのは簡単やねん。自分とこたまたまなんにもないんかもしれんけど、頑張って死ぬ気で育てても、子供も十人十色やからね。親も初心者やし」。上沼は著名人ならもっと自分の発言の意味、影響力を考えてしかりだろう。

「子どもがいるくせに、子どもが犯罪を犯してしまった親の気持ちがわからないのか!?あなたならどうする?と聞きたい」。「親が子を守ろうとするのは当たり前のこと、後は司法に任せて、芸人は芸を見せればいい」。などの理性発言は、上沼のような感情が道を歩いてるような人間には無理。つまり、理性がない(=上沼に思考能力まるでないい)ブタの発言だ。

これくらいの芸歴のある人間だから、わざと問題発言をし、番組の存在度、周知度を高める意図もあるだろうし、スポンサーや制作サイドはそれが判っているから、取り立ておとがめもしない。芸能人は話題を振りまいてくれれば、それが視聴率に反映する。大阪人の節度は大阪人が判断するように、大阪人は、何を言ったら大阪人が喜ぶかを念頭において発言するようだ。

「よう言うてくれた」と、喜ぶ人は喜び、「言い過ぎだ」と責める人は責める。それが雑多な社会であるが、「節度」とは恣意的にならず、理性を加味すべきものと考える。自分も高畑親子に言及した。が、母親の言葉ジリや、息子の祐太の過去の言動を問題にする気はない。過去が良かろうが悪かろうが、人間がある日突然犯罪者になったりする事例を多く見聞きした。

イメージ 5人が何たかの事件を起こした後に、過去のアレコレが堰を切ったように噴出するさまは、あまりに子どもじみている。未来は過去の蓄積という部分もあるが、人はある日を境に別人になることもあるわけだし、後だしじゃんけんで得意がる卑怯者を自分は好まない。高畑母子批判の泉谷しげる、RIKACO、高橋真麻らに対する自分の批判は、下に示す通り理性的である。

泉谷の「歯ブラシくらい自分で取りに行けよ」は筋違い、会見場で「息子を怒れ!」一点張りのRIKACO、「父ならあんな言葉はでない」の高橋にも、母と比べるな。我々は他人の息子の母親に、どれだけのことが言えるだろうか?批判はしても、出過ぎた批判は自分の無知を露わにしたようなもの。したがって上沼自身の意図や思惑も含めて、彼女の「ブタ発言」とだけしておく。

同僚が長嶋一茂に、「長嶋茂雄ってお前の親父か?」と聞くことはなかろう。聞かずとも分かっていることだが、一茂の気持ちになってみれば、「何で自分の父は長嶋茂雄なんだろうか?」という苦悩はあったはずだ。上沼恵美子の息子たちは中高生の頃から「上沼恵美子の息子」と学友にからかわれることが多かったらしく、上沼恵美子自身が怒鳴り込んだこともあったという。

怒鳴り込むのが間違いともいわぬが、息子たちによくよく話して対処法を模索する方法はあったろう。親が乗り込んで解決するのは過保護では?まあ、上沼らしい行動だが、上沼はこのように子どもを諭したという。「この家に生まれたからあんたら他の家よりいい肉食べてるやろ」、「他の子らは行ってへんハワイに、あんたらは何回も行ってる」。これも子育てである。

親の言動は別の親から見れば批判はあるのは当然で、わざわざ他の親の批判をあげつらうことをしなくても、違いを認識するだけで糧にもなろう。ブログは自分の意見を書き、自分と問答・対話する楽しさがある。歩いているときも一人問答すればあっという間の2万歩だ。しかし、消えて残る問答内容を、ブログなどの文字にして残すのは後で読む楽しさがある。

自分の文を読むのは客観的で面白い。考えているときは主観だが、書いた文は客観的である。「こんなこと書いたのか?」と疑いながら読む。自分の意見に他人がいちゃもんつけても、違って当たり前だろ?と動じない。気にもしない。反対に、「共感します」と言うのもあるが、生まれも育ちも違う人間が、考えが違って当たり前のように、同じ考えに帰することもあろう。

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と、これも気にしない。考えが同じだからと言われて喜ぶこともないのは、違って気にしないと同じ理屈である。同じを喜び、違いを憎むなら論理の一貫性がない。違って当たり前の中で、同じ考えもあってしかりで、嬉しいレベルの問題ではない。社交辞令は言うかもしれぬが…。批判に動じないなら、賛同にも動じないでなければ、嘘をついていることになりはしないか?

どちらが先でもよいのだが、もし、他人の批判を気にしない、動じない生き方を目指すなら、とりあえず賛同に動じない訓練をするのがよい。褒めたのではない、たまたま考えが同じであるのを、それほど喜ぶのは可笑しなこと。が、折角褒めてるのにそっけないし、褒めて損した気分という人間は、見返りを求めて人を褒めない方がいい。他者への声なき称賛こそ真実かもしれん。


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